『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの③ [注:差別と偏見について]

 

 

(第4章は①から③まで)

 

 

好きなもの・欲しいもの・必要なもの①

好きなもの・欲しいもの・必要なもの② のつづき

 

 

■   インターネットの問題点

政治的二極化現象がインターネット以前から存在していたことは事実にしても、人々の政策の選好やその表現方法にSNSやインターネットがおよぼす影響が非常に大きいことは否定できない。これは好ましい現象とは言いがたい。

 

インターネットでは、信頼できるニュースソースが報道する前に、根も葉もない噂がでっち上げられて拡散しやすい。この場合、若い人ほどインターネットには嘘や誇張がはびこっていると知っていので鵜呑みにしないが、長年にわたりテレビを信用してきた高齢層はそうした噂を聞くとだまされやすいという傾向がある。

 

ほかにも懸念すべきことがある。第一に、SNS上でニュースが出回るようになると、信頼性の高いニュースの取材や制作が行われなくなることだ。フェイクニュースをこしらえるのはじつにお手軽だしコストもかからない。ある調査によると、フランスのニュース・サイトに掲載されたコンテンツの55%はよそからのカット&ペーストだったという。しかも出典を明記していたのは5%にも満たなかった。ジャーナリストのチームが丹念に取材して報道したニュースが瞬時に他のサイトにカット&ペーストされるとしたら、情報の発信元はどうやって報われるのか。

 

アメリカではこのところジャーナリストの数が減っているのも無理はない。2007年には5万7000人近くいたジャーナリストは2015年には3万3000人まで落ち込んだ。正しい情報を伝える 「公共空間」 の提供を使命とするジャーナリズムを支えてきた経済モデルは、急速に崩壊しつつある。こうして事実にアクセスできないとすれば、人々はますますフェイクニュースにどっぷり浸かることになる。

 

第二に、インターネットは無限の反復を許容する。エコー・チェンバー現象が問題なのは、同類の考え、つまり自分にとって心地よい意見ばかりに触れることだけではない。そうした意見に繰り返し繰り返しいつまでもさらされ続けることも問題である。

 

フェイクニュースの発信者は、まずフェイスブックを発射台に使う。と同時に、生身の人間にお金を払って 「いいね!」 をつけさせ、注目が集まるようにする。するとメッセージは繰り返され、拡散され、一人歩きをするようになる。これが際限なく繰り返されるうちに、冷静になってその情報が正しいかどうか確かめようと言っても、誰も聞く耳を持たなくなるというわけだ。

 

それどころか、最後に真実があきらかになっても、すでに偽情報に基づいて世論は真っ二つに分かれており、もはや取り返しがつかないこともめずらしくない。たとえば、トランプ大統領がメキシコ人についてのべつ口にすること(メキシコ人は麻薬の売人だとか強姦犯だという類)ばかり頭に焼き付き、移民の犯罪率とアメリカで生まれ育った人の犯罪率にさして差がないという事実は忘れられてしまう。

 

これほど効果的だとなれば、世の中に「もう1つの事実 [alternative fact]」つまりは虚偽情報を流したくなるのも当然だろう。2016年の大統領選挙では選挙運動期間中にトランプに好都合なフェイクニュースが115件もネット上に流れ、3000万回も閲覧された (クリントンに好都合なフェイクニュースもあったが、閲覧数は800万回にとどまった)。

 

第三にインターネットのコミュニケーションではとかく揚げ足取りやあら探しがされやすいため (ツイッターはとくにそうだ)、単純化した単刀直入な表現が好まれ、経緯や背景の説明が省略されがちで、注意深い慎重な議論の規範が失われつつある。その結果、ツイッターは汚い言葉や強引な宣伝の格好の実験場になってしまった。選挙コンサルタントなどは最も先鋭的な主張をまずツイッターで流し、反応を見て、すくなくともターゲット層で手応えがあれば選挙戦術に活用するといったやり方をしている。

 

第四に、インターネットでは自動的なカスタマイズが行われることも懸念すべき点だ。今日ではニュースを選ぶ必要がそもそもなくなってきている。高度なアルゴリズムが機械学習による予測技術を駆使して、検索履歴などに基づき、こちらから探す前に「あなたはこれが好きなはず」というものを差し出してくれるからだ。その目的は、端的に言って、ユーザーにできるだけ多くの時間をそれに費やしてもらおう、ということである。

 

