『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 経済学者の仕事 ◇

 

 

 

第5章 変貌を遂げる経済学①  

 

(第5章は①~③まで)

 

 

かつて社会科学と人文科学の中に完全に埋もれていた経済学は20世紀に独立性を確立し、それと引き換えに、兄弟関係にあった学問との結びつきを断ち切ることになった。

 

そして経済学は、ホモ・エコノミクス(経済人)という虚構をこしらえ上げた。つまり、人間は経済的合理性に徹し、手持ちの情報に基づいて自己の利益の最大化をめざすという、至極単純化された仮定を置いたのである。

 

以来、経済政策の提言では外部性の存在や市場の失敗が前提になっている。つまり、個人にとっての合理性と全体にとっての合理性は同じではないという前提に立脚している。ある経済主体にとって望ましいことが、社会全体にとって好ましいとは限らないということだ。

 

近年では、経済学者は行動経済学や神経経済学の研究を手がかりに、心理学に接近している。このように方法論に立ち戻ることになったのは、人間の行動についての理解を深める必要に迫られたからにほかならない。ホモ・エコノミクスにせよ、ホモ・ポリティクス(政治的人間)にせよ、理論で予想されたほど合理的にふるまうわけではないことがわかってきた。考えるときにも決断を下すときにも、ほとんどの人は偏りや癖があったり、不合理だったりする。ここ20年ほど、経済学は他の社会科学も視野に収め、その知見を取り込むようになった。これはじつにまともな姿勢である。

 

 

 

1  心理的人間

 

 

長い間、ホモ・エコノミクスは自己の利益をつねに意識し、それを合理的なやり方で追及する人間であるとされてきた。たしかに、十分な情報を持ち合わせていないために、すべての事情に通じている場合ほど良い決断を下せないことはある。そうではあっても、あくまでも自己の利益は追及するというのである。

 

 

■   自己の利益に反する行動

ここでは従来の経済学の見方に対する反論として、ホモ・エコノミクスのモデルに一致しない行動の例を挙げる。

 

・先送りする

人間に備わった欠点の一つは、意志薄弱なことである。現状維持でよしとする気持ちが強く、やりたくないことや苦労を伴うことをぐずぐずと遅らせ、将来への投資を怠り、一時の感情に任せて行動しがちだ。

 

経済学者が先送り行動に興味を持つようになったのは、経済政策に重大な影響をおよぼすからである。自分の自由に任せられると、退職後に備えた貯金を怠ったり、酒や麻薬に溺れたり、訪問販売で衝動買いしたり、暴飲暴食したり、勉強をしなければいけないのにテレビを見続けたりする。昨日やろうと決意したことを、今日やるとは限らないのが人間なのである。

 

こうした近視眼的な傾向は、異なる自我の衝突とみなすことができよう。私たちはだいたいにおいて目先の楽しみあるいは目先の犠牲にとらわれ、長い目で見た利益を台無しにしてしまう。

 

となると国家あるいは政府は、個人の選択の尊重(決定を下すのは今日のことしか考えない私である)とパターナリズム(個人の長期的利益を守ってやろうとする父親的温情主義)とのジレンマに直面することになる。かくして、退職年金積立制度を採用する国の政府は、潤沢な補助金を出して積み立てを奨励する。タバコには重税をかける。麻薬取引や賭け事は禁止にするか、厳重に規制する、といったことが行われている。

 

神経科学の研究者も先送り行動に興味を持ち、たとえば異時点間の選択に直面したとき、人間の脳では何が起きているかを研究している。そのために、こんな実験を行う。被験者にいますぐ10ユーロもらうのと、6か月後に15ユーロもらうのとどちらがよいか、選んでもらう。そのときに脳のどの部分が活性化するかを観察する。

 

