『絶望を希望に変える経済学』 アビジット・V・バナジー & エステル・デュフロ著 村井章子訳 (2020年4月17日第1刷)

 

 

 

第3章 自由貿易はいいことか?③ (第3章は①から③まで)

 

 

①は、こちら

②は、こちら

 

 

■   忘れられる敗者

貿易理論家は労働者の移動性を過大評価し、貿易で直接影響を受けた労働者も市場が面倒を見てくれる、とひどく楽観視していた。

 

そこで②で取り上げたオーター、ドーン、ハンソンは、いったいどれほど政府が介入し、対中貿易で損害を被った地域をどのように支援しているかを調査した。その結果わかったのは、甚大な影響を受けた通勤圏(②を参照してください)とほとんど影響のなかった通勤圏を比較すると、成人1人当たりの所得が前者で549ドル減ったのに対し、政府から受け取るのは1人当たりわずか58ドルだった。

 

しかも給付制度の構造が、失業した労働者の状況を一段と悪化させている。貿易が原因で失業した労働者への支援は、原則として貿易調整支援制度(TAA)の下で行われる。TAAの受給資格者は、他産業に就職するための職業訓練を受けることを条件に失業保険の3年間延長が認められ、移住、就職活動、医療のための補助金も受けられる。だが、貿易の影響を受けた郡への支給額に占める割合は先ほどの58ドルのうち、TAAから支払われるのはたったの23セントだ。残りはどこから来るのか――障害年金である。貿易で職を失った労働者の10人に1人が障害年金の受給を申請している。

 

障害年金の給付額の急増はじつに懸念すべきことである。障害年金に頼るのは永久に雇用機会を失う一本道になる。アメリカではいったん障害年金受給者になると、そこから抜け出す人はめったにいない。就労困難な障害があると認定されたわけだから、雇用機会はまずもって得られない。

 

こうなった原因は政党政治にもある。失業した人が医者にかかる場合、頼みの綱はオバマケアである。オバマケアでは低所得層向けの医療保険メディケイドの対象者が拡大されたからだ。だが対象範囲の拡大を適用するかどうかは州に委ねられたため、共和党を支持する州の多く(カンザス、ミシシッピ、ミズーリ、ネブラスカなど)はこれを拒否し、連邦政府に抵抗する姿勢を示している。そこで医療サービスを受けるためにやむなく障害者認定を受ける人が出てくるわけだ。

 

だが、こうした状況になった原因はもっと根深い。アメリカの政治家は、特定産業や特定地域に補助金を出すことにきわめて慎重である (他産業・地域が割を喰ったと感じてロビー活動を展開するからだ)。TAAの補助金がひどく少ないのも、おそらくはこのためだろう。

 

経済学者も、伝統的に地域ベースの政策は支持したがらない。この種の政策を本格的に研究した数少ない経済学者の1人であるエンリコ・モレッティは、きっぱりと地域に対する補助金に反対している。公的資金を貧困化した地域に投じるのは、損失を取り戻すための追い貸しと同じだという。衰退した地域は滅びる運命にあり、他の地域が取って代わるべきだ、歴史を見てもそうなっている、とモレッティは主張する。

 

この分析は、衰退した地域の現実を軽視している。クラスターというものは発展するのとまさに同じ理由からあっという間に分解する。理論的には、クラスターの全面的な解体に対する正しい反応は、できるだけ多くの人々を移動させることになるだろう。だが彼らはそうはしない。

 

ではこの人たちはどうなるのか。チャイナ・ショックに見舞われた地域では、結婚する人が減り、子どもを産む人が減り、生まれた子どもの多くが片親である。若者、とりわけ白人の若者は大学へ行かない。そしてこうした地域では薬物やアルコール依存による 「絶望死」 や自殺が急増する。これらすべて、将来にまったく希望が持てないことから来る症状だと言えるだろう。ごく若いときから未来の一部を失っており、それはおそらく永遠に取り戻すことができない。

 

 

■   貿易にそれだけの価値があるのか?

ドナルド・トランプは、貿易が引き起こす悪影響は関税で対抗するのがよいと考えた。 「貿易戦争、大いに結構」 という姿勢である。また一般の人も、アメリカはもっと市場を閉じてもいい、とりわけ中国から自国経済を守るべきだ、と感じたのである。この点は、右も左も、共和党も民主党も変わらなかった。

 

経済学を大学院まで学んだ人の頭には、貿易はよいものであって活発なほどよいという考え方が染みついている。とはいえ、経済学者がよく承知しているがけっして口に出さないことが1つある。貿易から得られる利益の総額は、アメリカのように規模の大きい経済にとって、実際にはきわめて小さいということだ。つまり、アメリカが完全な自給自足国家に逆戻りし、どこの国とも貿易をしなかったら、たしかに貧しくはなるにしても大騒ぎするほど貧しくはならない。

