この記事は7538文字です。(読破予想時間:約17分56秒)
木藤亜也ちゃんの日記、『1リットルの涙』、去年、入院していた病院の娯楽室に置いてあった本で、既に入院中に一度読んだ本ではあるのですが、どうしてもまた読みたくて、結局、買っちゃいました!
◇生まれて初めての内視鏡、そして救急搬送へ
亜也ちゃんは僕より少しお姉さんですが、敢えてちゃん付けで呼ばせて貰います。
その理由は、読めば何となく分かると思いますが、ここでは触れないでおきます。
その答えは、亜也ちゃんの主治医の山本纊子(やまもとひろこ)先生があとがきで書いておられます。
この記事は、『1リットルの涙』のレビューではありますが、入院中に出会った本ですので、この記事も入院シリーズ第5弾と位置づけたいと思います。
◇読書も音楽もやっぱり本物に限る!
単行本やら文庫本やらいろいろ出てますが、僕が病院で初めてこの本を読んだ時の衝撃やら思いやらいろいろなものがありますので、病院で読んだ本と同じ表紙の本を買いました。
でも、病院の本は確かハードカバーだったと思うのですが、僕の買った本はハードカバーではありませんでした。
しかし、写真や挿絵が少し増えてて、内容はまだ全部読み返してませんが、おそらく文章全体は同じだと思います。
1リットルの涙・木藤亜也
まず初めに、この本はとてもお薦めである事、そして、読まないと人生損してるよってくらいの思いが僕の中にはあると言う事をお伝えしておきたいと思います。
1リットルの涙―難病と闘い続ける少女亜也の日記
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その上で、「よし、私も読もう!」と思った方がいらっしゃったなら、この先は読み進めないで下さい。
出だしからラストまで、ネタバレだらけになるからです。
そんな方には是非、読み終わった後にもう一度ここへ訪れてこのレビューを読んで頂ければ嬉しいです。
その時に、もしよろしければ、『1リットルの涙』に関する感想など聞かせて頂けると尚、嬉しいです。
まず初めに、この本のレビューを書こうと思えばいくらでも僕は書ける。
それほど、亜也ちゃんの一言一言にいろんな思いや疑問・質問や・分析や自分なりの解釈が溢れ出て来る日記なのだ。
いきなりネタバレだが、亜也ちゃんが転んで前歯を3本だっけ?とにかくたくさん折った話なんて、リアル過ぎてまるで現場に自分がいるかの様に錯覚をおこして、身が縮こまったし、その話だけで、コンパクトにまとめても、本にして四ページくらいは楽に書けてしまう。
この本の全てのエピソードにいろんな思いが溢れ出てきて、その全てを文字にして書きたいのだが、その思いを出来るだけコンパクトにまとめても、全てのエピソードについて書こうとすると間違いなく原作の三倍の長さは必要になってくる。
原作が1冊に収まってるのに、無名のミュージシャンでありプロの物書きでもない、こんな僕のしかもレビューを上中下巻読みたいなんて人がいる筈もないので、今回は、亜也ちゃんの日記の全体を捉えてレビューにしたいと考えている。
十二指腸潰瘍で入院して最初に手にして読んだ本がこの本だった。
僕はまだ観た事がないのだが、随分前に『1リットルの涙』はドラマ化された事があるらしい。(追記:今現在は、既に観ています。2019.3.6)
◇1リットルの涙、日記・ドラマ・映画の3人の亜也ちゃん
この本のタイトルを見た時に、昔働いていた職場にいた女の子が最近見ているドラマについて語っていたのが、確かこんなタイトルだった様に思うと言うのが、何となくこの本を手に取った理由だった。
その女の子の説明があまり上手くなく、何か難病と闘う女の子の話で実話をドラマ化したと言う事くらいが薄ら印象に残っていた程度で、その時も特に興味を持つ事はなかった。
「もしかしてあの時、彼女が言っていたドラマ化された実話と言うのはこれの事か?」と思いながら、何だかやたら読んでみたくなり、まるで本に誘(いざな)われるかの様に本を手に取り、病室へ持ち帰って読み始めたのだ。
僕が当時のその職場にいた女の子から聞いて抱(いだ)いていた印象とその中身はまるで違うものだった。
僕は、本を読む時、その本が書かれた時代などを、文章から読み解くのが一つの癖であり楽しみでもある。
表紙に「難病と闘い続ける少女 亜也の日記」とあるが、日記を取り上げながら解説を加えていくタイプの著書ではなく、中身は、正味の日記そのものだ。
