島津家と明智光秀の交流の想像話です。


光秀と島津とは表立っての交流記録はありません。

島津家との交流で記録に残っているのは、坂本城で行われた家久との歌会の記録だけです。


島津家と明智光秀の交流は、光秀が足利義昭の家臣時代にありました。島津家は足利義昭🟰将軍崇拝者でした。そして、島津義弘が拝謁に来ました。


義弘は元の名が『忠平(ただひら)』でした。

そして、『義珍(よしたか)』にし、最終的に

『義弘』に改名しました。


義弘もまた、真田のように隠密に京都に来ていました。外務担当は、明智光秀でした。

義弘と光秀は話をしました。義弘は現場責任者であり、並外れた戦闘力がある事を光秀は察しました。

義弘は、鉄砲についても詳しく、種子島経由の鉄砲を取り扱っており、鉄砲の師匠の名まで口にした。

義弘はすでに鉄砲を使った戦術を取り入れているようであり鉄砲の話、戦術の話で2人は熱狂した。


話の中で将軍の力を取り入れたい事も分かった。そこで光秀は、義昭に名前を一文字義弘に渡してはどうか?と提案した。

さすがに義昭は難色を示した。名前を一文字渡す行為は、通常ならば家督の嫡男に渡すものである。それを次男に渡す事は前代未聞の話であり、嫡男義久が激怒するのではないか?


しかし、光秀は説きました。

義弘は島津の現場総責任者である。総責任者自らを味方にするのはどうか?と。

結果的に義昭は一文字渡すことにしました。

島津は足利将軍筆頭の大名となりました。


島津義久も怒る事なく、兄弟4人で『よくやった!』と喜びあったようです。

信長でさえ名前をもらっていないのに、自分たちは名前の一文字をいただけた。どこの大名たちも貰っていない。自分たちは大名として認められた。どこの大名よりも格が上だ!と、島津家では考えられていました。


そして、義弘は兄弟に明智光秀の話を聞かせた。

今回、随分と世話になった。名前の事も光秀が取り計らいしてくれた。

島津家は明智光秀に感謝しかありませんでした。


そして、数年が経ったある日、島津家久が京都にやってきました。連歌師の里村紹巴が島津家と深い繋がりがあり京都へ招きました。紹巴の弟子の心前と家久が意気投合しており、毎日歌とお酒三昧だったとか。


紹巴が気をきかせて光秀に声をかけました。

島津の家久がお忍びで、我が家に来ているぞ。と。

お忍びで京都に来ていたのに、いきなり光秀が現れて、しかも坂本城に招待されて、家久は大接待を受けました。

お茶のお手前が分からないという家久に、光秀は熱心にお茶を教えました。家久も必死に覚えて兄たちに教えたそうです。


ちょうどこの頃は、島津家と長宗我部家は仲が良く、お互いの国を船で行き来して、経済活動を活発に行っていました。


1582年の本能寺の変の直前、長宗我部元親は島津義久に対し、わざわざ「大きな軍船(大船)」を進呈したという記録(『上井覚兼日記』)が残っています。

これは「信長がいよいよ四国や九州を潰しに来るぞ。お互いに警戒して備えよう」という、強い同盟的メッセージだったと考えられています。


光秀と長宗我部元親は、本能寺の変の前の時期に手紙の応酬を行っていました。手紙の内容は、長宗我部元親への説得文でした。この頃の文化人と言われている人は、手紙に歌を添える事を行っていました。元親もまた文化人でした。手紙では光秀の説得のやり取りに見えていましたが、歌では、

『世の中の平和のために動く。事が起こったその後は自分たちの領土安定に尽くせ。』と書かれてた。


細川藤孝、筒井順慶、真田昌幸、長宗我部元親、島津家久。これらの仲間には、歌を通した暗号文を送りました。

細川藤孝と筒井順慶には『来るな。娘を頼む』

真田昌幸、長宗我部元親、島津家久(島津家)には、『この混乱の間に領土の安定を』

それぞれの言葉を送っている。


そして、それぞれの武将たちは、光秀への恩を返すため、命をかけて武士の恩返しをしていきます。


そして、島津家が恩を感じていたのが寧々です。

義弘が秀吉を激怒させた時も中を取り持つなど、寧々には何度も助けられています。


その大事な寧々を自分より身分が低い(島津家は、自分たちは将軍から名前をもらっているから格上と思っていた。)家康から寧々様を救い出す!そして、今この時、光秀への恩義を返す!

そして、島津義弘は中央突破で、徳川家康の首をも狙う大胆な攻撃を仕掛けました。


関ヶ原から本陣を突き破り、堺に逃げ延びた義弘は、大坂城(豊臣家・徳川方)に対して「義弘は秀頼様のために戦って関ヶ原で討死した。葬儀を国元で行いたいので、妻たちを薩摩へ帰してほしい」と涙ながらの嘘の使者を送りました。この混乱に乗じ、大坂にいた島津の家臣たちが、屋敷を包囲される前に妻たちを連れ出し、大坂城下からの脱出に成功。堺で待つ義弘の船と合流させたのです。


この時、義弘ら島津軍を匿った堺商人がいます。

塩屋孫右衛門と田辺屋道与です。

彼らの協力なくして、義弘の大脱出はあり得ませんでした。


関ヶ原の後、敗戦国の中で唯一、一石も減らさず国を守ったのが島津家です。徳川家にとって島津家は恐怖の存在となったのです。