いますぐ10ユーロもらう選択をしたときは、大脳辺縁系が活性化した。大脳辺縁系は喜怒哀楽など情動の中枢であり、多くの動物できわめて発達している非常に古い組織である。これに対して6か月待って15ユーロもらう選択をしたときは、前頭葉が活性化した。前頭葉は、ヒトにおいてよく発達している部分である。この観察結果から、目の前の喜びと先の楽しみを司る脳の部位はちがっており、両者の間に葛藤があることがわかる。

 

 

・錯覚する

私たちが下す決定の大半は、結果が不確実である。したがって、自分の行動が引き起こす可能性のある結果について、ある程度正確な確率を知っておくことが大切だ。ところが私たちは往々にして、統計に関してまったくお粗末である。

 

古典的な錯覚を1つ例に挙げよう。コイン投げをしたら、表と裏の出る確率が半々であることは誰でも知っている。とはいえ表の出た回数と裏の出た回数が半々に近づくのは、何百回もコイン投げをしたときである (統計学の大数の法則)。それなのに私たちは、表が3回続こうものなら、次は裏だと考えやすい。実際にはコインには記憶はないので、つねに50%の確率で表か裏が出ることになる。

 

確率に関するこのバイアスは、反復的な仕事を行う人の行動にも現れる。つまり、直近に連続して下した決定を 「埋め合わせる」 ような傾向を示すのである。難民申請を審査する係官、融資の可否を決める銀行家、野球の審判などがそうだ。こうした仕事では、たとえば 「却下」 が何回か続くと、次には 「許可」 にする傾向が見受けられる。

 

もう1つ、広く見られる傾向を挙げておこう。それは、新しい情報が提供されても、それまでの思い込みをなかなか変えられないことである。標準的なミクロ経済・マクロ経済モデルでは、プレーヤーは新たな情報を受け取ると直ちに合理的に、つまりベイズの定理に従って、それまでの見通しを修正することになっている。だが、実際には、私たちは往々にしてそうはしない。教育水準が相当に高くても、だ。

 

第1章で指摘したように、心理学者のカーネマンとトヴェルスキーは、ハーバード大学医学大学院の学生が初歩的な確率計算でひんぱんに誤りを犯したと報告している。これらの例からも、統計は直感でやるものではないということがよくわかる。

 

 

・ほかにもまだまだある

人々を純粋な合理性から乖離させる要素はほかにもまだある。たとえば、過度の楽観主義、損失を極端に嫌う傾向、感情の入り込んだ意思決定 (感情は役に立つこともあるが、だいたいにおいて建設的な決定を阻害する)、選択的な(自分に都合のよい)記憶、思い込みの自己操作などだ。これらは、実験経済学の良い対象となる。

 

 

■   社会的な行動

社会的な行動とは、自己の物質的利益を優先せず、むしろ自己の利益を損ねるような形で他人の幸福を自己目的化するような行動を意味する。そのような行動は、社会生活の質的向上にすばらしく貢献する。

 

とはいえ、私たちがとるそうした行動の中には、見かけだけが社会的なものも少なくない。私がつきあう相手や私が所属する社会集団は私の価値観とはちがうふるまいをするが、反復的な関係においては、協力的にふるまうことが自己の利益という狭い視点からも得になるかだ。

 

だが、厳密な意味での経済モデルでは、誰もが慈善団体に寄付しないし、社会的ファンドに投資する人もいない。世間並みの給料をもらえない非政府組織(NGO)で働く人もいない。

 

さらに、合理的な経済主体は投票もしない。なぜなら、投票しても個人的な利益にならないからだ。しかし、物質的利益や主義主張のために投票するのではないと言い張るにせよ、一票を投じる人にはだいたいにおいて別の理由がある。それは、投票が義務だと感じており、自分自身にも世間にもきちんと義務を守る人間だという良いイメージを与えたいと願っている、ということだ。

 

とはいえ一般的に言って、人々が必ずしも厳密な意味での物質的利益にならない決定を下す例がたまさか見受けられることは事実だ。その理由の1つは、他人の幸福を思いやる利他主義で説明できるだろう。だが次節で検討するように、利他主義だけで説明しようとするのは単純にすぎる。

