書きなぐり。 -5ページ目

初めてのフランス料理の思い出

16歳の時、バイト先の蕎麦屋の部長さんが、わたしを食事に誘ってくれると言ってくださいました。

部長さんは普段は蕎麦屋には来ないのですが、たまに来て私が仕事を頑張っているのを見ていてくれたのだなと思い、私は素直に嬉しく思いました。

部長サンは、フランス料理に連れて言ってくれる、との事でした。

 

わぁ。フランス料理。

フォークとナイフが沢山並んでるやつだな。食べてみたい。楽しみだ。

 

しかし16歳の社会もろくに知らない私。レストランにきて行く服がありません。わたしは部長さんに食事に連れて行ってもらうこと、着ていく服がないことを素直に両親に話しました。

 

両親は、「あら大変。スーツでも買わないと!」と、近所のジャスコで一番安いスーツを買ってくれました。ちなみに24、5センチのデカいパンプスも買ってくれました。

 

さて、いざ食事の日。

玄関まで家族総出でお見送りをしてもらい、私は部長さんとの待ち合わせへ向かいました。

 

テーブルクロスの敷いてあるテーブルクロスので食事するのは生まれて初めてでした。フォークとナイフの使い方から、何から何まで、私は部長さんに教えてもらいながらすごく楽しく食事をすることができました。

 

デザートは、ミルフィーユでした。生まれてはじめてミルフィーユが美味しいと思った。おかわりしたいぐらい美味しかった。

 

さて、たまにしか会わない部長さんに食事に誘われた事に対して、私は何一つ悪いことを疑うこともなくノコノコと食事にについて行ったわけですが(何も不審がらなかった親もどうかと…)、その後もわたしは部長さんに誘われ、いろんな食事に連れて行ってもらいました。

 

本当にいろんな世界を教えてくれた部長さん。

今でも感謝しています。

 

でも数回めの食事の後、「10まんで処女をくれないか」と言われ、二度と会うことをやめました。

 

私は本当に世間知らずで、疑うことを知らなかった。

両親も本当にいい人で、快く食事に送り出してくれたというのに…。

 

自分が、女なんだなぁって悲しくなりました。

そんで、当時60過ぎてたと思うけど、部長サンも、男だったんだなぁ。

 

若い頃のお話でした。

 

終わり。

 

初彼のいろいろ。

初めての彼氏については、「初めて家を出た話」に書いているので読んでくださるとありがたいです。

 

初めての彼氏(18、19の2年間付き合いました)には本当にいろんな影響を受けたしいろんなことを経験させてもらったのですが、ものっすごくカスな扱いを受けていたなという事も大人になってわかったりもしました。

 

私自身を肯定されたり受け入れてくれることなどなく、私は常に自分を否定し相手に合わせることでようやく付き合っていただけるといった感じで。

 

何から何までがんじがらめだったけどまぁ当時の私もよくやってたなと感心します。今なら無理。

 

第一なんでクックドゥの中華の素使ったらダメなんだよ。なんでめんつゆ使ったらダメなんだよ。コッソリ使ったら「今日、おいしいね」とかいうくせによー。プープー。

 

そんなことは小さなことから大きなことまでいっぱいありました。

 

そうそう。

掃除してたら出てきたAVは「ブスをお姫様扱いするビデオ」で、私は大人になってまさにそういうシチュエーションにアガる体質になってしまい(イヤじゃないけど)、そこまで影響受けてることに驚いたりもしました。トラウマというのかな。悪い意味じゃないけど。

 

あれ?

…ってことはさ、私って可愛いと思われてなかったのかな…。マジかよ。ブス専だったのかな、彼氏。おいおい…。

 

そんな彼氏、今思うとものすごく自己評価が低いというか、自信がない人でね。ある時期、彼氏の部屋で彼氏が学校から帰ってくるのを待つ間、コッソリ彼氏のギターを借りてギターの練習をしていたんです。わたし。

数週間毎日練習した曲はエリッククラプトンのティアーズインヘヴン。

もともと手先器用なのもあってあっという間に弾けるようになってね、彼氏をビックリさせようアンド褒めてもらおうと思い、ある時家でサプライズで披露したんです。

彼氏、言葉を失って、顔色がこわばり

「もうギター使わないで」と言いました。

 

え?

全然褒めてくんねぇ。ていうか顔しかめてる、どういうこと。

おー!とかわー!とかないのかな。

 

 

悲しかったな。

 

それから弾かなくなったから、もう弾けないよティアーズインヘヴン。

 

彼氏、ギター弾けるのが自慢だったんでしょう。私がそんなに上手くなると思わずに油断していたのでしょう。そして私は空気を読むのが下手で、1番嫌がることをしてしまったのでしょう。

私もダメなら彼氏もダメ。どっちもダメ。今会ったらどっちも無視する自信ある。

 

またある時は、私ガンダムのプラモデル作るのが趣味な時があってね。ガンプラですね。作ってはテレビの上に飾ったりしてまして、なかなか楽しんでいたのですが、ある時言われました。

「これ、実家に持って帰ってくれる?友達に、彼女がガンプラ好きって思われたくない」

 

ひ…

ひどい…

 

私の趣味なのに全然肯定してくれてない!!

