『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 貧困の測定と評価 ◇

 

 

 

第3章 ①厚生の測定

 

(第3章は①から⑤まで)

 

 

貧困と不平等のほとんどの指標の基礎になるのは、個人の厚生の概念である。経済学では、通常、 「厚生(welfare)(もしくは、ここでは同義に用いられる 「well-being」)は、 「ある人が気にかけるすべてのこと」 の主観評価である 「効用」(utility)と同一視される。

 

経済学者はしばしば、それらのことが何であるのかを、行動、とりわけ市場での売買にあたっての選択、に基づき推測しようと試みてきた。しかし今日では、市場における行動から得られるデータだけでは不十分であると認識されてきている。

 

貧困の記述と規範判断における主張において、厚生についての考え方の相違が大いに重要である。

 

 

 

3・1  厚生の諸概念

 

 

厚生の測定に関する諸アプローチは、個人の厚生についてのその人自身の判断をどれだけ重視するのか、という点で異なる。それらはまた、どのような要因を単一の指標に反映させようとするのか、という点でも異なる。個人の厚生の決定要因の一つとして世帯の消費可能性(command over commodities)があることには、極めて広範な合意がある。しかし、厚生がその他のものにも依存することも、広く合意されている。

 

主に論争の的になっているのは、その他のどのような要因が関係するのか、そしてそれらにどれだけのウェイトを与えるべきか、についてである。また、 「絶対」 貧困ないし 「相対」 貧困の概念についてどう考えるかという点での違いもある。実際に用いられている諸指標の間の違いを理解し、またそれらを比較して強み弱みについての判断をするのは、それらの指標の概念上の基礎を理解する必要がある。

 

 

■   厚生主義(Welfarism)

社会の進歩全般のモニタリングと政策の評価に関する経済学での通常アプローチでは、対象とする人口集団における個人の厚生水準のみに依拠しようとする。社会の状態は個人の厚生水準によって(のみ)判断される (これは、しばしば 「個人主義」 と呼ばれる)。

 

しかし、 「厚生水準」 とは何を意味するのだろうか。厚生主義の一つの考え方では、厚生比較や公共政策決定において参照されるべきなのは、(選択を通じて最大化されるものと定義される)個人の効用のみである、とされる。

 

この種の厚生主義の重要なメッセージは、個人の厚生を評価する際に、人々自身の選択を導く選好に背反するような(inconsistent)判断は避けるべきである、というものである。したがって、この種の厚生主義は、パターナリズム、すなわち、たとえ本人が同意しないとしても、その人にとって何がよいのかを他の誰かがわかっている、という想定、に根本から反対する。各個人は自身の効用を最大化する合理主体である、と想定される。

 

このアプローチでは、人々の厚生を評価する際に、選択され消費されるすべての財が考慮に入れられるが、それにとどまらない。経済学における 「効用」 とは人々が気にかけるすべてを対象とする。市場で取引されている財のみを考慮に入れるというのは、あまりにも狭い限定であり、正しくない。しかし、このような厚生指標は、人々が非市場財にも関心を持つ限りにおいて、不完全なものである。

 

効用に基づくアプローチは、消費者合理選択モデルに依拠する。このアプローチの中心をなすのは、 「効用関数」 という考えである。効用関数は、効用に基づく厚生主義において、二つの異なる役割を果たす。第一に、それは、購入可能なさまざまな消費バンドル(財の束)についての消費者の選好の便利な表現である。消費者は、これらの財の束を最善から最悪まで順序付けることができ、実現可能な選択肢の中で最善なものを選ぶ、と想定される。この第一の役割において、効用関数は消費者の選好を表す分析上の便利な方法にすぎない。第二の役割では、効用関数は、時間の経過もしくは政策変化の後で、ある人がより良い状態にあるかどうかを評価するために、また人々の間で厚生を比較するために、十分な情報を提供すると仮定される。

 