 

アルノー・コスティノと共同研究者のアンドレス・ロドリゲス=クレアは、この点を深く掘り下げた研究で名高い。2018年3月に彼らはトランプ関税と時を同じくして新しい論文 「アメリカが貿易から得る利益」 を発表した。この論文は、貿易がもたらす利益は主に2つの要素に左右される、と主張する。

 

第一は、輸入そのものの規模と、輸入が関税、輸送費など国際貿易に伴うさまざまなコストに影響される度合いである。何も輸入しないなら、当然ながらコストの問題は消滅する。第二は、国内の代替品の存在である。たとえ大量に輸入する国でも、輸入品がすこし値上がりしただけで輸入を打ち切るようであれば、国内に他の選択肢が潤沢にあることを意味する。このような場合、その国にとって輸入の価値はさほど大きくない。

 

 

■   貿易利益の計算

以上のアイデアに基づいて、貿易の利益を計算することが可能だ。アメリカがバナナだけを輸入し、リンゴだけを輸出するなら、話はきわめて簡単である。消費に占めるバナナの割合を調べ、バナナが値上がりしたらどれだけの消費者がリンゴにスイッチするか、リンゴが値上がりしたらどうかを調べればよい (経済学者はこれを交差価格弾力性と呼ぶ。すなわち財の価格変化が他の財の需要におよぼす影響の度合いである)。だが実際にはアメリカは8500種類もの品目を輸入しており、このやり方はまずもって不可能である。

 

だが実際には、すべての品目について1対1で交差価格弾力性を知る必要はない。輸入品すべてを単一の財とみなしても、真実に十分近づくことができる。輸入品の一部は直接消費され (輸入品はアメリカの消費全体の8%を占める)、一部は生産に組み込まれる(こちらは3.4%を占める)としても、かまわない。

 

貿易の最終利益の計算のために知る必要があるのは、輸入が貿易に伴うコストにどの程度敏感なのか、ということだけである。きわめて敏感だとすれば、それは国内で生産するものと簡単に置き換えられることを意味するので、他国から輸入する価値はあまりないことになる。逆にコストが上がっても需要が維持されるなら、輸入品が消費者に非常に好まれていて、貿易が生活満足度を大きく押し上げていることになる。

 

コスティノらは結果をシナリオ別に示すことにした。すなわち輸入品が国産品で容易に代替されるシナリオ(この場合の貿易利益はGDP比1%と推定される)から、代替が最も困難なシナリオ(この場合はGDP比4%)までの数通りである。

 

 

■   大きいことはいいことだ

コスティノとロドリゲス=クレアが妥当と考えるのは、貿易利益がGDP比2.5%という中位予想である。この比率は高いとは言いがたい。アメリカの2017年の経済成長率は2.3%だから、1年分の成長を毎年犠牲にするだけで完全な自給自足経済を恒久的に続けられる計算になる。

 

アメリカは市場開放をしているにもかかわらず、輸入が消費占める比率(8%)は世界で最も低い部類に属する。だから、アメリカが国際貿易から得る利益はさほど多くないのである。同じく開放経済を実現しているベルギーの場合は、輸入比率が30%を上回る。したがってベルギーにとって貿易ははるかに重大な問題となる。

 

ただし、アメリカの例だけを見てはいけない。アメリカや中国は経済の規模が大きく、国内のどこかでたいていのものを効率よく作るだけのスキルと資本を持ち合わせている。しかも国内市場も規模が大きいので、各地の工場から次々に送り出されるさまざまな品物をどんどん消費することができる。このような国は、貿易をしなくても失うものは比較的小さい。

 

国際貿易が重要な意味を持つのは、小さい国や貧しい国だ。たとえばアフリカ、東南アジア、南西ヨーロッパの国々である。これらの国ではスキルが乏しく、資本も乏しい。鉄鋼や自動車に対する国内需要は十分に大きくないうえ、所得水準は低く、人口もさほど多くないので、大規模な生産を維持することができない。貿易をまさに必要とするこれらの国が、不幸にもグローバル市場への進出をさまざまな要因によって阻まれているのである。

 

また規模の大きい発展途上国、たとえばインド、中国、ナイジェリア、インドネシアなども、固有の問題を抱えている。それは国内の輸送網の整備である。世界ではおよそ10億人が舗装道路から2キロ以上離れたところに住んでおり (そのうち3分の1がインド人である)、近くに鉄道もない。国内政治がこうした不都合にさらに拍車をかけている面もある。たとえば中国にはすばらしい道路網が整備されているのに、各省の当局は地元企業が他の地方からの買い付けるのをあれこれと規制して邪魔している。

 

 

■   スモール・イズ・ビューティフル?