 

今ならそう言うけど、当時は謎の悲しみにくれるばかりでした。

そして押入れに入れられる我がガンプラ達。ごめんよ、可愛がってあげられなくて。

でもその時は私も彼氏に嫌われたくなかったし、人が嫌がることはしちゃいけないと、変な風に思い込んでいたんだ。

だから私が悪いんだって、思いこんでいたんだ。

 

別れた後、私の荷物を実家に送ってもらったんだけど、ダンボール開けたらガンプラ達が無造作にガチャガチャと入れてあって、ほんと、悲しくなりましたよ。

ごめんねガンダム。

 

そんな彼氏、ある時深刻な顔して「オレ、お前に言ってないことあるんだ…」って言ってきた。

え?浮気!?まさか!!

 

「おれ…アトピーなんだ。。」

 

…。

いや…知ってたし…。夜中に起きてコッソリ薬塗ってるのとか見てたし、布団は血だらけ(寝ながら掻くから)だし、いや、てゆうかあの…知ってたし…。

 

私「知ってたよ…?」

彼「まじで?  イヤじゃない?!」

私「いや、全然…?」

彼「そうか。良かった…」

 

いや、あの、てゆうか、それで人を嫌いになるとか全然わからないんですけど…。むしろ最初から言ってくれれば、背中とか薬塗りますけど。

 

それからは薬塗るの私の係でした。

 

なんだかこの人の話はいくらでも出てくるな。三つ子の魂百までですね。

 

おしまい。

初めての精神科3

看護婦に名前を呼ばれ、三人で診察室に入る。

中は8畳ぐらいの広い部屋で、木製の大きな机の前にポロシャツを着た若めの優しそうなおじさんが座っていた。

部屋の隅には大きな観葉植物が置いてある。

先生は白衣も着ていないし革靴も履いていない。ラフすぎる先生を前になんかちょっと違和感を感じた。

こういう風にして緊張を溶かそうっていう計算があるんじゃないかって深読みして、そんなもんには影響受けないぞって謎の気合が入った。

私たちは、先生の向かいに、私、母親、父親の順番で座った。

 

後々いろんな精神科に行くようになってわかったが、やっぱりみんな白衣きてる先生ばっかりだったし待ち合い室も白い無機質な病院行が多かったので最初に行ったとこは特別だったっぽい。

とにかく病院内が綺麗だったし新しかったので、今思うとめっちゃ儲けてるところなのかもしれない。

 

先生が話す「どうしました?」

私はもうずっと何も喋ってない。親に電話してわーっと苦しい事を話してから数日ろくに親とも話もしてない。

わたしは疲れていた。もうこれからどうしていいのかわからずやりたいこともなく生きていたいとも思えずもう二度と元気になる事もないだろうと思ってた。

 

「死にたいというんです…」

それまでビシッとしてた母親が弱気に言った。

え?と思って横を見ると、母親のむこうの父親が、眉をしかめ、握った拳を膝の上に置いて難しい顔をしていた。

そんな父親の顔をわたしは見た事がなかった。

なんか、わたしのせいで両親に申し訳ないことをしているんだなぁということだけがわかった。

 

どうして私は生きているだけで人に迷惑をかけるんだろう。ずっと昔から、どこかチームになじめずしゃべると話しが途切れ、変人扱いされる。どうしてだろう。両親のせいにしたことはないけど、いい子になれなかった自分には負い目があった。

出来ることなら両親を喜ばせられる子どもになりたかった。

でも無理だった。もう頑張りたくないし、がんばれないと思う。

もう、本当ごめんなさい。

両親が先生と話す間、私はそんなことをずっと考えてた。

 

最後、父親が「どうか…この子をよろしくお願いします」と言って立ち上がり、深くお辞儀をした。

辛そうな顔をして、もう、助けを求めるのはこの人しかいないと思ったのだろう。先生は、「大丈夫ですよ、ゆっくり治療して生きましょう」と言った。わたしは父親の顔が頭から離れなくなった。

この顔にまた笑顔を取り戻させる事はできるだろうか。自分がなくて、申し訳なくて、ごめんなさいごめんなさいって、ただただ思った。

 

もらった薬を飲めば何か変わるのかなと思いつつ、向精神薬と漢方を一日中三度飲んだ。

 

私の気持ちは上向きになることも何かが変わることも一切なかった。

初めての精神科2

寝たり起きたりを繰り返しながら、毎日を過ごして居た。ぼーっとしながら知らないうちに涙がダーダー出てることも少なくなかった。

 

もうダメ! 嫌なこと考えたくない! 明日の事考えたくない! 意味がわからない! なんで! なんで!ってのと

 

もういいや。死のう。やる気でない。めんどくさい。全部めんどくさい。死ぬほどめんどくさい。やりたいこともない。めんどくさい。

 

ってのとを繰り返しているうちに訳が分からなくなって腕を切る。

 

スーッときもちが落ち着くのがわかった。

流れる血や、切れた皮膚の間から見えるピンクの肉を見て、あぁ、私は生きているって思えた。それがないと自分が何をしているのかなんなのか生きているのか何もかもわからなかった。

 

よく、リストカットは誰かに対するアピールですって言う人いるけど全く違う。人に知られるのはめんどくさい。切りたい気持ちなんてわかる訳ないし説教もめんどくさい。辛かったね、なんて声いらない。もう、何もかもがめんどくさいし寄ってくんな、声かけんな。って思ってた。