出だしを読んだだけでプロの文章でない事はすぐに分かる。
しかし、14才の頃からスタートしているこの日記は、中学生にしては凄く上手だと思ったし、それより何より、一言一言がどんどん自分の中へ入って来る。
そして、何やら懐かしい文体でもある。
僕達の年代の女の子達が中学生くらいの時に書いていた、とても女の子らしい文体なのだ。
少し読んで、この亜也ちゃんと言う子は僕と歳が近いのだと言う事はすぐに分かった。
そして、更にしばらくで、おそらく3つか4つくらい年上ではないかと言う事も分かる。
年代が近くても、3年も経てば、中学や高校の生徒は一通り入れ替わり、一つの年代が切り替わる。
そして、その世代毎に、特に女の子の書く日記などの文章は、特徴があって、その特徴は少しずつ違ってくる。
その中で、やはり一つ上の世代の特徴や流行りは、その年代の少年・少女にとっては昔のものに感じるし、下の世代の流行りは何がいいのか分からないものに感じたりもする。
歳が大きく離れた世代からすれば、その僅かな違いなど気付きもしない程度のものなのだが、この日記は、僕よりほんの少し上の世代のお姉さん達がよく書いていた系統の文章で、物凄くその時代を懐かしく思い出させるものだった。
そしてそれは、亜也ちゃんがどこにでもいるその時代のその年代のごく普通の女の子だったのだと言う事を僕に強く認識させるものだった。
ここで少し話はそれるが、「感動」って一体何なのだろう?
僕は、何か不幸な話を見聞きしてやたら「感動した!」と口にする人が多い事に以前から違和感を感じている。
24時間だったか27時間だったかのテレビで、結婚してすぐに奥さんを亡くされた方が出ていて、この悲しく救いのない話にやたら感動と言う言葉が飛び交うのにも違和感を感じていた。
そして、「1リットルの涙」に関してもそうだ。
本の帯やら何やらで至る所に「感動」と言うキャッチコピーが踊っている。
1リットルの涙の帯の「感動」の文字
生きたい!と強く願いながら、必死の努力をした亜也ちゃんや亜也ちゃんのお母さんの願いも届かず、若くしてこの世を去る事になってしまったこの話に、果たして「感動」と言う言葉はふさわしいのだろうか?
必死の努力の結果、病魔に打ち勝ったと言う物語なら感動と言う言葉もすんなり入ってくるが、この話にはそんな救いはない。
僕は、「感動」と言う言葉の中には、勝手に最終的に何かしら救いがあっての「感動」だと長年思い込んできた。
例えば、オリンピックの選手が、怪我や家庭事情など、いろいろな苦労や想像を絶する努力を重ねてようやくメダルを手にした瞬間に起こるものが感動であって、努力を重ねたがオリンピックに出るどころか、怪我で選手生命まで断たれてしまい、未だ回復に至らず治療費が嵩み借金だけが増えていくのを「感動」と読んでいいのだろうか?
不幸を乗り越えてこそ、その努力に感動するのであって、僕自身は救いも何もない話に感動する事などない。
そこで「感動」と言う言葉を調べてみたのだが、広辞苑によると「深く物に感じて心を動かすこと」とある。
Googleでトップヒットしたのは「物に深く感じて、心を動かすこと。」
この意味からすると、僕は少し幅の狭い解釈をしていた様だ。
結果、救いがなくとも、そこまでの努力や苦労に心を動かされたのなら「感動」と言う表現は正しいと言う事になる。
未だに違和感もあり長年の思い込みと習慣のせいか、そういう場面で「感動」と言う言葉は使いたくはないが、そういう事ならそれで仕方がない。
ならば僕もこの本を読んで感動したと言う事になるのだろう。
僕は本格的に日記を書いた事はなくて、せいぜい、夏休みの宿題程度ものだが、長年場所や形を替えブログを書いている。
亜也ちゃんの日記を読んでいて感じたのは、やっぱりブログと日記は別物で、ブログと本も別物であると言う事だ。
いわゆる「似て非なる物」と言うやつだ。
亜也ちゃんの日記には、その一瞬一瞬が嘘偽りなく記されていて、その感情も包み隠さず書かれている。
しかしブログは隠し事が多く、感情をそのままストレートに書いたりすると大炎上する事も珍しくはない。
亜也ちゃんの日記の様に、日記をひとたび書籍にすると、誰にも見られる筈のなかった日記は、読者を得る事になる。
ブログはネット上で公表するものなので、不特定多数に見られるものだと言えるが、書籍と言うものは、ブログと同じ様に不特定多数に公表されてる様で、実はそうではない。