 

 

■   利他主義と自己像

慈善団体に寄付をする行為が存在するのは、他人の幸福を自分のものとする、つまり内部化するからだという説明は成り立つようにみえる。だが実際には、これでは何も説明できていない。その理由を説明するために、社会学で有名な 「独裁者ゲーム」 を取り上げよう。

 

良き社会のための経済学 p151図表5-1

 

匿名性が保たれる条件の下で、被験者が二人一組になり、プレーヤー1(独裁者)がお金の分け方について選択肢AかBを選ぶ。選択肢Aでは自分が6ユーロをとり、1ユーロをプレーヤー2に与える (プレーヤー同士は相手のことを知らない)。選択肢Bでは5ユーロずつとる。したがってAは利己的な選択、Bは寛容な選択と呼ぶことができるだろう。独裁者にとって古典的な意味での合理的な行動は、Aを選んで自己の利益を最大化することだ。

 

だが実際には、プレーヤーのほぼ4分の3がBを選んだ。Bを選んだ大多数のプレーヤーにとって、寛容な選択に伴う犠牲はたいした犠牲ではなかったということになる。だがこれは、相手の幸福を内部化しただけだと言えるだろうか。

 

寛容というものは非常に複雑な性質を備えており、3つの要素に動機づけられる。本性に由来する内因的な動機 (私たちはごく自然に相手を思いやる)、外因的な動機 (相手のことを考えろと要求する外部からの誘因に従う)、そして自分にも他人にも自分をよく見せたいという動機である。

 

自分が自分に与えるイメージは重要な役割を果たす。社会的イメージや社会的ステータスも、重要な動機であることはまちがいない。現に大学や美術館への寄付のうち、匿名で行われる寄付、すなわち真に称賛に値する寄付は、全体の1%にすぎない。また寄付がランク付けされるケースでは (たとえば500~999ユーロの寄付は 「シルバー」、1000ユーロ以上は 「ゴールド」 というふうに)、各ランクに入るちょうどぎりぎりの額の寄付が突出して多い奇妙な分布になる (ランク付けがなければ、もっと均等な分布になるはずだ)。

 

スイスのいつくかの州で実施された郵送による投票の導入実験でも、これとまったく同じ心理が働いており、きわめて興味深い。古典派の経済学者なら、郵送による投票を導入すれば、有権者にとって(少なくとも自分から出向くより郵送を選ぶ有権者にとっては)コストが下がるのだから、投票率は上がると主張するだろう。だが実際には、投票率は上昇しなかったのである。それどころか、一部の州、とくに農村部では、郵送方式を導入したときのほうが投票率は下がったのである。

 

理由はこうだ。小さな村では有権者は互いに顔見知りであり、市民としての義務をきちんと果たすよう促す社会的圧力が強い。そこで人々は、自分はよき市民だということを示すためもあって投票所に赴く。ところが郵送方式が導入され、投票所に行かなくてもよくなると、投票の義務を怠ってもばれないので、社会的に非難される恐れもない。たとえ投票しなくても、しましたと嘘をつくことも可能だ。この実験は、社会的行動とその動機の複雑さを浮き彫りにしたと言えよう。

 

 

・応報的な利他主義

人間には他の動物とはちがう重要な特徴がある。それは、遺伝的関係のない大規模な集団内で協力することだ (ミツバチやアリの場合は、強い遺伝関係で結ばれている。また霊長類などに見られる協力は、小さな集団内で行われる)。

 

社会的選好に関するゲームでもう1つ有名なのが、 「最後通牒ゲーム」 である。ここれではプレーヤー1が10ユーロの配分を任され、自分とプレーヤー2の取り分を提案する。プレーヤー同士は相手のことを知らない。これは、暗黙の協力が生まれるのをさけるためだ。

 