 

辛い日々が続き、将来生きて行く自信もないしやりたいこともろくにないしできれば死にたい、一人暮らしこれ以上続けるの無理、もうごめんなさいってなったとき、私は実家に電話して居た。

 

母が、「どうしたの、辛いなら帰ってきなさい」って言ってくれた。

無理に家を出たから、もう親のお世話にはなれないってそれまで思っていたのだけど、それを聞いた時、ドバーッと涙が出て、あ、私の味方がいるんだって思えた。

それまで誰に励まされても泣かれてもなんとも思えなかったのに。

 

実家に帰り、母と話をした。

「フーゾクやってて、イラストの描いてて、もう何もしたくない、全部めんどくさい、死にたい」って言ったのだと思う。

母は、お父さんに言っておくから。と言ってた。

 

それから数日、昔の自分の部屋に引きこもってずっと寝て居た。ご飯ができても部屋の鍵を開けずにずっと寝て居た。両親は働いているので朝8時には居なくなる。そうして初めて部屋を出てご飯を食べてまた布団に戻る。

 

多分数日後、母が新聞か雑誌の切り抜きを出してきて、「精神科に行きましょう。お父さんも一緒に三人で。」といった。

 

電話をして予約をしてもらい、赤坂の精神科に行くことになった。

わたしは久々に家を出て、電車に乗った。今までは「座りたい」と言うと母が「若いんだから立ってなさい!」と言って居たけど、その時は電車の席が一つ空いてて「座りなさい」と言ってくれた。

 

父はずっと難しい顔をして居た。申し訳ないなぁと思いながら、でももう一人でやって行くことは無理だしな、などと思っていた。ただ、フーゾクのことを母は父に言ったのだろうか? とちょっと気になっていたけど、それよりももうなにもかもめんどくさいから母親の言うこと聞こう、そしたらどうにかなるのかな、なればいいな、ならないか、ならないだろうな、まぁいいや、どうでもいいや、って感じで、もうただただ親の言うこと聞いて病院に向かった。

 

赤阪の病院は、駅の近くのビルの二階にあった。

多分みんなドキドキしながら初めての精神科のドアを開いた。

 

その病院は、今まで行ったことのある内科や耳鼻科にあるような白い壁と無機質な椅子とちがって、高価そうなソファと木目調の壁とでできていた。

受付を済ませて三人でソファに座った。受付の台にはその病院の院長さんが書いたであろう精神系の本が何冊か並んでた。待合室には癒し系の音楽が流れてて、希望者にハーブティが出てくる。

わたしはその全てを「胡散臭い、気持ち悪い」と思った。鳥肌が立ちそうだった。

今思うと多分有名でいい病院だったんだと思うけど。

 

私たちは先生に呼ばれるのを待った。

初めての精神科1

わたしは多分何度もした薬の過剰摂取(オーバードーズ略してOD)のせいで、10代20代の事を思い出すのがあまり得意ではないので事実と異なった事も書くかもしれませんが、初めて精神科に行ったときの話を書きます。

 

私は19歳で家を出てから、何度か引越しをしながら一人暮らしを続けて居た。お金の使い方もわからず、夏になったらクーラーは秋まで一度も消さない、家に帰った時暗闇が寂しいから電気も付けっ放し、という無茶苦茶な生活をして居た。

 

その時イラストの仕事が多すぎて3日に一度は締切がある感じだったのでフーゾクにもなかなかいけず、どうやって家賃や生活費を払って居たのか、今だによく思い出せない。ちなみに電気や水道の払い方も分からないしケータイもよく止めて死にそうになってた。

 

あの頃って、世間にネットが普及し始めてチャットというものが流行りだしたときで、締め切りのない日は1日15時間どこの誰とも知らない人とチャットしてました。チャットしながら自分のホームページを作り、日記を書いたりそのサイト内でもチャットルームを作りファンの方と交流したり、とにかく私は何もないときは1日寝る以外の時間をパソコンに向けて居ました。パソコンの前の椅子に体育座りしてうずくまって仮眠をとる。目が覚めたらまたすぐにまた見知らぬ人とチャットをする。

 

当時、自分のサイトを作る女の子って珍しくて、雑誌に取材してもらったりネットアイドルとかやったりしてヘラヘラと生きてました。

フーゾクは裸が当たり前なのに、ネットアイドルはビキニとか着ての撮影しかなかったので、全く写真を撮られることに抵抗がなかったことを覚えてます。

 

イラストの仕事もありがたいことに忙しかったにも関わらず私には責任感というものが全くなく、原稿を落としたことも数度ありました。でもみんなガミガミ怒らず、まぁうらんちゃんなら仕方ないという感じで諦められて居たのであまり落ち込む事もなく、まぁ、的当だったなって今なら思います。

 

そのころよく、意味もなく落ち込む事が多かったのですが、私は「こんな鬱状態で、呑気に楽しい漫画なんか描けるかボケー」って自己肯定してました。(最低)

今思うとその頃出版物でイラストや文章の仕事をもらえてたことが奇跡だと思う。本当にありがたいって今なら思うしその時の自分ぶん殴りたい。

ぶん殴って実家に帰らせたい。

 

