『貧困の経済学 上』 マーティン・ラヴァリオン著 柳原透監訳 (2018年9月20日第1刷)

 

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 貧困の測定と評価 ◇

 

 

 

第3章 厚生の測定④ (第3章は①から⑤まで)

 

 

厚生の測定①

厚生の測定②

厚生の測定③ のつづき

 

 

 

*   3・3  代替指標の理論と適用 からのつづき1

 

 

■ 食料シェア

予算に占める食料の割合は実質総消費支出が増えるにつれて減少する傾向がある。この観察に基づき、食料予算シェアを生活水準の逆の指標として用いることがしばしば正当化されてきた。しかし、食料シェアを厚生指標として用いることにはいくつかの懸念もある。

 

食料予算シェアと1人当たり総消費との関係は一般に世帯間で異なる。そのような不均一さを生む要因としては、相対価格、ある種の財へのアクセス (娯楽や外食は都市部のほうがはるかに簡単である)、世帯構成、仕事の種類 (どの程度のカロリーを消費するか)、天候 (寒冷地では食料シェアが下がるかもしれない)、選好、の相違など数多く存在する。

 

これらの相違があるため、価格指数の設定での援用の場合も含めて、食料シェアを実質消費の指標として用いることは、妥当とは考えられない。同一の総支出額の下で食料支出額が地域により異なるとき、それが(生計費指数の設定において求められるように)価格水準の違いのみを反映していると結論付けることは明らかに不適切である。また、貧困世帯の食料需要の所得弾力性は1に極めて近いかもしれず、そうだとすれば食料シェアはかなり不安定な指標といえる。

 

予算シェア(食料シェアを含む)の慎重な分析が、厚生分析にとってまったく役に立たないというわけではない。異なる種類の世帯を比較するとき、需要行動のみから厚生指標を導出する上での識別問題が大きく立ちはだかる。これに対処する1つのアプローチは、同一の種類の世帯について需要分析を行い厚生指標を導出することである。異なる種類の世帯の間での比較は(とりわけ健康や栄養といった)ファンクショニングの達成などの外部情報、あるいは厚生の自己評価に関する観察、を基にする必要があろう。注意深く用いることで、予算データは生活水準を見る上で役に立ちうるのである。

 

 

■   栄養指標

通常の理解では、低栄養と貧困は別個の概念であり、それぞれ違った厚生指標が対応する。低栄養については栄養摂取量(主に食料エネルギーであるが微量栄養素も含まれる)であり、貧困については消費全体(栄養価値以外の食料の性質や食料以外の消費も含まれる)である。したがって、いささかぎこちない言い方ではあるが、低栄養を 「食料エネルギー貧困」 と見て同様の方法で測定することができる。

 

栄養摂取量を厚生の指標として用いることには賛否両論ある。食料シェアと同様に、インフレ率が高い国や適切な価格データがない国では、実際上の強みがある。食料エネルギー摂取量の分布とデータはインフレーションを調整する必要がない。しかし、その反面、栄養は厚生の1つの側面にすぎない。低所得国でさえ、主食の消費が高いウェイトを占めるとしても、そのウェイトは決して1にはならない。

 

消費行動は厚生指標にとって不完全な指針でしかない、という主張がありうる。人々が栄養摂取に与えるウェイトは、 「自身にとっての価値よりも低い」 と考えられるかもしれない。しかし、人々が常に自身の厚生に対し最も良い判断を下すと仮定する厚生主義の主張を時として疑いうるのと同様に、消費者行動を無視するどのような生活水準の指標に対しても疑いの目を向けるべきである。

 

この問題に関して不確実さがあるのは明らかであり、それを前提とすると、唯一の賢明な解決策は、低栄養のような非厚生主義の指標と厚生主義の指標の両方をモニターすることのようである。貧困比較に際してこれら2種類の指標が異なる判断を導くときにのみ、問題をさらに探求する必要がある。そのような必要があれば、顕示された選好が厚生に反する理由について、非厚生主義の立場からの説得力のある見解が示されることを期待する。

 