ここまでは独裁者ゲームと非常によく似ている。しかし、この先がちがう。分配の最終決定は、プレーヤー2がプレーヤー1の提案を受け入れるかどうかに懸かっているのである。プレーヤー1の提案を2が拒絶したら、どちらのプレーヤーも何ももらえない。

 

実際にこのゲームをやってみると、10ユーロを半々に分けるという提案は必ず受け入れられる。一方、プレーヤー1が全部とってプレーヤー2はゼロという提案、プレーヤー1が9ユーロで2が1ユーロという提案は、まず拒絶される。8ユーロと2ユーロの組み合わせでもしばしば拒絶される。プレーヤー2にとっては、1ユーロか2ユーロでもゼロよりましでもあるにもかかわらず、拒絶するのである。それを見越したプレーヤー1は、合理的な提案をする。つまり折半に行き着く。

 

私たちは、応報的な行動をとることが多い。つまり、親切にしてもらった相手にはお返しをし、意地悪をされたら仕返しをする。本人ではなく近親者に仕返しをすることもある。たとえそのためにコストがかかっても、である。

 

 

■   利他主義と正直

 

・言い訳ができると

自分は利己的ではないというイメージを一貫して保ちたいと願っていても、それはなかなかにむずかしい。そのことを理解するために、もう一度独裁者ゲームで説明しよう。今回は、図表5-3のように選択肢を用意する。

 

良き社会のための経済学 p155図表5-3

 

ここでは2つの状況が起こりうる。それぞれの状況が起こる確率は予めわかっている (たとえば半々の確率で起きる)。状況1は図5-1と同じで、Aは利己的な選択、Bは寛容な選択である。状況2では、選択肢Aはプレーヤー1にとっても2にとっても、選択肢Bより利得が大きい。したがって状況2では、個人にとっても集団にとってもAが最適な選択となる。

 

じつに単純明快だ――だがじつはゲーム開始時点では、プレーヤー1は自分の置かれた状況が1なのか2なのかを知らされていない。実験者はプレーヤー1に対し、どちらか知りたければ教えてあげるという (教えてもらうのにコストはいっさいかからない)。合理的なプレーヤーなら、教えてほしいと言うはずである。そうすれば、状況に応じて合理的に判断できるからだ。ほんとうに利他的なプレーヤーなら、状況を知ることによって1ではBを、2ではAを選べる。

 

ところが実験の結果、プレーヤー1の大半は状況をあえて知りたがらないことがわかった。自分の置かれた状況を知らないままにして、ともなくAを選ぶ。というのもちゃんと 「言い訳」 ができるからだ――だって状況が2なら、Aがどちらにしてもハッピーなんだから。別の見方をすれば、もし状況1だとしたら、それを知るのはいやだ、ということでもある。なぜなら状況1の場合には、自己の利益を優先するか、相手を思いやるか、悩まなければならないからだ。

 

ボン大学のアーミン・ファルクとカールスルーエ大学のノラ・シェックがサイエンス誌に発表した論文によると、ラボラトリー実験の結果、責任の共有にはモラルを低下させることがわかったという。

 

このことは市場に当てはまるとされているが、ちょっと周りを見回せば、責任を共有あるいは分担する(ように見える)他人が存在するだけで、同じことが起きるのに気づくだろう。どんな組織にも、 「言い訳」 を可能にする材料がある―― 「これをやるように言われたからやっただけです」 「自分がやらなくてもきっと誰かがやるだろう」 「知りませんでした」 「みんなやっているので」 等々。これで、あまりよろしくない行動を堂々とやれるというわけだ。この研究では、市場から統制経済までにいたるさまざまな制度が人々の倫理観や行動にどのような影響を与えるかについて、理解を深めることができた。

 

 

・コンテクストは需要だ。

独裁者ゲームのもう一つのバージョンを考えてみよう。

 

良き社会のための経済学 p156図表5-4

 