しかし、自分でもなんか良く分からないけど、定期的に落ち込む時がある。なんでかなって思いながら、落ち込んだらもう死ぬしかないみたいになって、何が何だかよく分からなくなって外を歩きながら目の前が真っ白にチカチカして歩けなくなって道端でうずくまったりすることがだんだん増えていった。

 

家の押入れに入り、ずっとブルブル震えながら泣いていたこともあった。気がついたら友達が家にきて、「おーい、出ておいでよ」って言われて自分がそこにいることに気づいたりしてた。

 

もう、イラストの仕事はやめて居たんだろうか。

それももう覚えてない。

わたしはストーブの暖かい灯の中で布団から出られず、ずっとアレサフランクリンを聞いて居た。たまに、どうやって家に入ったのかよく分からないけど友達が様子見を見にきて、少しお話ししてまた薬が効いてきて眠るってのを繰り返して居た。

わたしに家に訪問してくる人は、誰も私を責めなかった。寂しすぎる時は、付き合っても居ない女の子と抱き合って眠った。

 

そんなことでもありつつ、突然くる躁状態のようなやる気満々な気分に押されて編集者を紹介してもらったり、会いたい人を紹介してもらったり、そういうこともしてた。そういう時わたしは陽気だった。ハイというのかな。

 

そうして紹介してもらった編集者と朝までカラオケとかして、解散の時、薄ら明るくなった歌舞伎町の空を見て、なんだか虚しくなったりしてたな。

 

私が求めるほど、人は私を人として認めてくれてると感じられなかった。どうせカラオケ行きましょうよの私のセリフに嫌だよって言えずに付き合ってくれてるだけなんだろうなって思ってたから、カラオケでは全力で楽しんでるふりした。そして相手との温度差に落ち込む。多分私ってまじでクソめんどくさかったと思う。

 

あるとき、私はネットで意味もなく叩かれた。

たまたま見てしまい、わたしはものすごくショックを受けた。

内容は、表に出してないわたしの人間関係の細かいことだった。

これを書くのは、私が信じている女の子のうちの誰かしか居ないと確信を持ち、これは誰が書いたのか、あいつか、こいつか、と私の中で犯人探しが始まった。

 

前回のブログで書いた、フーゾク嬢の集まり「うらん組」の組員しかわからない情報がどんどんネットに書き込まれて行く。

うらん組の子たちは本当にいい子ばかりって私は思って居たので、すごくショックだったし、誰だよっていう犯人探しの気持ちを持つこと自体も悲しかった。

 

犯人がわからないまま私はおかしさは加速して行った。

 

 

 

 

うらん組とあのころの時代。

私はフーゾク嬢時代、「うらん組」というグループを作っていた。活動内容は、基本的に魚民(みんな金があったはずなのになぜか魚民)で飲んでいろんなお店の女の子どうし仲良く情報交換したりお正月にはみんなの目標を発表したりたまには遊園地に遊びに行ったりしていた。

 

フーゾク嬢の行きやすい性病科一覧表をコピーして配ったり、接客について何時間もみんなで真剣に話したりしてたな。

 

それはそれはすごく楽しかったんだけど、当事各女の子の所属するお店の店員さんには良い風に思われてなかった。

 

女の子同士は待機中基本的に一緒にいさせないお店が多くて、何故なら仲良くなったら一緒にお店を休んだり一緒にほかの店に移ってしまったり、そういう事があるからだと聞いたことがある。

 

特にうらん組は色ーんなお店の子がいたから、他のお店の給料体系を聞いて「うちそんなにもらってな~い!いいな~!」ってなることも多々あったと思う。

だからお店の人にはわたしは嫌われる事も多く、当時わたしがやってた雑誌のフーゾク嬢インタビューの取材のお願いに「うらんさんは取材NGです」って何店舗にも言われた。

 

それでも私はめげずにうらん組を続けてた。

スタンプラリーってのもやったことあったな。ポイントカードみたいなのを作って、うらん組の組員(と呼んでた。笑)(ちなみに私は組長。笑)のお店にいくとハンコがもらえる。そのハンコを10個集めると、うらん組のストラップがもらえるっていう。笑。(一人2万だとして10人回ったら20万、それでストラップたった一本プレゼントってどぉよって今思うけど。)

 

当時(20年前)は空前のフードルブームで、アイドルのような扱いをされてる女の子がたくさん居て、そのフードルを追いかける有名なお客さんも何人も居た。女の子同士でもその話になり「○○さんきたの? 先週うちにもきたよ~」とかのの話題もよくあった。

 

女の子も、自分が載った風俗紙をパラパラ見てるうちに他の女の子を気に入って、撮影なんかで一緒になると「きゃ~~!◯◯ちゃん!本物ダァ!緊張する!!!」ってお互いにアワアワしながら記念の写メとってるのとかよく見たよ。(裸で)

 

わたしも「お金払うんでお店に行ってもいいですか…?」ってドキドキされながら言われたことあった。気分は最高に良い!!

