『良き社会のための経済学』 ジャン・ティロール著 村井章子訳 (2018年8月24日第1刷)

 

 

 

◇ 第Ⅱ部 経済学者の仕事 ◇

 

 

 

第5章 変貌を遂げる経済学② (第5章は①~③まで)

 

 

変貌を遂げる経済学① の続き

 

 

2  社会的人間

 

 

■   信頼

経済的・社会的生活を支えているのは信頼である。たとえば貨幣の発明によって、交換のメカニズムは単純化された。ある品物の品質を確かめられる限りにおいて、私たちはお金を払って見知らぬ人からその品物を買う。買う前に品質を確かめられないときは、評判に頼ることが多い。一度買って満足した店から買ったり、友人知人が満足したという店で買い物をしたりする。店のほうもこのメカニズムを承知していて、固定客を維持できるよう、できる限り努力をする。

 

こうした行動を分析していて興味深いのは、赤の他人に対する信頼である。経済学ではこの概念をごく簡潔に形式化し、他人の信頼性や選好に関する不完全な情報として扱う。経済主体は、時間の経過とともに、かかわり合った相手に対する信頼を修正する。知らない相手と取引せざるを得ないときは、何とかして相手を知ろうとし、どの程度信頼できる人間か見定め、それに応じて行動する。

 

この評判メカニズムが機能せず、ひたすら信頼するほかないという関係性も存在する。たとえばあまりよく知らないベビーシッターに子どもを預けるときや、知り合ったばかりの相手との取引もこれに該当しよう。相手の態度から評価がすぐに定まる場合もあるにはあるが、この評価はひどく不完全である。

 

とはいえ相手をどう評価すべきか学習できるのは、その相手との関係が反復される場合に限られる。近年では信頼関係にはホルモンも影響することがわかってきた。チューリヒ大学のエルストン・フェールとフランクフルト大学のミヒャエル・コスフェルトらは、ボランティアの被験者を使った実験で、オキシトシンという脳下垂体後葉から分泌されるホルモンが信頼感におよぼす影響を解明した。これは 「信頼ゲーム」 と呼ばれ、プレーヤー1と2に次のような役割が与えられる。

 

まず、プレーヤー1は実験者から元手10ユーロをもらい、プレーヤー2に好きな額を投資し、残りは手元にとっておく。するとプレーヤー2は、1から受け取った額の3倍を実験者からもらうことができる。最後にプレーヤー2は、プレーヤー1への分け前を決める。これは、2が好きに決めてよい。必ず分けなければならない、ということはない。このゲームでは、最初にプレーヤー1がプレーヤー2をどこまで信頼するかが重要な意味を持ってくる。

 

このゲームは最初から最後まで匿名で行われる。どちらのプレーヤーも、すべての決定をコンピュータの画面上で行い、ペアを組んだ相手を(その後もずっと)互いに知ることはない。

 

2人のプレーヤーにとって最善手は、プレーヤー1が元手を全額プレーヤー2に投資することである。そうすれば、プレーヤー2がもらう額は最も大きくなる (30ユーロ)。ゲームの構造上、事前の合意は成り立たないようになっているので、その30ユーロをどうするかは、プレーヤー2の完全な自由裁量に委ねられる。プレーヤー1が全額をプレーヤー2に投資するには、相手が見返りをくれることへの全幅の信頼が必要になる。

 

プレーヤー2の 「合理的な」 な行動(すなわち自己の利益を最大化する選択)は、自分がもらった額を独り占めすることだ。プレーヤー1にとっての 「合理的な」 行動は、プレーヤー2が自分に見返りをよこさないことを見越して、一銭も投資しないことである。そうすれば、最低限の利益(10ユーロ)を確保できる。だが実際には、ゲームはちがう様相を示す。かなりの数のプレーヤー2は、プレーヤー1が自分を信頼してくれたことに何らかのお返しをしなければならないという気持ちになるのである。そして合理的にそれを見越したプレーヤー1は、プレーヤー2が持ちつ持たれつの行動をとるだろうと期待して、それなりの金額を投資する。

 

フェールらは、このゲームで被験者の半分にオキシトシンを、残り半分にプラセボ(偽薬)を噴霧した。すると、オキシトシンを嗅いだプレーヤー1の投資額が平均してかなり増えたのである。

 

「信頼ゲーム」は互恵行動のメカニズムを実験室で再現したと言えよう。互恵行動すなわち持ちつ持たれつの行動は、社会的行動の中でもきわめて強いものである。私たちはコストをかけてまで、親切にしてもらった相手にはお返しをし、意地悪をされたら仕返しをする。このことは、マーケティングに活用されている。たとえば、無料のサンプルやノベルティがそうだ。これはきっと、 「与える者は与えられる」 ことを期待しているのだろう。

 

互恵行動のメカニズムを経済学に応用すると、賃金と雇用関係について、次のような仮説が浮かぶ。社員を募集するときに相場以上の給料を提示すれば、新規採用者は意気に感じてがんばるので、雇用主が得る利益は増えるのではないか。

 