本と言うものは、読書が好きであり、尚且つ、その本のテーマに興味を持った者の目にしか、ほぼ入らないものなのである。
ネットはブログでもFacebookでも、“何となく見る”と言う、本では有り得ない事が普通に起こるので、安全地帯はない。
しかし、書籍の場合も確かにネットを通して炎上する事もあるが、ブログに比べるとその数はミクロの単位であり、ほぼ、好意的な読者ばかりに暖かい目線で読まれる事が多いと言える。
もう既に他界した女の子(1988年5月永眠)の日記なのに文字の力は凄い。
勿論、亜也ちゃんの生前の生命エネルギーや込めた心や魂のエネルギーの強さの凄さもあるのだが、常日頃、生きた証をこの世に残して往きたいと願う僕は、文字の力に特に注目してしまうのだ。
◇生きた証をこの世に残したい−その証2つ
字を活かすと書いて活字。
亜也ちゃんが書き綴った文字はまさに活字だと思う。
この文字達は未だ、活きながら生きている。
彼女の日記を読んでいると、間違いなく死んでいる筈の少女が、そこには確かにいるのだ。
一つ一つの感情の乗った、エモーショナルなセンテンス(文章)が、知らない少女の存在を読者に感じさせ、我が事の様に身近な存在に感じさせる。
僕にとって、音楽を残す事は、生きた証を残す事であるのだが、ブログはそうではない。
音楽も大して売れなければ、それを買ってくれた人や、自分の知り合い達が全てこの世からいなくなった時、自分の生きた証は消え去って、本当の死を迎える事になる。
生きた証として残したければ、いろいろな人が普通に僕の名前や曲を口にして、当たり前の様に通じる程、たくさんの人の心に深く刻まれる必要がある。
ま、ずっと語り継がれるのなら、一部マニアの間であっても生きた証を残したと言えるのだが。
そういう意味で、音楽作品を残す事は生きた証を残す事に繋がる事ではあるが、作って残しただけでは時間と共に消え去ってしまうのである。
そして、ブログに関しては、生きた証を残せるものだとは思っていない。
そもそも、更新が一定期間ないと全部削除される様なサービスもあるくらいだし、自分が書いてるこのアメブロの記事が、300年後もこのまま公開されている事は考えづらい。
なので、僕は生きた証を残す為にブログを書いている訳ではない。
しかし、本ならば音楽と同じく生きた証を残せる可能性はある。
但し、音楽と同じく売れればと言う事ではあるが。
しかし、亜也ちゃんの本はベストセラーになる程売れた上、未だに売れ続けている。
木藤亜也と言う少女がいた事は、この本を読んだ人々は死ぬまで忘れないだろうし、きっと、僕達がいなくなった後にも、本を通してたくさんの人が彼女の存在や生き様や人柄を知る事になるだろう。
彼女は最後まで前向きな必死の努力で人々の心を動かし、お母さんの深い愛情と協力によって、永遠の命を得たのだ。
生きた証をこの世に残すと言う事は、永遠の命を得る事と等しい事なのだ。
そして、亜也ちゃんだけではなく、亜也ちゃんには木藤潮香さんと言うお母さんがいた事も永遠にたくさんの人達が知る事になるだろう。
誤解をしないで聞いて欲しいのだが、僕は彼女が羨ましい。
これは勿論、病魔や苦労についてではなく、生きた証を残せたと言うただ一点についてのコメントである。
身体障害者の視点は障害を持たない人間には分からない。
その視点の説明を聞いた所で、その話を受け取る時には主観ではなく客観だ。
しかし、本人が発信した日記を読ませる事で、読者の視点は主観に変わる。
彼女の言葉を実際に声に出したり、心の中で声にして読む事で、すなわち広い意味で口にする事によって、まるで台詞を口にする役者の様に視点が主観に変わるのだ。
彼女の日記を読んでいる一瞬一瞬、読者にとって彼女は確かに存在し生きている。
それどころか、過去のその時を一緒に過ごしている感覚すらある。
先程も書いた事だが、音楽や本など、何も残さなければ、その人を知る人間が全て絶えた時、その人は無になり、本当の死を迎える。
しかし、彼女は読者がいる限り生き続ける。
彼女は何の為に生まれてきて、何の為に生きているのか、随分悩んだ事だろう。
それを思うと胸が痛くてたまらなくなる。
でも、亜也ちゃんのお母さん(潮香さん)が言う様に、亜也ちゃんはたくさんの人に勇気を与えている。
治る見込みもなく猛スピードで死へ向かう難病を抱えて生きる、1つの生き方の指標に十分成り得たのではないか?
