山崎の戦いで、明智光秀は落武者狩りにあって亡くなったと云われています。


この話はどこから出たのか❓


一説によると妙心寺の密宗和尚が噂を流したと云われてます。密宗和尚は、明智光秀の叔父にあたる人で、山崎の戦いで光秀が最初に逃げ込んだ場所と云われており、ここで切腹させてくれという光秀に対して、生きろと説いた人と云われています。


実は、光秀の息子は出家しており、妙心寺で修行して、和泉国の貝塚市に1576年に海雲寺設立を行っています。息子は、南国梵桂(なんごくぼんけい)という名です。※海雲寺は後に岸和田市に移転し、本徳寺と名を改めています。


1576年といえば、本能寺の変より前になります。

1576年に光秀は何をしていたか?

この時期は、光秀にとって1番苦しい時期で厄年と言われていた時期になります。


1️⃣丹波攻略失敗 

波多野秀治に裏切られる。


2️⃣石山本能寺攻めと大病 

石山本能寺との戦いは激戦となり、信長に救われた。その後、生死を彷徨う大病となる。


3️⃣最愛の妻を亡くす。


4️⃣丹波亀山城構築 本能寺の変の際、出陣した城

京都からも安土城からも、山に隠れて見えない絶妙な場所に建築されている。また、京都まで20数キロの位置にあり、夜通し歩けば早朝に着く距離だったようです。


そして、1582年本能寺の変が起こります。

そして、秀吉が中国大返しで京都まで脅威のスピードで戻り、山崎の戦いが始まります。

豊臣軍 3万5000人

明智軍 1万6000人


近年の研究結果から、秀吉は山崎の戦いには間に合っていないと云われています。それで圧勝の豊臣軍。豊臣軍に大山崎を抑えられ、明智軍は布陣を展開するも、圧倒的な人数差に撃破されていきます。


そして、光秀の脱出劇が始まります。