さて、今回は明智光秀脱出ルートの事についてです。すでに、解明されている記録があります。


妙心寺から比叡山延暦寺までの脱出ルートです。


妙心寺➡️鷹峯➡️鞍馬➡️大原➡️柳木峠➡️比叡山

このルートは、山伏修行ルートになっており、関所を避けるルートになっているそうです。

なぜこのルートを光秀は知っていたのか❓
それは、足利義昭の家臣として京都の地理や関所の配置、山道の構造を徹底的に調査・管理する仕事(京都奉行のような役割)をしていたからです。

京都のどこに秀吉の関所ができ、どこの山道なら兵士が来られないかを誰よりも熟知していた光秀だからこそ、妙心寺から比叡山への「針の穴を通すような山越え」を成功させることができたのです。

また、この移動の際、比叡山延暦寺案内に山伏も協力して道案内したのでは?と、云われています。


しかしながら、比叡山延暦寺にとっては、明智光秀は攻めて来た張本人であり、大金を積まれても守る義理はないというのが本音です。

また、秀吉にバレたら酷い目に合わさるので、受け入れは出来ないですよね。信長に復興も許されていない状況だったので、お寺も結構荒れていたのかな?お金は実はありがたかったのではないでしょうか?


大金を渡して山奥の場所を貸すという事なら大金を隠せば後は、バレても勝手に住んでいたと言えるので、間接的に匿っていたんだろうと思います。


比叡山が攻められた時に、巻き添えを食らったお寺があります。西教寺がそうで、復興に光秀は力を入れていたそうです。あと盛安寺(別名 明智寺)や聖衆来迎寺も光秀ゆかりのお寺として、縁の深いお寺があります。お寺を大事にする姿勢は、延暦寺にも伝わっていたと思います。


そして、比叡山延暦寺に潜伏した後、和泉国 貝塚市の息子のお寺に会いに行きます。

生駒山から信貴山を抜けて、またまた山伏修行ルートを通り泉大津市助松の蓮正寺に寄り、その後貝塚市の海雲寺に行き、お別れをしたんだろうと思います。名を変え違う人として生きていくからです。


息子は身内なので秀吉にマークはされていたと思いますが、設立は本能寺の変の前に建てられていますので、取り壊しなどなかったんでしょうね。

設立は1576年。亀山城構築の年と同じ年です。

光秀は逃げる場所を同時進行で作っていたんだと思います。貝塚市は、明智一族が住んでいるところがあり、光秀も知らない町ではなかったんですね。


その後の明智光秀は名を改め『天海』になったと、私は考えています。


筆跡鑑定で同一人物か近い身内の人と出た話、位牌にも名を残し、掛け軸にも「光秀はここで出家して死にました」と記載しています。これらは、秀吉から存在をくらます手段として、書かれたと云われています。


天海が家康とコンタクトをとったのは、いろんな年のいわれがあります。

1608年 駿府城で家康が将軍職を外れた後に密会

1609年 家康に本格的に重要された。

1610年 徳川家公式記録に『天海』と名前が出た


これより古くは、1590年にすでに会っていたという記録もあり、小田原攻めの時に陣内にいたとも云われています。

1600年関ヶ原の戦いの時に戦略を立てたのは、天海という話もでているようです。


そして、何より斎藤利三の娘お福が春日局になって対面した時に言った一言が有名です。


「お久しぶりでございます。お姿を変えられても、私にはひと目で分かりました。我が父・斎藤利三の主君、明智光秀様でいらっしゃいますね」


それに対し、天海は


「これはお福殿、人違いでござる。私は比叡山で修行を積んだただの僧、南光坊天海。明智光秀なる武将は、とうの昔に山崎で果てておりますよ」


と返答したそうです。


この斎藤利三の娘お福を家光の乳母に推薦したのも天海と云われており、徳川家乗っ取りが本格的になっていきました。


『国盗り』を光秀はすでに目の当たりにして来た時代がありましたね。そう、斎藤道三がした事を自分も行い、道三よりスケールの大きい全国統一を果たしたと私は思っています。


想像の話ですけどねウインク