そして、健常者に対しても、今までにない視点を亜也ちゃんは与えた。
そんな亜也ちゃんに、勇気や反省など様々なものを僕達は貰った。
亜也ちゃんが生まれてきた意味・生きた意味・存在した意味が、そこには確実にある。
その意味を亜也ちゃんは自分自身で生み出したのだ。
物凄く前向きで、懸命な努力で。
そして、お母さんの力で亜也ちゃんの日記が出版される事によって。
魂を活字にし、本にその魂を封印し、誰でもその気があれば簡単に封印が解ける様にした、もしくは、出来たその才能や環境は、もはや宿命だったと言わないと説明がつかない。
亜也ちゃんの人生は、辛く苦しく悲しい人生だったかもしれない。
勿論、それが全てではなくたくさんの小さな、或いは大きな幸せもたくさんあっただろう。
何度も同じ事を言わせて貰うが、それら全てをひっくるめて考えると、どうしても、貴方が生まれた事、そう言う人生を送った事には意味があったと言わざるを得ない。
まだ、完全な答えは出ていないけど近い将来か遠い未来か、いつか具体的で確かなその意味は紐解かれる日がきっと来るだろう。
【あとがき】
亜也ちゃんの病状が進むにつれ、彼女のお母さんですら、亜也ちゃんの書いた日記の文字の判読が困難になっていきます。
そして、14才から始まったこの日記は20才で途切れています。
きっと彼女は、判別できない程の文字を書けなくなるまで一生懸命書き続けたのでしょう。
20才で途切れてから亡くなる25才まで彼女が何を思い、どう過ごしたのかは、この本を読んでもわかりません。
「亜也ちゃん、いいお母さんの元に生まれて良かったね。」
彼女と話せたら、彼女の最後の数年間の思いを質問するよりもまず、そんな言葉をかけてあげたいなって思っています。
亜也ちゃんには、山本先生や兄弟達や友達や先生など、たくさんの素晴らしい出会いがあったのは日記から明白ですが、やっぱり誰よりもお母さんが一番心強い味方であったと言う事もはっきりと分かります。
亜也ちゃんの日記『1リットルの涙』からはいろんないい影響を貰う事が出来ました。
半月以上も前に読んだレビューを今ここに、乱文ながら書けているのも亜也ちゃんからの影響のおかげなのです。
亜也ちゃんのマネをして、エモーショナルにその場その場で思った事を病院で紙に書きなぐったものが、今、ここに書き写されているのです。
◇木藤亜也ちゃんの影響で始めた感情と思考のノート
僅か25年で彼女が人生を閉じた時、僕は21才でした。
その年に22才になる年でしたので、彼女の誕生日を調べた所、亜也ちゃんと僕との年の差は4つ差と言う事になります。
亜也ちゃんが亡くなってからの出会いでしたが、出会って良かったと思っています。
勿論、その出会いは本の中での出会いです。
後はただただ、木藤亜也ちゃんのご冥福を祈るのみです。
亜也ちゃん、潮香さん、心よりありがとうございました。
この出会いに感謝致します。
木藤潮香さんをはじめ、亜也ちゃんのご家族と山本先生と亜也ちゃんが愛した全ての人達のご健康を心よりお祈り致します。
それが、きっと亜也ちゃんの望みでもある筈ですから。
【追記】
山本纊子先生は、昨年1月12日に膵臓がんにより他界されていたそうです。
丁度昨日が一周忌だったようです。
偶然にもこの記事を書き始めた日が山本先生の命日だった様です。
僕は、この事を偶然と書きましたが、実は、本心ではこれも縁でありこの本と山本先生を含む登場人物の方々との意味のある出会いであると思っていて、決して偶然だとは思えないと思っているのです。
◇縁の話
僕は、亜也ちゃんの日記の中の山本先生しか知りませんが、大変な名医だったと思います。
非常に残念です。
山本先生、お疲れ様でした。
山本先生のご冥福をお祈り致します。
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