だがもしかすると比較優位という概念そのものが過大評価されていて、小さな国でも自給自足が可能なのかもしれない。あるいはこの論理をさらに推し進めれば、どの地域も必要なものを生産できるようになるのかもしれない。

 

問題は、スモール・イズ・ビューティフルではないことだ。企業が必要なスキルを持つ労働者を雇用したり、効率のよい機械を購入したりするためには、最低限必要な規模というものがある。とはいえ企業が大きくなるには、市場が大きくなければならない。すでに1776年にアダム・スミスは 「分業は市場の大きさに制約される」 と書いている。だからこそ貿易や地域間取引は有益なのである。一つひとつの国や地域が孤立していたのでは、生産的な企業は出現しない。

 

実際、鉄道によって国内各地が結ばれたとき、多くの国の経済が変貌を遂げている。一方国内の輸送網が未整備でそれぞれの地域が孤立していると、経済は硬直的になり、せっかく国際貿易で手にした利益も多くの人に行き渡らず、それどころか損害を与えることになりかねない。

 

インドでは村と幹線道路を結ぶ道の多くが未舗装で、村の人々が農業以外の職業に転じることを阻む要因になっている。凸凹道をのろのろと運ぶのでは、商品の最終価格はずいぶんと割高になってしまう。これでは、僻地の村に住む人々は国際貿易の恩恵には与れない。ナイジェリアとエチオピアでは、仮に輸入品がなんとか届いたところで、とても手の届く値段ではなくなっている。また輸送網が整備されていないと、何を出荷するにしても高いものにつき、せっかくの安い労働力のメリットを活かすことができない。貿易によって世界と結ばれた恩恵を享受するためには、国内の輸送インフラの整備が必要である。

 

 

■   貿易戦争を始めてはならない

本章で取り上げた事例と分析から導き出される結論は、長年の社会通念とは相容れないように見える。本章で指摘した次の3つの事柄は、バラ色の貿易理論に水を差す。

 

第一に、国際貿易から得られる利益は、アメリカのような規模の大きな経済にとってきわめて小さい。第二に、規模の小さい経済や貧しい国にとっては貿易の利益は潜在的に大きいものの、市場開放を行うだけでは問題は解決しない。移民を扱った第2章で論じたとおり、国境を開いただけでは人は移動しないのと同じで、貿易障壁を取り除いただけでは初めてグローバル市場に進出する国が利益を手にすることはできない。第三に、貿易利益の再分配は口で言うほど簡単ではない。貿易で打撃を受けた人々の多くはいまなお苦しんでいる。

 

貿易がもたらす利益と損失はひどく偏って分布しており、そのことが社会に暗い影を落とし始めている。いまや移民問題とともに政治の行方を決する要因になっているのは、貿易の負の影響だと言える。

 

では、保護関税は問題の解決に役立つのか。答はノーだ。関税の導入は、アメリカ人を助けることにはならない。理由は単純だ。ここまでの議論で私たちは主張したいことの1つは、移行期にもっと注意を払う必要がある、ということである。チャイナ・ショックで解雇された人の多くは、ショックに見舞われる前の生活水準を回復できていない。なぜなら経済というものは硬直的だからだ。彼らは別の産業や別の土地へ移って自立することができない。リソースも移動しない。

 

だからと言って中国との貿易をいま打ち切るのは、新たな解雇を生むだけである。新たに負け組になるのは、おそらくこれまで名前を聞いたこともない郡で生活している人々――農村地帯の人々だ。なぜ聞いたこともないかと言えば、何の問題もなく暮らしているのでニュースにならないからである。

 

中国が2018年4月2日に発動した報復関税(15%と25%)の対象128品目は、大半が農産物である。アメリカの農産物輸出は過去数十年にわたって右肩上がりで増えており、1995年には560億ドルだったのが、2017年には1400億ドルに達している。今日ではアメリカの農業生産高の5分の1が輸出されており、最大の仕向先は東アジアだ。中国だけで、アメリカの農産物輸出の16%を買っている。

 

こうしたわけだから、アメリカが中国と貿易戦争を始めると最初に痛手を被るのは、おそらく農業と、農業を支える産業になるだろう。アメリカ農務省は2016年に、農業はアメリカ国内で100万以上の雇用機会を創出しており、その4分3が非農業部門だと推定している。

 

農業部門の雇用で全米上位を占めるのは、カリフォルニア、アイオワ、ルイジアナ、アラバマ、フロリダの5州だ。ペンシルベニア州の製造業で解雇された人たちが、同じ州に他の産業があってもそちらに転職しなかった(できなかった)のとまさに同じ理由から、農業に従事していた人々は、たとえ同じ地域に工場があっても、そちらには転職しないだろう。本章と前章で分析したさまざまな理由から、人々は移動しない。しかしアラバマとルイジアナは、アメリカで最も貧困な10州に含まれている。貿易戦争は、この貧しい人々を巻き添えにすることになる。