「効用」 は観察できるものではないという反対がある。これはその通りであるが、 「所得」 といったなじみのある金銭表示での厚生比較を進めるために、この考えを用いることができる。しかしそのためには、観測値に基づく指標が効用の概念と適合するように設定(calibrate)されていることが、確保されなければならない。

 

金銭表示であり効用と適合する指標は、 「効用の金銭指標」 と呼ばれる (等価所得 [equivalent income] と呼ばれることもある)。これは、参照価格と個人の特性を所与として効用と等価である所得を見出すこととして、理論上は容易に定義することができる (この概念については第4章で立ち返る)。

 

より大きな問題と考えられるは、厚生に影響する非市場特性が人々の間で不均一であることである。同一の消費バンドルから得る効用は、人によって異なる。高齢、障害、寒冷地住居、公共サービスの不備、といったさまざまな要因があれば、同じ効用水準に達するためには、ある種の市場財がより多く必要とされるであろう。

 

このような不均一さがあると、個人間で比較可能な効用指標を客観測定できる需要供給行動のみから推測することはできない。市場行動に適合する効用関数を見出すことはできるであろうが、それは唯一のものではない。そのような関数は多数あり、個人の特性に対応して異なる。したがって、不均一な人々の効用を推測するのに需要と供給の行動を観察するだけで足りる、という考えは明らかに妥当でない。

 

消費可能財がどのように厚生に転換されるかが人により異なると、厚生を評価するための情報基盤を、市場で観察される行動を超えて拡大することが不可避となる。すなわち、人々の厚生に関連する情報としてのケイパビリティや厚生の主観評価など、経済学の伝統では好まれない種類のデータが求められる。これらについては後ほど立ち返る。

 

ここまでの考察から、次のことが明らかになった。すなわち、ある人が他の人より良い状態にあるかどうかを決める際に、消費者の選択から得られる効用に依拠すべきである、という厚生主義者の命題を実行に移すのには深刻な問題がある、ということである。

 

問題は、所与の選択から得られる効用が人により異なりうること、から生じる。これは、人々の実際の選択に関してどれだけ多くのデータを集めても解決しえない、 「深い」 問題である。実際上において、ある人が他の人よりも良い状態にあるかどうかを決めるには、外からの判断が必要である。

 

厚生主義に取って代わるものは何であろうか。それらについて、支持ないし反対のどのような議論がなされているのか。それらの代替アプローチは信頼できる厚生の指標を特定するために役に立つのか。以下では、このような問いに答える。

 

 

■   厚生主義の拡張と代替

貧困評価は、時として十分な栄養状態にあるといった、ある種の基本の達成に基づくことがある。どれだけの人が健康や日常活動のために必要な栄養量に達していないかなど、特定の形態の欠乏(deprivation)に注意を向ける。欠乏の他の例として、居住状態、上下水、耐久消費財の所有、などに関連したリストが作られることもある。このようなアプローチでは、消費者の選好には何の役割も与えられない。

 

二つの懸念が生じる。第一に、どのような側面が重要かを決める、(そして、必要がある場合に)例えば食料と衣料といった異なる財を価値付けする際に恣意が働くことがどうしても気になる。第二に、このようなアプローチは、過度に押しつけがましい(paternalistic)という懸念がある。専門家が、 「何があなたにとって良いかをあなた自身よりもわれわれのほうがよくわかっている」 と言っているに等しい。

 

これらの議論には、第2章で論じられたロールズの考えと通ずるところがある (Rawls 1971)。最も恵まれない集団を特定するためには、基本財に基づく何らかの指標が必要とされる。 「多ければ多いほど良い」 と知るだけで十分かもしれないが、おそらくはトレードオフがあり、選好についての仮定が必要とされるであろう。ロールズはこのことを認識していたが、最も恵まれない集団の選好のみに注意を向ければよいと主張した。

 

先に論じたように、人々が不均一あるので選好を特定するのは簡単なことではない。そして循環論の問題がありうる。重要なのは貧困層の選好であるというロールズの主張に同意するとしても、誰が貧しいかを把握するには選好について仮定しなければならないだろう。第4章で見るように、この問題に対処する方法はある。