 

いろんな意味で良い時代だった。活気があったし平和な空気流れてた。働きたくて女の子は自主的に働いてるし(なかには色々あるんだろうけど)私はあの頃のフーゾク界大好きだな。

 

最近このブログを読んで、昔うらん組だったんだよってコがブログにメッセージくれた。

すごく嬉しくて、すぐお返事した。

わたしがこの手の話題を書く事で何かいいことにがあるかもって思って書き出したんだけど、本当にいいことにあった。

応援してる、って言ってくれて、本当に嬉しかったな。

 

私に書けることがあるなら、これからもブログを書いていこうと思います。

プロレスの虜になった日。

わたしがプロレスに出会ったのは中2の終わりだった。

 

親の言うことをただただ聞き、先生の言うことをただただ聞き、大人の言うことを聞いているのが人生だと思ってた時だった。

 

わたしは親戚づきあいも下手でろくな友達もいなかった。ろくな友達もいなかったと言うと、ヤンキーと付き合ってたのかと思われるかもしれませんがそうではなく、勝手に友達扱いされたよくわからない暴君な女の子の言うことを、奴隷のように聞いていただけ。ちなみに暴君はクラスの中では地味なグループ、イジメられもしないマジで地味なだけのグループでした。

 

話は少し変わりますが、幼女連続殺人事件の宮崎勤が現場検証をした時の映像を覚えていますか?白い服を着たフワッとした雰囲気の彼をみて、学校へ行く前の朝ごはんを食べながら「あーこの人かっこいい」とわたしは言いました。親が血相変えて「そんなこと二度と言わないで」と言いました。

 

どうして?この人は悪いことをしたのはわかってる。だけど、タイプなのだから仕方ない、それとこれとは別問題じゃないか。

わたしは思いました。

 

でも、自分の意見は、親に認められないなら言っちゃいけないんだなと私は学習した。

(その件についてはまだわたしも納得がいってません。彼が悪い人なのは分かります。でもわたしの好みなのもある。でも、悪い人なのだからそういう風に思ってはいけない、果たしてそうなのだろうか?でもそれは真実なのだからいってもいいんじゃないだろうか。言わずとも、思っていることにはじゆうがあるんじゃないか、など。でも、それを言うことで悲しむ人がいるのなら、いうべきではないのかもしれない。でも。)

 

わたしは、昔から、誰かに自分の意見を言うたびに「そう言うことは言ってはいけない、そう言うことは考えないで」と言われることが多かった。ちょっと変わってるのかネジ飛んでるのかわからないけど、そう言うことが多く、そのたびにわたしは自分を否定されたと感じ、ツラかった。そのツラさって回数重ねて行くと、自分の考え自体もたなくなるんだよね、意見持つだけツラいから。

 

でもそれが人生だとも思っていた。だから、身近な人の言うことは黙って聞いていた。奴隷のような友達づきあいも、よくわからない大人の付き合いも、自分を消し、相手に合わせることで乗り越えてきた。思ったことは考えないようにして消した。

わたしの感情は、もうずっと、無視されたままだった。

 

そんな時、夜中までたまたま起きてたら、プロレス中継が放送されていた。プロレスといえば、小学生の頃のときに近所のお兄ちゃんにプロレス技をかけられておしっこ漏らす記憶ばかりで、いいイメージはすこしも持っていなかった。

あー、まだプロレスって世の中にあるんだな、最初はそうとしか思わなかった。

 

なんども言うが、私は人生は人に合わせて自分を殺すものと思っていた。テレビを見ながら、なんでこの人達、一生懸命汗垂らして相手に向かっていくんだろう。最初はただただ不思議だった。でもわたしはそのTV番組から目が離せなくなっていた。

 

テレビの中で、お客さんのビニール傘を勝手に取って、相手をボッコボッコにするレスラーを見て衝撃を受けた。(え!お客さんに怒られたらどうするの!?)

勝って全身で喜びを表すひとを見て衝撃を受けた。(そんな喜んだら負けた人が嫌がるんじゃないの!?)

負けて悔しい顔をしてセコンドに運ばれて行く人を見て衝撃を受けた。(そんなボロボロな姿をテレビで全国放送して恥ずかしくないの!?)

 

自分の気持ちをこんなに自由に表現して良い世界がこの世の中にほんとにあるの? それでも誰にも怒られない、むしろ、感情的をだすほどに見ているお客さんはヒートアップして行くのもこの目で見た。

 

マジで? これ、マジなのかな!?

だけど、どうみても、その汗は、涙は、喜びは、嘘とは思えなかった。

 

信じられなかった。

 

番組が終わるころには、「自分の意見を表に表して良い世界があるならそこに行きたい、行くしかない、もう、いままでの人生にさよならしたい。絶対あそこに行く。」

そう決めてた。

 

その日から私は狂ったようにプロレスのとりこになったのだった。

 

初めてフーゾクの面接に行った話・3

薄暗くめちゃくちゃ狭い通路をお兄ちゃんと一緒に歩く。


まるでお化け屋敷のよう。暗くて足元がよく見えず、前を歩くお兄ちゃんのあとを必死に付いて行った。


その先にとってつけたようなおもちゃみたいなドアがありお兄ちゃんがそこを開けて「入って」と言った。


2畳もない小さな部屋。

私はその壁にくっついている小さなベッド(今思うとソファベッドかもしれない)の上に座らされ目の前にしゃがんだスーツのお兄さんと少し何かを話した。何を話したかあまり覚えてないけど、週に何度来れるのか、希望の時間はあるか、などを話したと思う。ちゃんとスーツ着てるのに、しゃがんで腕を組んで喋ってるお兄ちゃんが何だか違う世界に来たことを表してるような気がした。