 

貿易戦争で鉄鋼労働者の一部を救うことはできても、他の部門が新たな打撃を受けることになる。貿易戦争をしてもアメリカ経済は全体として好調を維持するだろう。だが100万人近い人々が犠牲を強いられる。

 

 

■   関税以外にどんな手があるのか

貿易が引き起こす深刻な問題は、ストルパー = サミュエルソン定理が想定する以上に多くの負け組を生み出すことである。よって解決策は、解雇された人の移動や転職支援をして負け組の数を減らすこと、または補償を拡充することになるだろう。

 

ある産業がチャイナ・ショックを受けたことがわかっているなら、その産業の労働者を支援すればいい。貿易調整支援制度(TAA)はまさにその前提からスタートしている。TAAは職業訓練(1年間1万ドルを上限とする)を支援し、訓練を受けている労働者には失業手当を最長3年間給付する。すばらしい制度だが、すでに述べたように、支援額があまりに少ない。これはコンセプトが悪いのではなく、ひたすら資金不足なのである。

 

TAAの支援を受けることが決まると、当初は年間1万ドルで生活しなければならない (訓練中は働けないからだ)。だが訓練後の10年間で、訓練を受けた労働者は受けていない労働者より5万ドルも所得が増える。これはやる価値のある投資だと言えよう。

 

ではTAAのように効果的な制度がなぜ資金不足のまま放置されているのか。労働者支援に対する関心が低いのは、経済学者にも原因がある。経済学者が補助金嫌いであることはすでに述べたが、個人的な判断が入り込む余地の多い制度も好まない。権力濫用が起きやすいからだ。また政治的には、貿易調整支援の名目で予算を割り当てれば、貿易の悪影響を是正するには巨額の資金が必要だという事実をあからさまにすることなる。これはあまり褒められた話ではない。

 

どのような理由があるにせよ、貿易の影響で解雇された労働者を支援するには、TAAのようなプログラムを拡充することが望ましい。もっと金額を増やし、もっと手続きを簡素化する。たとえば、復員兵援護法(通称GIビル)をモデルにしてはどうか。復員兵援護法では、元兵士が大学に進学した場合、36か月の学費と生活費の大部分を政府が肩代わりする。同様に貿易ショックから 「復員」 する人のために、職業訓練や再教育のための費用を政府が肩代わりすることが望ましい。さらに、訓練期間中は失業給付を延長する。

 

大量のレイオフがあった場合、高齢者ほど転職できなかったことが調査で確かめられている。55歳で大量レイオフに巻き込まれた労働者と運よく職場に残った労働者を2年後と4年後に比較した調査では、前者は後者より失業している確率が20%高かったという。解雇されれば若い労働者でも痛手は避けられないが、高齢者の受けるショックのほうがはるかに大きい。

 

そこで、打撃を被った産業や地域にもっと集中して支援を行い、かつ対象を55~62歳の既存労働者に絞ってはどうか。そうすれば、申請者にもっと多くの金額を支給できるし、企業には雇用を維持しながら生産ラインの転換などに取り組むだけの補助金を出せるはずだ。もちろんこれですべての企業を救うことはできないが、最も打撃を受けた地域で雇用を守り、地域社会の分裂を防ぎ、新しい道への長い移行期を軌道に乗せることはできるだろう。これだけの規模の補助金には、一般税収を充当すべきだ。全員が貿易の恩恵に与っているとすれば、貿易の代償も全員で払うべきである。鉄鋼労働者の雇用を守るために農家に失業してくれと頼むのは筋が通らない。だが関税が実際にやっているのはこれである。

 

この章の包括的な結論は、こうだ。貿易によって大切な仕事を失い、ずっと続くと思っていた人生で変化と移動の必要に迫られた人々の痛みに配慮しなければならない。経済学者も政策当局も、富裕国では低技能労働者が貿易の不利益に被ること、貿易の恩恵に与るのは貧困国の労働者であることは知っていたはずだ。

 

にもかかわらず、人々が自由貿易に敵対的な反応を示すことに戸惑っている。なぜなら彼らは、労働者は簡単に他産業への転職または移動またはその両方ができるという前提に立っていたからである。そして労働者にそれができないのはある程度は本人の責任だ、と考えていたからだ。現在の社会政策にはこうした発想が反映されており、 「負け組」 とそれ以外の人々の間に軋轢を引き起こす結果となっている。

 

 

第4章 好きなもの・欲しいもの・必要なもの [注:差別と偏見について] につづく