 

利用できるデータの欠陥を認めるならば、特定の欠乏についての観察が広義の厚生主義のアプローチの中で重要な役割を果たしうる。この点については、3・3節で立ち返る。

 

 

■   ケイパビリティ

効用に基づく旧来からのアプローチと特定の欠乏に注目するアプローチの両方への一つの代替案がアマルティア・センによって提案された。センは 「効用」 を厚生の唯一の指標であるとする考えを受け入れない。センは、特定の欠乏であれ所得のみであれ、関心の焦点を狭く絞る非厚生主義の定式化もまた受け入れない。

 

それらとは違って、センは次のように論じた。 「厚生」(well-being)とは、文字通りよい状態にあること、つまり、長く生きられること、栄養状態が良いこと、健康であること、読み書きができること、などである。センが述べるように、 「生活水準の価値は生き方(living)にあり、財の所有にあるのではない」 (Sen 1987, p.25)。センの見方では、それ自体として価値が認められるのは、人々が持つ、機能しうるというケイパビリティである。 「貧困」 とは、ケイパビリティの欠如である。

 

財についての選好が人により異なることを考慮に入れるならば、ケイパビリティ・アプローチを厚生主義と折り合いがつくように解釈することも可能である。ここで求められるのは、ケイパビリティを直接に効用を生み出すものと考えることのみである。ある人の効用は、達成できるファンクショニングのみで決まり、ファンクショニングは所得、価格、そしてその人の属性によって決まる。

 

厚生はケイパビリティのみで決まると合意する、としよう。その場合でも、ケイパビリティが少しでも所得に依存する限り、 「ケイパビリティ貧困」 を測定するために、所得に基づく貧困指標を用いることができる。所得が多いほどより多くのことができる――還元すれば、実現可能なファンクショニングの集合が拡大する――と仮定することは、理に適っている。

 

ケイパビリティ・アプローチで貧困とみなされないために到達されるべきケイパビリティ厚生の臨界値があるであろう。ある人がその臨界値に到達するのに必要とされる所得水準があるであろう。そのような所得水準を貧困線として設定すればよいのである。

 

したがって、問題は、所得に基づく貧困指標を用いるかどうかではない。原理上、ケイパビリティ・アプローチと完全に折り合いがつくように、指標を作製することができる。問題は、貧困線が満たすべき厚生水準を現行の価格の下で達成するための費用を適切に反映しているかどうか、である (これらの問題については第4章で立ち返る)。

 

「ケイパビリティ」 は観察可能だが 「効用」 はそうではない、という議論がなされることがある。これもまた的外れである。比べるべきは、ケイパビリティと効用ではなく、ケイパビリティと消費であり、消費を測定するのは難しくない。ケイパビリティの異なる人を比較する際に、時として(ひょっとしたら頻繁に)ファンクショニングのそれぞれにどのようにウェイトを付けるかを決めなければならない。そのためには効用関数が必要である。いずれのアプローチでも、厚生は消費と個人の属性に依存する。その点では違いはない。

 

 

■   厚生への社会関係の影響

人々が厚生について異なった考え方をすることの根底には、さらにもう一つの事柄がある。 「社会ニーズ」(social needs)と呼ばれるものである。経済学の伝統として、貧困を評価する際に、その人の人間関係を明示して扱うことはない。

 

これとは異なる見方として、人々はそれぞれの状況に応じて人間関係にまつわるニーズを持ち、貧困は 「関係からの排除」(social exclusion)から生ずる、とするものがある。排除には、ある活動(雇用されることなど)に加わることができないという明白なものがあるが、それだけでなく、相対欠乏 (relative deprivation:その人が暮らす社会で他の人と比較して貧しいこと)、あるいは、将来の進展の機会が欠如しているとの意識、といった性格のものもある。

 

厚生に対する社会関係の影響は、貧困の測定に関する厚生主義とケイパビリティの両方のアプローチに含まれる。アンソニー・アトキンソンとフランソワ・ブルギニョンにより、単純だが魅力ある以下の定式化がなされた (Atkinson and Bourguignon 2001)。