だがインドの農場で行われた実験によると、この効果は一時的かもしれない。ある農場では、綿花採取労働者の基本給を30%引き上げる一方で、収穫量に応じた歩合給は引き下げた。全体としては、収穫量の多寡にかかわらず賃金は増えることになる (が、とくに増えるのは、収穫量が最も少ない労働者である)。古典的な経済モデルからすると、労働者はやる気をなくして収穫量は大幅に減るはずである。

 

だが実際には収穫量は、コントロール・グループに比べて大幅に増えた。ところが4か月後には、ホモ・エコノミクスが復活したのである。歩合給を減らすことで予想された収穫量の減少は、4か月経ってからほぼ確認できた。

 

 

■   ステレオタイプ

社会学者は個人を文脈から切り離して捉えてはならない、すなわちその人を取り巻く社会環境を無視してはならないと主張するが、これはまことに正しい。

 

個人はなんらかの社会集団に属しており、その集団はさまざまな形で個人の行動に仕方に影響をおよぼす。集団は個人のアイデンティティを規定し、各自が自他に誇示したいイメージを決定づける。また集団は、手本や価値観を提供する。信頼し同じ仲間とみなす人を見て、同じように行動するのだから、影響をうけずにはおれない。ここでは、集団がおよぼすもう1つの影響として、集団に対する評価・評判が集団の外におよぼす影響について簡単に説明したい。

 

ある意味で集団の評判というものは、その集団を構成する個人の行動が積み上がった結果にほかならない。私のステレオタイプと集団の評判に関する論文で、個人の行動は不完全にしか観察できないと仮定した。もし完全に観察できるなら、どの個人も各自の行動だけに基づいて十全に評価できるはずだから、集団の評判は何の役割も果たさない。

 

逆に、個人の行動がまったく観察できないなら、個人は責任ある行動をとろうとはしないだろう。社会にとっては、集団としての評判が定着しているからだ。不当な上乗せ料金を要求するタクシーは、同業者にとってとんでもなく迷惑だ。集団の評判を守ることは全面的に個人のコスト負担で行うことを意味する一方で、評判はその業界で共有されるため、便益は広く分散されることになる。となれば、フリーライダーが出現しやすい。

 

論文では、方法論的個人主義(タクシーの運転手による自己利益の追求は、集団の利益と一致しない)と全体論(全体は単に部分の総和ではなく、それ以上の何かがあり、全体を部分や要素には還元できないとする立場)との融和を試みた。

 

分析の結果、個人の行動と集団の行動はある意味で補い合っていることがわかった。自分の属す集団の評判が悪い場合、個人には良い行動をとろうというインセンティブが働かない。どうせ評判が悪いのだから、それなりにふるまおうということになる。集団の外からは信頼されなくなり、集団の外とやりとりする可能性自体も減るので、集団の外で良い評判を得ようとするインセンティブも弱まる。そして個人にとって合理的なこうした行動が、集団に対する悪評の原因をますます強固にし、よからぬステレオタイプの形成を助長することになる。

 

こうした次第で、最初は同じだった2つの集団が、まったくちがうステレオタイプとして認識されるにいたることもある。ついには、集団に対する評判がヒステリシス現象(長い間加えられた力によって変化が生じ、力が加わらなくなっても元に戻らなくなる現象。履歴効果とも呼ぶ)を起こす可能性もある。非常に長い間先入観をもって見られてきた国や職業や企業は、とりわけそうなりやすい。だから、集団として悪い評判を立てられることは、何としてでも避けるべきである。さもないと評判が自己実現し、永久に正せないということになりかねない。

 

 

 

3  インセンティブに釣られる人間

 

 

経済学者が言いたいのは、インセンティブはある状況ではうまく作用し、組織や社会の目的に適うような行動を促す効果があるが、状況によってはさしたる効果がないこともあるし、ときには逆効果にもなる、ということである。

 

ある経済主体が複数のタスクをこなさなければならないとしよう。たとえば、学校の先生が、次の授業へ進むための知識あるいは次の試験でいい点を取るための知識を生徒に教えなければならない一方で、思索や自立といったより長期的な視野に立った教育も行わなければならないとする。

 

もしこの先生の報酬が、試験の合格率といった短期的な実績に基づいて決まるとしたら、まちがいなくせっせと 「詰め込み教育」 を行い、長期的な全人格教育はなおざりにするだろう。後者は測定がむずかしく、したがって報酬の基準になりにくい。だからといって、学校の先生に対していっさいインセンティブを設けるな、と言いたいのではない。

 

状況によってはインセンティブは有効であることがわかっている。開発経済学者のエスター・デュフロらがインドで実験しを行ったところ、学校の先生は金銭的インセンティブと教育現場の監督に反応し、生徒の不登校が減って学業成績は上がったという。だが、よく練れていないインセンティブをテストもせずに設定して教育プロセスを歪めることがないよう、十分に注意しなければならない。

 

マルチタスク問題 (本来、複数の任務を負っている労働者 [代理人] に対して、報酬を目に見える貢献についてだけ連動させることにより、努力分配の歪みを引き起こすこと) は多くの分野で見受けられる。

 