フェイスブックは2018年に、ニュースフィードのアルゴリズムについて釈明と変更の約束を余儀なくされた。過激で挑発的な投稿ほどよく読まれると多方面から指摘さたことを受け、友人や家族からの投稿をメディアより上位に表示すると約束した。

 

だがフェイスブックにやってもらうのを待つまでもない。カスタマイズはいまやあたりまえになっている。公共ネットワークのナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)のアプリでさえ、自動化された音楽レコメンデーションサービスを提供するご時世だ。過去の履歴に基づいてあなたの大好きな(はずの)音楽を流してくれる。あれである。かくしてNPRは聴きたい音楽だけが流れるエコー・チェンバーそのものになった。

 

それのどこが問題なのか。大いに問題である。第一に、自ら選んだ場合にはすくなくとも選んだのは自分だということを意識するが、自動配信されたら何も意識しないことだ。たとえば自分のお気に入りのソースの記事を好んで読む人は、自分にある種のバイアスがかかりやすいことをそれなりに認識しているはずだ。自分が選んでいれば、このソースは右寄りだとか、左寄りだとかわかっているだろう。だがアルゴリズムにおまかせの場合、どのソースから収集してくるのかを気にしなくなるので、気をつけて読む必要も忘れがちになる。

 

 

■   一緒に走ろうよ

お互いの言うことに耳を貸さなくなったら、民主主義は意味を失い、選挙は次第に部族投票のような様相を呈して来るだろう。みんなが自分の部族に忠誠を尽くし、政治的主張を注意深く聞いて判断するのではなく、とにかく同じ部族の候補者に票を投じるようになる。そうなれば勝利するのは最大規模の部族の代表者または部族の取りまとめに成功した指導者だ。たとえそれが倫理的に疑わしい人物であっても、である。

 

いったん権力を掌握してしまえば、支配者は自分の支持者たちの経済的・社会的便益にすら配慮する必要がない。なぜなら、有権者は他の部族に優位を奪われることを極端に恐れるので、どんなにひどい指導者でも自分の部族出身者なら従うからだ。そのことをよく知っている支配者は、国民の間に恐怖を植え付ける。最悪の場合にはメディアを支配下に置いて反対意見を言えないようにしてしまう。ハンガリーのオルバーン・ビクトル首相がまさにそうだ。

 

ここまでに論じてきたように、他人に対する反応は自らの尊厳やプライドと深くかかわっている。人としての尊厳を重んじる社会政策でなければ、平均的な市民の心を開き、寛容な姿勢を生み出すことはできないのではないかと強く感じる。

 

心理学者のゴードン・オルポートは、1954年に「接触仮説 [contact hypothesis]」を発表した。適切な条件の下では、人同士の接触が偏見を減らすうえで最も効果的だという考え方である。他人と時間をともにすることで、相手をよく知り、理解し、認められるようになる。その結果、偏見は消えていくという。もしこれが正しいのなら、学校や大学は重要な存在になる。異なるバッググラウンドを持つ子どもたちや若者が、まだしなやかな心を持つ年齢のときに1つの場所で一緒に過ごすのだから。

 

デリーで2007年に導入されたある政策は、生まれも育ちも異なる子どもを一緒にすることの効果を雄弁に物語っている。この政策では、デリーのエリート層向けの私立小学校に貧困家庭の児童の入学枠を設けることを義務づけた。

 

この政策の効果を調べた秀逸な実験がある。実験では、貧しい生徒の入学枠が設けられている学校と、そうでない学校でランダムに選んだ子どもたちに、リレーのメンバーを選ぶ役割を与えた。また前者の学校では、さらにランダムに子どもたちを分け、一方は貧しい子どもと一緒の勉強グループに入れ、もう一方はそうしなかった。リレーのメンバーを選ぶ前にかけっこのテストを実施し、誰が速いか見きわめられるようにした。ただし選ぶには条件がある。メンバーに選んだ子どもと一緒に遊ぶ約束をすることだ。

 

結果は鮮烈だった。入学枠のない学校の富裕な家庭の子どもは、貧しい子をメンバーに選ぼうとしなかった。貧しいこの方が足が速かったのに、である。入学枠があり貧しい子をすでに見慣れている子どもは、たとえ貧しくても足の速い子を選んだ。その子と遊ぶことも別に苦にならなかったのだろう。そして、貧しい子と一緒の勉強グループにいる子どもは、一緒に走ろうと積極的に誘って遊んだ。慣れ親しんでいるというだけのことが、この魔法のような効果を発揮したのである。

