『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 経済学者の仕事 ◇

 

 

 

第5章 変貌を遂げる経済学③  (第5章は①~③まで)

 

変貌を遂げる経済学①

変貌を遂げる経済学② のつづき

 

 

3 法的人間

 

 

経済学者にとって法律とは、何よりもまずインセンティブの集合である。罰金をとられるかもしれないとか、刑務所送りになるかもしれない、といったことを見越して制限速度を守ったり、盗みその他の犯罪行為を思いとどまったりするのだという。

 

心理学者や社会学者は、こうした解釈に懐疑的だ。彼らは社会的な行動を促すには説得や社会的懲罰を活用するほうが良いと考える。困っている外国人に道を教えるのはよいとして、困っている人を助ける義務はどこで終わるのだろうか。それを決めるのは社会だ、というのが社会学者たちの考えである。社会は、社会規範という形で、人々に期待される行動を定義すると同時に、その行動が自発的になされるようなインセンティブを設定しているという。

 

一方、法学者もインセンティブの重要性を認めている。法律や規則は社会的価値観の表現であるとし、その意味で法律には人々に期待される行動を促すインセンティブ効果があるとする。法学者のみるところ、公共政策において、金銭的賞罰だけに頼って経済主体に社会的行動をとらせることはできない。

 

アリゾナ州立大学の社会学者ロバート・チャルディーニは、2種類の社会規範の存在をあきらかにした。1つは記述的規範で、リサイクルをどの程度しているか、慈善団体にいくら寄付しているか、といったことを記述する。もう1つは慣行的規範で、仲間や集団の言動によって定められる。私たちが行う選択の多くは、仲間や世間がどう思うかとか、彼らはどう行動しているか、といったことに左右される。

 

プリンストン大学では、学内での学生の過剰飲酒対策としてある実験を行い、学生の大半は飲みたいから飲んでいるのではなく、他の学生たちが飲酒を 「クール」 だとみなしていると(まちがって)思い込んでいるからだということを示した。社会規範へのこの種の介入は、ターゲットとする経済主体に対し、他の主体をこうしている、こう思っている、といった情報を提供することにほかならない。

 

ただしチャルディーニは、介入の際に発するメッセージには十分に慎重でなければならないとする。経済理論からも、そう言える。たとえば、 「〇〇市民のリサイクル率はx%に達しています」 などがそうだ。このx%が大方の予想より高い数字だったら、非常に効果的だろう (もちろん、嘘ではいけない)。市民に善行を促すには実証主義者になる必要がある。

 

法律もまた社会の価値観の表現にほかならず、個人の行動のコスト、倫理観、社会的価値などについてメッセージを発しており、相当数の公共政策がそれを考慮している。たとえば犯罪に対する刑罰を考えてみよう。古典派経済学の立場に立った費用便益分析では、懲役より罰金や奉仕などを推奨するかもしれない。刑務所に送るより社会にとって有益だし、費用もかからないという理由からである。一方、そうした考え方をあまりに経済偏重だと批判する人もいるにちがいない。それでは、許しがたい行為でさえカネで片のつくありきたりの悪行になってしまうと考えるからだ。大多数の市民は、たとえ受刑者が全面的に同意した場合でも、懲役刑に代えて鞭打ちの刑を行うことは容認できないと考えているのである。そのほうが社会的には安上がりだとしても、である。

 

以上のように、良き社会のためのインセンティブの活用が市民に歓迎されるとは言いがたく、むしろ多くの行動にとってマイナスであり、非生産的であることがわかる。社会は善意に満ちたものだという幻想を守ろうとする気持ちが人々にあるとするなら、経済学者のメッセージが幅広く反感を招く理由も説明がつく。経済学者は、社会の成員の徳についてとかく不愉快な実証データを持ち出す輩とみなされているのである。

 

 

 

5 意外な視点から

 

 

本章を締めくくるにあたり、大方の人が経済学に期待していない2つの領域に敢えて言及したい。というのもこの2つの領域は、経済学の中で存在感を強めているからだ。1つは進化経済学、もう1つは宗教経済学である (あいにくどちらの分野も私自身は不勉強なので、簡単な説明にとどめたい)。

 

 

■   進化論的人間

ここ20年ほどの経済学研究で注目に値する現象の1つは、経済学に基づく人間観と、チャールズ・ダーウィンの自然選択説との融合を図ろうとする試みである。経済学と進化生物学の 「他家受粉」 の例は、数多く見受けられる。たとえば本章で取り上げた社会的選好は経済学にとって重要なテーマだが、これは進化生物学の分野でも研究されている。

 

また、生物学者はゲーム理論にも貢献している。たとえば、 「消耗戦」 の最初のモデル(戦争やストライキなどで、どちらの側も苦しいが、相手が先に降参するだろうとの希望的観測から持ちこたえる状況を記述する)を開発したのは、生物学者のメイナード・スミスで、1974年のことだった。このパラダイムは、のちに経済学者によって精緻化されている。