 

生きるために絶対に必要とされる 「生存ニーズ」 と社会・経済活動に加わるために求められる最低限の 「社会包摂ニーズ」 の両方を得ることができるならば、その人は貧しくはない、というものである。

 

「相対欠乏」 の考え方は、厚生や貧困指標についてわれわれがどのように考えるかとも関連する。相対地位が人々の厚生にとってしばしば重要であることには、厚生主義の立場を取るかどうかにかかわらず、多くが同意する。

 

厚生主義であれば次のように論ずる。 「自身の所得」 を所与として、周りの人の所得が自分よりも高い場所に住むときのほうが、すべての人の所得が自分より低い場所に住むときよりも、その人の効用は低い。前の場合には、相対欠乏の不効用を経験する (厚生主義でない論者は、前の場合には社会・経済に参加するためのケイパビリティが減少する、と指摘するであろう)。しばしば、相対地位をどれだけ重視するかが、貧困についてどのような結論が引き出されるかに大きく影響する。

 

おそらく、ケイパビリティ・アプローチの最も重要な貢献は、財を厚生に変える能力は世帯によって異なるという事実を明示して認識したことであった。これは主流の厚生主義アプローチにも内在したが、実施にはしばしば極めて単純化され、厚生に関係する非所得要因の不均一さを無視するに等しかった。厚生をケイパビリティの次元で考えることで、この誤りを避けることができる。

 

 

■   機会

厚生主義に代わるもう一つのアプローチは、 「機会」の考えから生まれた。 「機会の不平等」(inequality of opportunity:INOP)の考えには長い歴史がある。第1章で学んだように、18世紀の後半に不平等に対する注目が高まった際に、問題とされたのは結果の不平等よりも機会の不平等のほうがはるかに多かった。それ以降、政治上の左派と右派の両方で、機会の平等を進める努力が主張された。

 

ジョン・ローマ―は、個人のコントロールを超えた境遇(個人自身の選択に帰することができない事柄)に起因する不平等についてのみ考慮する必要がある、と主張する (Roemer 1998)。そのような境遇の例として最も多く挙げられるのが、親の教育水準である。

 

INOPアプローチの支持者によれば、結果の不平等は、それが個人の努力を反映する限り問題ではない。努力は、境遇に依存する選択変数であるとみなされる。このアプローチでは、不平等と貧困を評価するための厚生指標は、所得あるいは消費のうちで境遇に帰することができる部分でなければならない。これは、しばしば、境遇を表す諸変数を説明変数として所得の回帰式を求めることで推計される。

 

INOPアプローチでは、境遇を表す諸変数を用いる所得の回帰モデルに基づき、機会の不平等が測定される。所得は努力にも依存することは認められているが、努力は本人が自ら選択するものであり、したがってそれは境遇により決められる、と論じられる。したがって、このアプローチの研究で用いられる所得の回帰式は境遇諸変数についての 「誘導形」 として解釈されうる。

 

しかし、その回帰式が与える予測値は、一般には、効用に基づく厚生主義アプローチとは異なる、ことを注意しなければならない。後者のアプローチでは、境遇を所与として最適な努力によって達成される最大効用を金銭表示して、厚生指標として用いる。

 

INOPアプローチでの厚生の判定は、当事者自身による判断と食い違うことがありうる。境遇のみ依存する厚生指標という考えは、実際適用する上でも問題がある。これらの問題に関しては3・3節で立ち返り取り上げる。

 

 

■   控えめな目標

本節では、厚生について考える際の概念上の諸問題を検討した。 「厚生」 に関連するすべてを包括し、しかも実際適用できるような、理想の指標は存在しないようである。 「経済厚生」 を測定し貧困をそのように限定した側面で定義する、というような控えめな目標を立てるほうがよいであろう。個人の消費可能性の不足が社会の進展にとって重要な側面であることに同意する限り、 「経済厚生」に限定して貧困と不平等を測定することは妥当であると考えられる。

 

 

②につづく