 

 

■   ハーバード大学の入試は公正か

こうした調査から、教育機関における生徒の多様性は、それとして重要なだけでなく、個人の好みに長く続く影響を残す点でも非常に大切であることがわかる。ランダム化比較試験(RCT)の評価結果も、生まれや育ちのちがう生徒たちを混ぜ合わせることは、より寛容で包容力のある社会の形成にとってきわめて強力な手段になりうると結論づけている。だが最近では、アファーマティブ・アクションが二極化を助長するという見方も出てきた。

 

2018年頃、ハーバード大学はアジア系アメリカ人を入試で不当に差別しているとして訴えられていた。多様性を実現するという口実でアジア系入学者に人為的に上限を設けているというのである。トランプ政権は、あらゆる学校は入学選抜時に人種に配慮するのをやめるべきだと主張している。最高裁はこれまでのところは政権の圧力に抵抗しているが、この立場をいつまで貫けるかはわからない。

 

この種の議論では、「価値」という概念が重要な役割を持っている。試験の点数は、応募者がその大学なり仕事なりにふさわしい価値を持っているかどうかを判断する客観的な方法だという考え方がある。この観点からすれば、アファーマティブ・アクションは「価値のある」応募者をさしおいて「価値の劣る」応募者を優遇するのだから価値のある応募者に対する差別だということになる。だが本章で検討してきたことからすれば、この主張は成り立たない。

 

たまたま特定の集団に生まれついたというだけで長い間先生や監督者から虐げられ、蔑まれ、無視されてきた若者は、自己差別的な先入観を抱くようになり、自信を失い、試験の成績も悪くなる。それに家のあちこちに本があり、夕食の話題は数学や哲学だというような家庭に育った若者が大学入試で有利なのはあきらかだ。下位カーストの子どもが高校卒業試験で好成績を挙げるには、上位カーストにはなかった多くのハードルを飛び越えなければならない。したがって、上位カーストの子ども以上に多くを求められることになる。

 

この議論は結局のところ、そもそも人間の価値を決めるものは何なのか、ということに帰着する。人格評価は、アジア系であろうとなかろうとある種の志願者を排除し、エリートの伝統を受け継いで行くための装置だとみなすことは可能かもしれない。

 

その一方で、アフリカ系の志願者の人格評価はほぼ一貫して白人やアジア系より高いことも事実だ。このことは、先ほど述べたこととも一致する。ハーバード大学に入学するのはもちろん、出願するだけでも途方もなく学業成績が優秀でなければならない。したがって子どもの頃から不利な環境に置かれていた者にとっては、出願を考える水準に達するだけでも並外れた資質を必要とする。荒れた学校や勉学に不向きな家庭環境で努力を続けてきた若者の人格評価が高くなるのも当然とも考えられる。

 

この問題に誰もが満足する決着をつける方法はおそらくないだろう。次世代のリーダーを輩出する教育機関の代表格だと自任するハーバード大学には、あらゆる社会集団から広く学生が集まる場を形成する使命があり、何であれ、1つの集団の占める比率が総人口に占める比率に比して甚だしく高くなる事態は避けたいところだ。それはおそらく民主主義にとっても好ましくないし、政治的な問題にも発展しかねない。

 

アファーマティブ・アクションのあり方について、私たちはもっと本質的な議論を社会に巻き起こすべきだろう。現時点では問題が人種を巡る差別に矮小化されており、まったく望ましくない。ハーバード大学の1件は起こるべくして起きた問題であり、社会が自己矛盾に向き合う機会を提供したという意味ではむしろ歓迎すべきことかもしれない。

 

オルポートの接触仮説では、接触が偏見を減らす効果を発揮できるのは、一定の条件が満たされたときだとされている。接触をする時点で集団同士が対等の関係であること、共通の目的があること、集団間の協力が可能であること、監督機関や法律や慣習などの後押しが得られることなどだ。敵対関係にある集団を強制的に一緒にしても、接触の好ましい効果は得られない。たとえば同じ高校で、白人の生徒たちが大学受験でアフリカ系と競っていると考え、白人は受験で不当に不利な立場に置かれているなどと思い込むようであれば、アフリカ系に対する怒りは募る一方になるだろう。

 

 