例えば、等価尺度との関係で先に論じた世帯内の不平等といった消費行動が、厚生を反映しない理由はあるのであろうか。それは不完全情報の問題であろうか (そうであれば、教育政策への示唆を提起しうる)。もしくは、非合理さ(例えば認知の不協和のため)や合理選択をする能力がないこと(自身にとって何が良いことなのかわからない年少者に代わって健全な選択をする人がいない場合など)といった、より根本の問題なのであろうか。

 

このコメントは、子どもの年齢に対する体重(weight-for-age)もしくは 「身長に対する体重」(weight-for-height)といった身体測定指標にも妥当する。これらの指標は個人の栄養必要量の設定の不確実さを避けることができるが、同様の不確実さは身体測定指標の基準値の設定に際しても見られる。また、これらの指標は、世帯内での生活状況を明らかにすることができるという強みを持つ。

 

しかし、これらの指標についてさらにもう一点指摘がある。栄養学者を含む一連の見解によれば、広い厚生の概念を踏まえると、栄養必要量を示すために子どもの身体測定指標を用いることには疑念の余地がある。例えば、子どもたちの一見適切な身体成長率の維持が、遊ばないことで低い食物エネルギー摂取量の水準で起こることが時としてある、ことが見出されている。明らかにこれは、どのような子どもにとっても食料に関連する深刻な欠乏である。ここでもまた、貧困比較をするときに、個人の 「厚生」 の概念をあまり狭く捉えないように注意しなければならない。

 

 

■   定性方法と混合方法

定性と定量の方法の違いは、場合によっては、求めるデータの種類の違いを反映する。例えば(ほとんど無関係な)個人を対象とした標本調査は、人々の間の社会関係の研究に用いるには明らかに限界があるだろう。目的に合わせて選ばれた小規模標本を用いる定性研究は、村などについて地元で一般に知られている事実を明らかにするには非常に有効でありうるが、貧困や不平等を測定するためには不適切であることは明らかである。 「純粋な」 定性方法と定量方法の間に出現したどちらとも言えない領域があり、その中には、両方の手法をしばしば独自に組み合わせるさまざまな混合方法がある。

 

拠って立つ方法論上の立場にも違いがある。 「因果関係」 の概念は定量貧困分析の伝統の基礎であり、政策ないし社会経済変化の厚生と貧困への影響を(第Ⅲ部でさらに論じられる)定量化する数えきれない試みに、そのことは明らかである。この違いも実際にはそれほど明確ではなく、貧困の定性研究で因果帰属が試みられることは普通に見られる。その際に直面する問題は、定量と定性のどちらの研究方法を用いるかで異なることはないようである。納得がいくように因果関係を特定するためには、定性研究であっても、定量研究に適用されるのと同じ水準の厳密な推論がなされねばならない。さもなければ、知識の進歩は幻影に終わるかもしれない。

 

時として語られるもう1つの違いがある。それは、社会科学研究の目的に関するものである。定性研究の中には、参加者のエンパワーメントに貢献しようとするものがある。そのような伝統は定量研究にはないが、定量方法が同様のアドボカシーの役割を果たすことはある。第Ⅰ部で見たように、当初から、世帯調査は貧困との戦いに世論を動員するために用いられてきた。このことは、分析の質と、分析が果たす何らかの政策上のないし実践上の役割と、両者の間のトレードオフがあるかどうか、という重要な問題を提起する。そのようなトレードオフの存在を、アドボカシーの役割を務めようとする定量分析に、時として見られることがある。

 

このように、定性と定量の2つの間の隔たりは、方法論上の論争から受ける印象ほどに大きなものではない。現在の最も優れた実践では、賢明な選択がなされ、しばしば異なる方法が組み合わされて用いられる。それでも、いくつかの重要な違いには注意すべきである。調査に基づく客観貧困評価と定性研究に基づく現場での知見(当事者による自己評価であれ、訓練を受けた観察者による評価であれ)との間に食い違いがあることが、しばしば報告されている。

 

当事者評価の例を1つ挙げよう。ロシアの全国標本調査において、成人のおよそ30%が自分自身を主観による 「厚生のはしご」 の最も低い2つの段に置く一方で、これらの人々の約半分のみが、貧困線未満の所得を持つ世帯に属する30%の成人の中にいた。自身を 「貧しい」 と思うかどうかは従来の貧困統計では捉えられないし、逆もまた真である。

 