図表5-4のように第3の選択肢Cを用意する。CはA以上にひどく利己的な選択である。AとBの二者択一だったとき(図表5-1)にBを選んでいた人は、Cが加わってもやはりBを選ぶはずだ。言い換えれば、選択肢Cの追加は、寛容な選択肢Bの出現頻度に影響をおよぼさないはずである。まして絶対にCを選ぶはずもない人にとって、AとBの選択に影響をおよぼす理由はないと考えられる。

 

ところが実際には、Cを付け加えることによって、Bを選ぶ人はあきらかに減り、その分だけAを選ぶ人が増えたのである。選択肢の追加は決して無意味ではなかったということだ――たとえそれが選ばれないとしても。

 

このように、同じ選択肢であっても、置かれた状況や背景すなわちコンテクストによって持つ意味がちがってくる。選択肢Cの出現で、AとBの二者択一だったときほどAを選ぶことが利己的に見えなくなったため、独裁者はこんなふうに考えたかもしれない――自分はそれほど利己的ではなかったのだ、と。かくして選択肢Aは利己的ではなく 「妥協の選択」 になる。

 

この実験をはじめとする多くのラボラトリー実験で、意思決定をする際のコンテクストの重要性が確かめられている。この実験では、誰も選ばないという点では無意味な選択肢が、実際には選択に影響を与えることを示した。

 

コンテクスト効果の説明を終える前に、コンテクストが選択に与えるもう1つの理由を挙げておこう。それは、選択肢そのものだけでなく、選択肢が提示されたことに被験者が意味を見いだす可能性があることだ。

 

このことは、さまざまな場面に当てはまる。たとえば企業が従業員に何らかの退職年金積立制度を提示する際に、それが 「大半の人にとって」 適切な選択だと暗黙のうちに匂わせるのは、その一例だ。実際には多種多様な選択肢が存在し、ごく特別な事情のある人にとってはより良い選択肢がほかに存在するのだが、それらを逐一検討するのは膨大な時間を要する。このようなやり方で意思決定を支援することを、行動経済学者のキャス・サンスティーンとリチャード・セイラ―は 「リバタリアン・パターナリズム」 と呼ぶ。

 

この言葉は、あくまで意思決定の自由に委ねつつ、十分な情報がないために決めかねている人(情報を知っていればちゃんと最善の選択肢を選べるはずの人)をそれとなく誘導するアプローチを、みごとに言い表していると言えよう。

 

 

・記憶は物申す

記憶は、社会的行動の発生に重要な役割を果たす。心理学の分野で開発されたゲームでは、ばれる恐れがない場合は人はあっさりとインチキをすることが確かめられた。

 

たとえば、ボランティアの被験者に1~10ユーロの金額が等しい確率(どの確率も10分の1の確率)で当たるくじを引いてもらう (このくじはコンピュータ上に表示される)。被験者は当たった金額を実験者に申告すると、申告通りの金額をもらえる。

 

では、被験者がごまかしたことがなぜわかるのだろうか。答は簡単。申告額の出現頻度でわかる。被験者がみな正直者で、かつサンプル数が十分に大きければ、おおむね10%が1ユーロと申告し、10%が2ユーロと申告する・・・・・・という具合になるはずだ。ところが、実験では、高い金額になるほど出現頻度が本来以上に多くなったのである。ということはごまかしている人がいるということだ。だが、話はここでは終わらない。

 

2回目の実験では、同じゲームをするのだが、その前に実験者が被験者に対し 「モーゼの十戒」 または大学の倫理規則を読み上げる。すると、被験者のインチキが1回目より大幅に減った。 「十戒」 や倫理規則を読み上げた結果、インチキがいかによからぬことかが強調され、記憶に焼きつけられたのだと考えられる。この実験で、完全に合理的なホモ・エコノミクスという古典的な概念は破られたと言ってよかろう。

 

 

・立派すぎる人は嫌われる

寛容な行動の複雑さを示すために、もう1つやはり心理学の実験を紹介しよう。スタンフォード大学のフランス人心理学者ベノワ・モナンらによる社会的排斥(仲間はずれ)ゲームである。