■   クリケットの教訓

最近行われた実験でも、こうした懸念が浮き彫りになった。この実験では、インドのウッタル・プラデシュ州で8か月にわたりクリケットのリーグ戦を実施した。若い男性ばかり1261人の選手の中からランダムに800人を選び、さらにランダムに3つのグループに分けた。第一のグループは同じカーストでチームを編成し、第二、第三グループは異なるカーストに属す選手の混成チームを編成する。

 

他の実験と同じくこの実験でも、接触の好ましい効果が確認された。混成チームでプレーする若者は、実験終了後も他のカーストと、それも同じチーム以外であっても友達付き合いをする傾向が認められた。また試合のためのメンバー選びをさせると、カーストは無視して実力で選手を選ぶことも確認できた。

 

ところが、対戦相手が問題になることがわかった。混成チームが単一カースト(仮にダリットとしよう)のチームと試合をすると、チーム内のダリットの選手との協力関係が壊れ、もうあいつと一緒のチームはいやだと言い出す選手まで出現した。同じカースト同士で試合をする場合にはそういうことは起きない。競争は接触の効果を弱めるのである。

 

これはいささか落胆させられる結果だが、ここから重要な教訓を導き出すことができる。接触だけでは、寛容生み出すには不十分化もしれない、ということだ。おそらく共通の目的を持つことが重要なのだと考えられる。

 

 

■   居住区の住み分けモデル

大学で学生を混ぜ合わせることに限界があるとすれば、居住区はどうだろう。だがノーベル経済学賞を受賞したトーマス・シェリングがユニークな机上実験で示したように、居住区には不安定化する傾向があるという厄介な問題がある。

 

仮に白人と黒人が混ざり合って平和に暮らしている居住区があるとしよう。この居住区では白人、黒人、どちらも圧倒的多数ではない。が、ある日たまたま白人の家族が出て行き、今度はたまたま黒人の家族が引っ越して来た。すると白人は落ち着かなくなる。もしあと何軒か白人の家族が出て行ったら、白人は圧倒的少数派になってしまうと心配する。この緊張はもう耐えられないと思った時点で、出て行ける人は出て行くことになる。白人と黒人を逆にしても同じことだ。シェリングはこの耐えられなくなる限界を転換点 [tipping point] と呼んだ。

 

デビッド・カードはアメリカに1970年代、80年代、90年代に起きた居住区の分離現象を調査し、たしかに転換点らしきものが存在することを突き止める。たとえばシカゴではこの転換点が非常に低い。1970年の時点で同じ居住区に住む黒人の比率が5%以下だった地区では、その後もその比率が保たれたが、すこしでも5%を上回ると白人が出て行き、今後は白人の比率が急激に落ち込むことがわかった。全米の各都市の平均を計算すると、転換点は12~15%だった。

 

となれば分離を防ぐためには、低所得層用の公共住宅を都市部の全域に分散させ、どこにも同一集団(富裕層、貧困層、移民など)だけの居住区を作らないようにすればいい。私たちが数年ほど住んでいたパリのある地区では、私たちのアパートの隣には公共住宅があった。同じ地区の子どもたちは同じ学校へ行き、同じ公園で遊ぶ。その年齢の子どもたちはあきらかに同じ世界で暮らしていた。

 

シンガポールでは、民族統合政策の下でどの住宅区画も異なる民族(中国系、マレー系、インド系など)がある程度混ざり合うように厳格な割当制が敷かれている。これほど大胆な政策を採用するのはむずかしいにしても、区画ごとに公共住宅用地を確保することは十分可能だと考えられる。

 

とはいえ近い将来には、まだ貧しい人々は貧困地区に集中して住んでいることだろう。となれば、人々の融合を図るにはやはり学校を活用するのがよいということになる。だがそのためには子どもたちを居住区から離れた学校に通わせる必要が出てくる。

 

アメリカでは大都市圏教育機会評議会(METCO)が、インナーシティの低所得地区に住む子どもたちを対象に、希望すれば郊外の学校へ通えるよう支援している。これまでのところ、通う側と受け入れ側双方にとって有益だと報告されている。とくに受け入れ側の学校の子どもたちは、それまで白人ばかりの環境で暮らしていたわけだが、多様なバッググラウンドを持つ子どもたちと接することで世界観や好みに変化が現れたという。

 

 

■   4つの教訓

偏見あるいはその根っこにある好み(社会的選好)は、現代の病理の原因である以上に症状なのだ。いまの世の中はまちがっている、自分は不当に不利益を被っている、自分は尊重されず見捨てられている――そう感じさせる多くのことに対する防衛反応が、差別や偏見の形で表現されることが多い。