保険証を身分証明として出し、それをコピーしてくるから少し待つようにと言われた。

ガチガチに緊張した私は、ドアが閉まり誰もいなくなった部屋の中で一度深呼吸した。いや、しようとした。だけどうまく深呼吸出来なくてそれを断念し、チラチラと部屋の中を見渡した。


ベッドの脇に三段の棚が一つ。一番上ににクリップランプが付いていて部屋を薄暗く照らしている。二段目には小さなCDラジカセが一つ。三段目には女の子の読むような漫画雑誌が雑に入れてあった。ベッド脇の壁には横長の大きな鏡。

そこに映る自分を見て「うわ、前髪わかれてる、化粧失敗したかな、薄すぎたかな、っていうか昨日気合い入れて前髪自分で切ったからムッチャ失敗してるブスがさらにブスだどうしよう、だめだ絶対面接落ちる、やっぱ私には無理な話だったんだ、どうしよ、待ってていいのかな、でも保険証渡しちゃった」ちゃんと覚悟して来たはずだったけどもう弱気なことしか頭に浮かばなくてそれが情けなくてでももうどうしようもなくて。


しばらくしてさっきとは違うお店の人が入って来た。

やっぱり黒いスーツを着ていたような気がするけど、ブスな顔を見られるのが怖くてあまり目を合わせなかったのであまり覚えてない。


「はい、こっち向いて。ポラ、表に貼るから」


カシャ。ジー。


「もっと笑って。はい、も一回」


カシャ。ジー。


「どうする?今日働いてく?名前どうする?」


え、え、え、ちょちょちょちょ、ちょっと待って流れ早い!!!!


気がついたら写真を撮られ、もう働く流れになってる。どうしよう、いや、どうしようっていうか働きたくて来たんだからそれでいいんだけど、なんか、心が付いていかなくてパニックになりながらも、とりあえず今日はもう帰りますとどうにか伝え、保険証を返してもらい、働く初日を来週の火曜日と決め、走り去るようにお店をでた。


急いで階段を降りながらさっきのことを思い出していた。


「面接、受かった


なんか、緊張が続いてたから安心して涙が出そうになって、あと、受かった嬉しさでいつもしかめている顔がほころんでるのが分かった。

そして、念願だった悪い人の仲間入りしたような気がした。これでようやく生きていける。私の居場所が見つかった。もう大丈夫、私は元彼がいなくても自分の力で、これからは悪い人として堂々と生きていく。


私は悪い人。ようやく私は、元彼にふさわしくない悪い人間になれた。


さよなら彼氏。

さよなら!!私はあなたにもらった、セックスならできますという唯一の価値を信じ、この道で頑張って行きます!





ちなみに行きの道を緊張で忘れてしまったため、帰り道が全く分からず、駅まで10分かからないところを40分ぐらいかけてようやく帰った。

初めてフーゾクの面接に行った話・2

束縛ストーカー彼氏から逃げるため、そして、心身ともに悪い人になるためにフーゾクで働くことをけついしたわたし。一人での面接は死ぬほど心細かったが友達に断られついに一人で面接へ行く決意をした。


束縛ストーカー彼氏の元から離れるにはまず、家を借りるお金を貯めなければいけない。

安く見積もっても30万。それに家具やなんやかんや揃えたらさらに10万。計40万。


雑誌の求人には「1日35000円保証」とあった。

え? 15日働いただけで引っ越し代たまるじゃん。

どういうこと? なんでみんなフーゾクで働かないの?

いやいや、そんな甘い話があるわけはない。絶対350000円は嘘に決まってる。だって悪い人たちがやってる仕事だもの。だけど求人誌にはそう書いてある。


よ、よ、よ、よし、私が行ってたしかめる!



お金が貯まるまでは実家にそのまま住むことにしよう。バレないように、ホテルのレストランの仕事も続けよう。


私は擦り切れるまで読んだ高額求人誌の中から、実家から一本で行ける高田馬場の店を絞って電話番号をメモった。


これは20年前の話です。だからあまり覚えていません、というわけではなく、その後、どこでどう電話をしたのか、電話で何を話し面接が決まったのか、一切覚えていない。多分、緊張しすぎて真っ白に消えてしまったんだと思う。


面接当日、私は、自分の持っている洋服の中で一番いい服を着て家を出た。一番いい、と言っても、今思うと、元彼のお母さんがおさがりでくれた赤いカシミヤのセーターだったのだが、元彼と別れた時に捨ててなかったんだな、私ヘンな度胸あるなとあとで思った。セーターの中には、当時唯一持っていた上下セットの下着をつけていた。面接で脱がなければいけないかもしれない。お金をもらうんだもの、身体も見られるに違いない。そう思って、上下お揃いの一張羅をつけて行ったのだ。

今の18歳ってどこまでお金を持っているのかわからないけど、当時の私は可愛い上下セットの下着を買うほどアルバイトでお金を稼いでいなかった。それに、アルバイトはどこで働いても続かず、ほぼ自宅警備員と言っていいフリーターだった。