 

この実験では、寛容な人は好かれるが、あまりにも寛容な人は敬遠されることがわかった。間接的な形であれ自分に道徳の教訓を思い出させるような人間は、どうにも疎ましいのである。あまりに寛大な人は、結局は仲間はずれにされる。善人すぎる人、立派すぎる人の存在は、それ以外の人の自己像にとって、比較対照の基準としてまったく好ましくない。そこで、世の中には自分よりはるかに立派な人がいるという生きた証拠をのべつ突きつけられるくらいなら、それを目の届かないところに押しやってしまいたい、と考える。

 

 

■   自己操作

ゲーム理論と情報の経済学は、心理学に応用されるようになった。というのも、哲学者も心理学者も何百年も前から (いや何千年も前から)、人間が自分で自分をだます現象に取り組んできたからだ。たとえばよくあるのが、自分にとって不都合な情報をなかったことにしたり、忘れたり、都合よく解釈したりすることである。2000年にトゥールーズ・スクール・オブ・エコノミクス(TSE)の2人の研究者ファン・カリージョとトーマス・マリオッティがこのテーマで論文を発表し、 「行動情報経済学」 の先駆けとなった。

 

私も論文で、自己操作とは 「1人の人間の中の異なる自己がせめぎあうゲームの均衡」とみなした。人間は、自信を損ねるような情報を忘れようとか、なかったことにしようと試みる。しかし同時に、自分が都合よく選択的に記憶していることを承知している。

 

こうした自己操作を理解するためには、まず人間がなぜ自分に嘘をつきたがるのかを理解する必要がある。別の言い方をすれば、自己操作の 「需要サイド」 を理解する必要がある。古典的な意思決定理論によれば、最善の情報が得られれば最善の決定を下させることになっている。このときには自信を持って行動できるはずだ。不都合な情報をなかったことにするのは、自分で自分に嘘をつくことであり、情報の質のひいては決定の質を低下させる。

 

私たちの研究では、自分に嘘をつく理由を3つに特定した。第一は、やる気を失ったり先送りしたりすることを恐れるからである (自分自身や自分の計画に自信満々であれば、意欲喪失を少なくともいくらかは防ぎ、とりかかるエネルギーが湧く)。

 

第二は、未来を心地よく先取りするためである (私たちは未来を空想し、そこに没入したがる。その未来に影を落とすような情報、たとえば事故の可能性や生命の危険といったことは、無視したり忘れたりするほうが心地よい。しかしそれは、シートベルトをしないとか、定期検診を受けないといったように、決定の質を低下させる。逆に、旅行や休暇など将来のうれしい出来事は事前に心行くまで 「消費」 する)。

 

第三は、自分が自分について抱いている思い込みを消費するためである (自分に都合のよい思い込みで安心したい。たとえば、自分は頭がいい、美女(美男)だ、思いやりがあるなどと感じたい)。

 

一方、自己操作の 「供給サイド」 には、第一に記憶を操作する (いやな記憶を打ち消し、心地よい記憶を反芻する)、第二にある種の情報を受け入れない、聞こうとしない、意味を理解しようとしない、第三に自分の特徴や個性をことさら強調する行動を選ぶ、といった特徴がある。

 

プラトンは、自己操作を悪いことだと考えた。だが多くの心理学者、たとえばウィリアム・ジェームズやマーティン・セリグマンらは、自分をポジティブに捉え、モチベーションを高めるためには必要なことであり、人間は自分自身について良いイメージを持つべきだとしている。

 

以来、経済学者や他分野の研究者は関連するさまざまなテーマに取り組み、個人の生活における規則、集団の宗教的意思や戒律が政治的選択におよぼす影響、アイデンティティの問題(悪いセルフイメージを抱いて自殺する青少年などはまさに自己操作の問題である)などを分析してきた。

 

 

②につづく