次に、訓練を受けた観察者による評価の例を1つ挙げよう。北インドの村における貧困についての、1年間在住した調査社の観察に基づく主観評価を用いた研究がある。そこでは、1年間の観察と村民との議論に基づいて、研究者たちは、彼らの調査対象村で、土地なし農業労働者のほぼすべて(99%)が上記の人類学調査法で 「貧しい」 ほうに分類される、ことを見いだした。しかし、25年にわたる4回のインタビューから得られたその時々の所得の平均に基づく恒常所得の指標を用いたときには、54%のみがそのように分類された。研究者たちの貧困に対する認識が、所得データが示すよりもはるかに強く土地なしであることと結びつけられている、ことは明白である。

 

研究者たちは、貧困についての特定の特徴づけに囚われているかもしれない。例えば、インドの村の貧しい人々は、土地を持たず、不完全就業である、という想定が広く抱かれている。しかし、そのような想定は現実にはそれほど適合しないかもしれない。

 

定性データには、人々の厚生に関して通常の定量データでは見つけることができない手がかりが含まれることもある。経済学者(そして、他の社会科学者の一部)は、伝統として主観データを用いないできたが、重要な例外もあった。

 

初期の例としては、所得評価質問(Income Evaluation Question:IEQ)がある。IEQでは、回答者に、所得額を 「とても悪い」 「悪い」 「よくない」 「悪くない」 「よい」 「とてもよい」 とみなすかを訊ねている。IEQの回答は、効用関数を特定するためにファン・プラークと後続の研究者によって用いられた。この方法の適用例として、最低所得質問(Minimum Income Question:MIQ)がある。これは、どれだけの所得が 「生計を保つ」 ために必要かについて訊ねる。第4章では、貧困線の設定におけるこの方法の応用について述べる。

 

所得ベースの指標から完全に離れて、厚生の自己評価を代わりの厚生指標として用いる、自由度の大きいアプローチが出現した。よく用いられるものでは、 「幸福」 や 「生活全体の満足度」 について、人々に自身がどのような位置にいるかを訊ねるものがあり、しばしば 「キャントリルのはしご」(Cantril ladder)を呼ばれる。これは恐らく、貧困あるいは 「経済厚生」 を測定するには広すぎる概念であろう。誰かが 「貧しい」 と言うときに、その人が不幸であるとは言うつもりがないのが通例であろう。

 

主観に基づく貧困測定のより良い出発点は、 「貧しい」 から 「豊か」 までのキャントリルのはしごの各段を定義することである。例として、フィリピンの Social Weather Station によって行われた世論調査や Eurobarometer がある。 Social Weather Station では、標本に含まれる成人に、 「貧しい」 「境界線上」 「貧しくない」 のどの段が当てはまるかを訊ねた。 Eurobarometer も同様の質問をするが、7つの段を用い、自らを下の2つの段にいるとする人々を貧しいと特定する。

 

 「経済厚生質問」 の研究もいくつかある。それらの研究では、回答者が最低と最高の段をそれぞれ最貧と最富裕とする(通常9段の)はしごのどれかの段に自身を置く。この方法は、厚生の主観認識と経済学の伝統として支持される 「客観」 指標の間の食い違いなど、個人の厚生に影響を与える要因をよりよく理解するために、有用であろう。

 

定性分析は、厚生の個人間比較を行う際に、参加者やファシリテーターが他者の厚生ランキングをすることで、三角検証(triangulation)の形でも用いられている。これは、自己評価の妥当さを確認するための方法と考えることができる。これはまた、調査データに含まれ観察できる変数の中で、厚生の自己評価と連動し頑健な説明力を有する変数を特定する、という動機を与えた。原理上は、一次抽出単位の中での無作為標本から作られるフォーカスグループを用いて、厚生評価を三角検証することも可能である。

 

全国レベルの異時点間の貧困比較のためには実現可能な方法でないことは明らかであるが、定性データは役に立つ新しい情報を提供する。経済学者は、人々の厚生についての主観に基づく、ないしは自由解答式の、質問を用いない傾向があった。奇妙にも、経済学者は、人々が自身の厚生を最もよく判断すると考える一方で、どのように感じているかを人々に直接に訊ねることはしない。

 

 

第3章 厚生の測定⑤ につづく