そうした中から、いくつかの例を挙げよう。金融部門の一部のプレーヤーは、短期的な実績に基づくインセンティブを与えられた結果、長期的に社会に害をおよぼす行為に走った。その結果が、2008年の世界金融危機である (第12章参照)。ある企業は、コスト削減を奨励し、その成果に報酬を与えた。すると保守点検作業が削られ、事故のリスクが増大した。したがってコスト削減に対してインセンティブが設けられるときには、規制当局が保守点検の監視を強化する必要がある (第17章参照)。またプリンシパルとエージェントの関係が反復される場合には、インセンティブを設けるよりも信頼関係を成立させるほうが好ましい。

 

 

■   内なる動機の排除

また、外からインセンティブで促すことによって、内から湧き出る動機がしぼんでしまう、という批判もある。外生的なインセンティブがむしろ逆効果になり、参加者が減る、努力が放棄される、といった結果を招くケースだ。たとえば一部の国では献血にお金を払っているが、これは効果があるのだろう。あるいは環境保護目標を達成するには、省エネ型ボイラーの購入に補助金を出すべきだろうか。

 

社会的な行動を調べるにあたり、ロラン・ベブナーと私は、人間は多面的であって、自らよいことをしようとする面と、報酬に釣られる面の両方が備わっているとの観察から出発した。このような人間は、3つの動機に突き動かされる。

 

第一は、良き社会に貢献したいという内生的な動機、第二は、善行に対する金銭的報酬(図表5-5中のy)に反応する外生的な動機、逆に言えば悪行に対する懲罰(yに等しい)に反応する外生的な動機である。そして第三は、自分自身の自己像を気にする動機である。

 

良き社会のための経済学 p167図表5-5

 

私たちは、まずは内生的な動機と金銭の効用という2つの要素の統計的分布から始めることにし、人々の行動が与えられたインセンティブによってどのように変わるのかを調べた (図表5ー5を参照されたい。縦軸には各人の供給の合計、横軸には供給者に与えられる報酬yをとった)。

 

このモデルから、献血をした人に報酬を払うべきかどうかを考えてみよう。相手がホモ・エコノミクスなら、報酬を出せば献血は増える。図表5-5のいちばん下の直線のグラフがホモ・エコノミクスの行動を表しており、報酬が増えるほど献血の量も増える。だが自己像を気にする人の場合は、経済学者からすると 「奇妙」 な現象が表れる。

 

自己像を十分に気にする人たちの場合には、報酬が増えるほど供給(ここでは献血量)の合計が減る区間が出現する。博愛心に富む自己像を自他ともに示すという動機があった。しかし報酬が与えられると、お金欲しさにやっているのではないかと思われる恐れが出てくる。このように複数の動機を勘案することで、ミクロ経済学で仮定されている報酬と結果の関係にメスを入れることができる。

 

またこの減退効果とは別に、仲間から見られている状況では金銭的インセンティブの効果は下がると考えられる。動機を疑われかねないからだ。もしそんなことになったら、報酬にいそいそと反応するいやなイメージがまとわりつくことになってしまう。このことは、公共政策を考えるうえで非常に役に立つ。先ほど、省エネ型ボイラーの購入に補助金を出すべきだろうか、という質問をした。これに対する答は、補助金を出すほうがよい、ということになる。というのも、ボイラーは家の中にあって他人に見られることはないため、金銭的インセンティブがよく効くと考えられるからだ。

 

献血の例では、報酬が用意されている場合には、善意からの行為に金銭的動機を疑われることを恐れて献血が減る可能性があることがわかった。その一方で、報酬は、やってもらいたい仕事の困難さや、やってくれる人への信頼についての情報を伝えているという考え方もある。こちらについても心理学者たちが研究を行っており、2つの効果が認められている。1つは、おなじみのインセンティブ効果だ (報酬がいっそうの努力を促す)。もう1つは、いま述べた仕事の難易度や実行者の能力に対する信頼などの情報伝達効果である。

 

たとえば、子どもが良い成績をとったときにお金をあげたら、歪んだ効果が現れる可能性がある。勉強に対する内生的な意欲を失ってしまい、お金をもらえるときしか勉強しなくなる恐れがあるからだ。

 

しかし、これとはちがう理論的説明も可能だ。子どもは、お金をもらえるのは勉強が本質的におもしろくないからだとか、自分の能力や勉学意欲を信用されていないのだ、と解釈するかもしれない。よって報酬は短期的には一定の効果は上げられるかもしれないが、長期的には 「中毒症状」 を引き起こしかねないと結論づけられている。すなわち、報酬を打ち切ったら、もともと報酬をいっさい与えなかった場合に比べ、動機はひどく弱まってしまう。

 

要するに、インセンティブに関するこちらの選択を相手がどう解釈するか、十分注意を払わなければならない。たとえば企業では、部下にあまりあれこれ指図するのは 「おまえを信用していない」 というシグナルを送ることになり、信頼関係を台無しにし、当然ながら社員のモチベーションも低下させる。管理の行き過ぎは、互恵的精神を傷つけることにもなりかねない。

 

 

第5章 変貌を遂げる経済学③ につづく