面接に向かう道すがら、ドキドキであたふたしながらも私は何か吹っ切れた気持ちでいた。

「私はこれから怖い世界に行くんです。どうです、すごいでしょう。私は悪い人ですから。そういう世界に行くことができるんです。悪い人だから、人のことは気にしないんです。」

私はいつも歩く駅までの道を堂々を歩いた。少し誇らしかった。普通の人はこうして毎日を送っているのだろうか。私は今まで、出来るだけ人に会わずにどうやって歩くかしか考えられず、いつもビクビク人の目を気にして歩いていたし、同じくそのように生きていた。


高田馬場までの電車の中で色々と考えた。面接ってなにをするんだろう。履歴書もってこいとは言われなかったけど、大丈夫だろうか。服装はこれで良かったのだろうか。スーツ?いや、そんなもの持っていない。やっぱりブスだ帰れと言われるだろうか。おっぱいにも自信がない。こんなの金にならんと言われてしまうだろうか。だったらそれで仕方ない。だけどどうしても面接に受かりたい。合格してお金を貯めて家を出たい。

わたしは期待と不安に押しつぶされそうになりながらようやく高田馬場駅に降り立った。


言われていたように駅からお店に電話をかける。「あー。どうも。そこのね、大きい道あるでしょ? そこをまっすぐ坂上がって来て」


歩きながら頭の中がこんがらがる。もう誇らしい気持ちなんてすでに緊張でかき消されていた。坂を上がりきった頃にはもう緊張マックスで頭が真っ白だった。震える手を握り、言われた通りのボロボロのビルの階段を上がる。


なにこのビル、こんなボロいビル見たことない、風俗の面接って嘘だったのかな、どうしよう、でも来ちゃった。逃げるなら今だよ、でも無理だ、行くって言っちゃったから帰るわけにはいかない、でも、でも。


階段を上った扉を目の前にピンポンを押すとすぐにドアが開き、目の前には、黒いスーツの若いお兄ちゃんが立っていた。


「悪い世界、きた


頭からプシュー!と湯気が出た気がした。

初めてフーゾクの面接に行った話・1

 

19歳の終わり頃。

初めての彼氏にド依存し、別れを告げてはまた付き合い、別れてはまた復活し、を繰り返していた私ですが、やっぱりもう付き合うことはできないと感じ(詳しくは「初めて家を出た話」をお読みください)家を出ることを決意。

 

それまでもフリーター時代、何度も家を出たくて家賃や光熱費を計算してみても中卒のアルバイトじゃぁ一人暮らしなんて夢のまた夢で一人暮らしなんて無理と諦めていたので今回も無理かなぁと思いつつ、どうにか彼氏と離れたところに住みたくて必死にお金をどうするか考えていた。

 

同時に私はものすごい罪悪感に苛まれていた。矛盾するのですが、彼氏と別れたい一方、彼氏なしでどうやって暮らしていけばいいのか分からず不安も感じていた。でも、私のことが大好きだと言う彼氏の言い分をぶった切ってどうしても別れたいと言った手前、彼氏に頼ることはできない。それに私は生まれて初めてこんなにも人に反抗的な態度をとっているなと自覚もしていて、それに対しての罪悪感もものすごかった。

彼氏の愛を裏切って遠くに引っ越そうと思ってる自分を悪魔だと思った。人を傷つける権利なんてないのに、こんなにも自分を愛してくれている(とほんとに思っていた)人から離れようなんて、なんて残酷冷淡な人間なんだろうと自分を責めた。

だからどうにかまた彼氏と付き合えないかと自分の中の悪魔に相談するたびに「もう無理」と言われ、最後の方、もうどうにでもなれ、悪魔にでも何にでもなってやるよとやけになっていた。

 

もう、彼氏の元に戻ることはできない、それは自分で決めたこと、自分は悪魔で、悪い人だ。私は今後その面を隠して生きてはいけない。私のことを好きになる人間も今後現れないだろう。

よし、悪い人になろう、悪い人になって、若い男をはべらせて悪いお金をたくさん持つ人間になって悪魔として生きていこう。

 

私の考え方は極端ですが、如何せん世間を知らなかった。悪い人っていうイメージは若い男をはべらせた毛皮を着たマダムの印象しかなかった。どこで覚えてんだそれ。今、19歳の自分に聞きたい。

 

悪魔になる覚悟が決まり、家でアルバイト雑誌アンを読んでいると、今まで飛ばし読みしていた「夜のアルバイト」というページを見つけて見てみた。どうも、キャバクラのアルバイトの募集らしい。

「キャバクラならたくさんお金がもらえるかも」と思ったと同時に知らないおじさんを前にニコニコお酒作る自分がどうしても想像つかず、お酒も飲んだことがほとんどない、第一こんなブスな自分、面接で笑われ落とされるに決まってる。と思った。

私はキャバクラを諦めアンを閉じた。

 