 

この考察から重要な学びが得られる。第一に、差別的な感情を露にする人、人種差別に共感する人、あるいはそうした人に投票する人を軽蔑したり見下したりする(「嘆かわしい」 など)のは、感情を逆なでするだけである。差別的な感情は、この世界で自分は尊重されていないのではないかという疑いに根ざしていることを忘れてはいけない。

 

第二に、偏見は生来の絶対的な好みとはちがう。いわゆる人種差別主義者と呼ばれる人にしても、差別以外の問題にも関心がある。最近では、アメリカでいささか驚くべき現象が起きた。医療保険制度改革法いわゆるオバマケアは、「あの黒人でケニア出身のイスラム教徒のオバマ」 [実際にはハワイ出身のキリスト教徒] が積極的に提唱した制度として、共和党色の濃い多くの州で忌み嫌われてきた。オバマケアの下では低所得層向け医療保険メディケイドの対象範囲が拡大されたが、共和党出身の州知事の多くがこれを拒否したという経緯がある。

 

だが2018年の中間選挙が近づいてくると、メディケイドの範囲拡大が争点の1つとなる。こうした背景から、共和党支持者の多いレッド・ステート州(ユタ、ネブラスカ、アイダホ)が拡大を承認した。またカンザス州とウィスコンシン州では、メディケイドの対象拡大に賛成する民主党の知事が誕生した。これらの州の住民が突然民主党支持に回ったわけではない。彼らは相変わらず共和党の議員に、場合によってはかなり保守的な思想の持ち主にも投票している。だがメディケイドに関する限り、住民は自分たちの理解に基づいて自分にとってよいと考えたほうに票を投じたということだ。経済的判断がトランプに勝ったわけである。

 

第三に、たとえ有権者が人種や民族や宗教に基づいて投票するとしても、いやそれどころか人種差別を唱える人物に投票するとしても、その主張に熱烈に賛同しているわけではない。カースト政治のはびこるウッタル・プラデシュ州で2007年に行われた選挙の際に、アビジットのチームは投票のおよそ10%をカースト政党から引きはがすことに成功した。使った道具は、歌と人形劇と街頭演劇だけである。どれもたった1つの単純なメッセージを発信した。「カーストではなく開発を考えて投票しよう」。

 

ここから、最後のいちばん重要な学びが得られる。差別や偏見と闘う最も効果的な方法は、おそらく差別そのものに直接取り組むことではない。ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせることだ。大きなことを公約し、大掛かりな政策を打ち出す政治家は、往々にして竜頭蛇尾 [始めは威勢がいいが、終わりは勢いがなくなること] に終わる。大きなことをやり遂げるのは容易ではない。私たちは政策議論に対する信頼を取り戻し、無能力を大言壮語でごまかすばかりが政治ではないのだと証明しなければならない。そして言うまでもなく、多くの人がいま感じている怒りや喪失感をいくらかでも和らげるためにできることを試みなければならない。ただしそれは容易ではなく時間もかかると認識している。

 

 

第1章で述べたが、これが本書で私たちが始めた長い旅路である。旅の最初で取り上げたのは、多くの人が知っている問題――移民と貿易だった。だがこれらの問題でさえ、経済学者は十分な説明もなく留保条件もつけずに断定的な答を出す癖がある (移民はよいことだ、自由貿易はよいことだ・・・・・・)。これでは人々の信頼は得られない。

 

しかもこれから取り上げるのは、経済学者の間でも異論の多い問題――経済成長、気候変動、不平等である。これまでの章と同じく、この先も私たちは問題をありのままの姿で捉える姿勢を貫きたい。これらの問題は私たちの将来(そして現在も)を考えるうえで外すことはできない。経済成長、気候変動、不平等を取り上げずしてよい経済政策を語ることなど不可能である。

 

これらの問題のすべてで、人々の好みが果たす役割は大きい。人々は何を必要とし、何を欲しがっているのか、そして何を好むのかを考えずに問題を論じることはできない。とはいえ本章で論じたように、欲しいものが必要なものだとは限らない。

 

人間は、社会保障番号に引きずられてワインに値付けをするようなところがあるのだ。それに、必要なものが欲しいものとは限らない。たとえばテレビは必要なのか、欲しいのか。これらの要素はこの先の章でも、ときに暗黙のうちに、ときに明示的に、議論の中で、また世界の見方においても重要な役割を果たすことになる。

 

 

第5章 成長の終焉? につづく