 

生物学者と経済学者がともに取り組んでいる研究の3つ目の例として、シグナリング理論が挙げられる。シグナリング理論をごく一般的に説明すると、リソースの無駄遣いをすることによって相手の承認を得られたり、同調的な行動を促すことができるなら、それは有益だというものである。

 

このことは、個人にも国家にも、また動物や植物にも当てはまる。たとえば動物は、メスの注意を引いたり捕食者を避けたりするために、ひどくコストがかかるうえにあまり機能的でないシグナル(孔雀の羽など)を発する。人間も、競争相手や見てほしい相手に印象づけようとして、必要もないリスクを冒したりする。また企業も、自社はコスト効率が良いとか財力はたっぷりあるといったことを競合先に見せつけるために、赤字で売ってライバルを市場から追い払おうとする。

 

シグナリング理論に関する経済学者マイケル・スペンスの著名な論文が発表されてすぐ、生物学者のアモツ・ザハヴィが同じテーマで論文を発表した。シグナリングというアイデア自体の起源は、ダーウィンが1871年に書いた 『人間の進化と性淘汰』(邦訳、文一総合出版)にある。当時は経済学や社会学はまったく進化論に関心を持っていなかったが、いまでは経済学と自然科学を遮る壁はない――経済学と人文科学や社会科学の間に壁がないように。

 

 

■   宗教的人間

「宗教の経済学」 は、経済学として再認識されるようになったのはこの20年か30年ほどのことだが、非常に古くから存在する研究分野である。なにしろあのアダム・スミスが、聖職者の生計を分析し、聖職者が国家や教会上層部から生計費を支給されるケースよりも信者の寄付に頼っているケースのほうが、信者に熱心に奉仕するし、ひいては宗教自体への貢献も大きくなると結論づけている。これはすでに、当時の道徳観の考察になっている。

 

そしてマックス・ウェーバーの1904年の著作 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(邦訳、日経BP社)によって、宗教の社会経済的影響というテーマが経済学に定着した。プロテスタンティズムは資本主義の飛躍的発展に重要な影響をおよぼしたとするウェーバーの学説は、広く人文科学、社会科学の分野で議論を巻き起こした。今日ではウェーバーの主張について、計量経済学を使って事実の詳細なデータに分け入り (もちろんウェーバー自身もデータに強い関心を持っていた。たとえば、プロテスタントとカトリック信者が入り混じっている地区では、プロテスタントのほうが収入が多い、裕福な家庭や裕福な地域社会のほうがすみやかに改革派を受け入れた、といったデータに注目している)、因果関係を突き止めることができる。

 

実際にも、宗教に関するさまざまな社会経済的分析が行われている。たとえばマリステラ・ボッティチーニ(ボッコーニ大学)とスヴィ・エクスタイン(テルアビブ大学)は、ユダヤ人の経済的成功に関する従来の説明を検証した。

 

ユダヤ人は多くの職業に就くことを禁じられた結果、やむなく金融業、職人、商業に従事し、それによってユダヤ人社会は教育水準の高い都市社会に変貌を遂げた、というのが通説である。だがボッティチーニらによると、ユダヤ人社会が変化したのは職業規制を受ける前だった。ユダヤ教はトーラー(律法)を熟読することを要求し、またユダヤ教学校で読み書き算数を教え込んだ。こうしてユダヤ人社会の人的資本の価値を高め、金融や法律を扱えるような人材を育てた。それが後年になって、たとえば小麦栽培の知識よりも有効であることが判明した、というのである。

 

宗教同士の競争も、経済学の研究対象になっている。ここでも研究者は、守備範囲外の宗教思想には立ち入らず、経済的な側面に注目する。宗教が信者を呼び込むために何らかの便益を提供していることは周知の事実だ。ときには 「神の国」 の役割さえも果たす。

 

保証を与え (保守的な宗教集団同士が結びつく理由の1つはここにある)、教育を行い、公的な場を用意する。たとえば、イスラム教の多くの宗派がそうだ。場合によっては宗教集団が 「二面市場」 の代わりを務め、配偶者選びを手助けするといったケースもある。さらに、宗教と科学の関係を研究テーマにする経済学者もいる。

 

私たちは、社会科学が徐々に再統合される現場に立ち会っている。再統合の歩みはのろいかもしれないが、必然だと言える。なぜなら、文化人類学、法学、経済学、歴史学、哲学、心理学、社会学は、みな同じ人間、同じ集団、同じ社会を扱っているからだ。19世紀の終わりまで、これらの学問は1つにまとまっていた。それを復活させるべきであり、多くの学問分野が他分野の知識や技術に対して開かれた姿勢で臨む必要がある。

 

 

第Ⅲ部 経済の制度的枠組み 

第6章 国家 につづく