ある日わたしは、コンビニでアルバイト雑誌を探していた。何かないか、お金をもらえる仕事がなにかあるはず。

すると、ふと、ひときわ胡散臭く輝く「高収入アルバイト雑誌」というのを見つけた。

恐る恐る立ち読みすると中身はアルバイト雑誌と変わらない。

ただ、信じられない言葉の羅列に驚いた。「脱がない、舐めない、触らせない、日給35000円保証」ほとんどのお店がそう書いてあった。「脱がない、舐めない、触らせないだと? じゃぁなぜ35000円の高額をもらえるの?」それが嘘だと言うことは分かっていた。そんなわけないし、私は脱いでも舐めても触られてもいいから35000円欲しいからその辺はどうでもいい。彼氏の元から逃げるためには悪い人にならなければいけない。そのためにはお金が必要なんだ。

私はエロ本を買う高校生のように挙動不審にその雑誌をレジに持って行った。

 

家に帰ると一目散に部屋に入り布団の下にその本を隠した。

それからいつものように家族で夕食をとり家族でテレビを見ながらくだらない話をした。でも私の頭の中には「日給35000円保証」の文字だけが浮かんでは消え浮かんでは消えていた。

 

次の日親が仕事に行くと、私は布団の下から昨日買ったアルバイト雑誌を出して隅から隅まで目を通した。

どうも風俗専門の求人誌らしいぞ。フーゾクといえば、夜中にテレビでやってるトゥナイト2によく出ている裸?下着?の女の子のことだよな?

 

当時私は、フーゾクは世の中の一番最下層の人生捨てた女が働くこの世で最もやってはいけない仕事だと思っていた。

 

これだ。

 

ピーンときた。

どこで教えてもらったか忘れたけど、体を売るのは悪いことだ。そこにいけば私は悪い人になれる。悪い人だけど、仕事になるということはそこにいれば私は生きることを許されるだろう。ここに行こう。ここに行くしかない。

 

だけどこの顔で、面接受かるだろうか。ブスがきたぞとお店の人に笑われるかもしれない。いや、笑われるに決まってる。だけどもう私には他に道はない。御免なさい、ブスですが、私セックスなら出来るんです。

 

私は昔から自己評価が低く、自分を世界で一番のブスだと決めつけていたし、自分には何の価値もないと思っていた。初めて彼氏が出来た時は、死ぬほど嬉しくありがたい反面、なぜ私と付き合ってくれるんだろう?と毎日不思議で仕方なかった。なぜ私に興味を持ち、出会ったその日のそんなに知らない私の前でビビリもせず裸になりセックスしてくれたんだろう。私は18年間だれにもセックスもお付き合いもお願いされたことがなかったので、彼に求められるただそれだけでありがたくて仕方ないと思って彼に処女をもらっていただいた。

 

彼と付き合ってた2年間、セックスだけは一度も断ったことがなかった。痛くても擦り切れて血が出ても生理でも一切文句は言わなかった。相手の希望で毎回行為を受け入れた。自分が気持ちよくなるためにセックスをしたことがなかった。私はただ、私自身を受け入れてもらうためにセックスをしていた。痛くてもなんでも、求められているうちが花。アリガタヤアリガタヤ。本気でそう思っていた。そうこうしているうちに気がつくと、セックスが出来るという価値だけを自分で認めることができるようになっていた。男の人は、セックスできるよといえばこんな私なんかに優しくしてくれるんだな。そう思った。

 

仲の良かった友達が「彼氏がセックスセックス言うからうざくて~」と言うのを聞き、セックスさせていただいてる身分でよくそんな偉そうなこと言えるなぁと本気で思っていた。冗談ではない。本気でそう思っていた。歪んでいるが、本当だから仕方ない。

そう言う意味で、初めての彼氏は、私に初めての価値を与えてくれた人だった。私は彼に求められるたびに自分が生きていいと思えた。だから別れる時自分も辛くて、何度も別れては付き合うと繰り返したんだなぁ…。

 

話は戻る。

 

私は悪魔になるためフーゾク嬢になることを決めた。ブスだけどセックスはできます!資格はないけどやる気はあります!な感じで私は働く意欲が湧いていた。

だけど、決めた割に、一人で面接に行く勇気がなかった。この世で一番悪いと言われる、テレビでちらっとしか見たことのない世界、どんな怖い人たちがいるか分からない、面接に行ったらどこかに連れて行かれて殺されるかもしれない。ブスは金にならないと、内臓を取られるかもしれない。悪魔になる覚悟は決めたけど、私は中途半端に身の安全を願っていた。

 

だれか一緒に面接に行ってくれる人いないかな。

 

ふと、一緒にホテルのレストランのアルバイトをしている女の子のことを思い出した。

 

その子は、朝の電車でイケメンの痴漢を捕まえて「やりたいならホテル行こうよ」とラブホテルに連れ込んだり、近所の公園で声をかけてきた同年代の男の子と公衆トイレでした話など、いつもいろんな話をバイトが暇な時話してくれていた。

この子なら、フーゾクの面接に付き合ってくれるかもしれない。

 

次の日、アルバイトに行った私は「フーゾクに行くと一日350000円もの大金が手に入るらしいよ」とその子を誘ってみた。

 

「親バレしたらマズいっしょ、うちの親厳しいんだよね」

 

即座に断られた。がっくし、、、。

やっぱりフーゾクという世界は相当悪い世界らしい。痴漢とラブホテルに行く方がまともだとは、どんだけ恐ろしい世界なんだろうフーゾク!

 

結局私は試しに一人で面接に行って様子見てくるとその子に告げた。