今回は、この方が関わっていると言われている場所を巡ってきました。
上の画像は、明智光秀の肖像画と言われてる掛け軸の絵です。岸和田城の資料館にレプリカですが展示されてます。本物は岸和田市の本徳寺にあります。本徳寺は、明智光秀の子とされる南国梵珪(なんごくぼんけい)が創建したと伝えられます。
明智光秀の生存説が泉大津市と高石市には伝えられています。
生きていた証探しをしていきます![]()
光秀寺(こうしゅうじ) 高石市
こちらが光秀寺です。
『こうしゅうじ』と読むようですが、『みつひでじ』ですよね![]()
元々は泉大津市助松町にあったそうですが、1976年に高石市に移転されました。助松町にあった時は、『助松庵』と呼ばれていたそうで、そこに山﨑の戦いで敗れて逃げ落ちて来た明智光秀を匿っていたといういい伝えがあります。
歴史ロマンのある話でしょ?ワクワクします。
(≧∇≦)キャー
表に光秀寺の説明と石碑があります。
光秀公の石碑も建ってます。下の方は見えてません。訪問した日は、残念ながらお留守で外からの見学です![]()
釣鐘の向こうに見えるのは、明智光秀の桔梗紋
では、次に行きます。
次は光秀寺に移転する前の蓮正寺に行きます。
光秀寺から海に向かって歩いていくと、紀州街道に入れます。
紀州街道と言っても、歴史的な町並みではなく、普通の民家が建ち並ぶ道です![]()
紀州街道から少し海の方へ歩いていくと、蓮正寺さんがあります。
蓮正寺
この正面門と釣鐘はその当時のままとか。
他は残念ながら火事になってしまったとか。
このお寺さんは、和泉で勢力があった三好宗三の弟の三好長円が建てたお寺。その境内に仁海上人が『助松庵』を建てた。その助松庵に明智光秀を匿ったと伝えられています。
お寺が火事になって助松庵を高石市に移転。
それが光秀寺になったとの事。
泉大津市には、明智光秀の数歌と言われている伝承俗謠が存在してます。
『鳥羽にやるまい女の命 妻の髪売る十兵衛が住みやる 三日天下の侘び住居』
明智光秀は生きていた。
この軍扇は、幸村が大坂冬の陣の際に、敵方の若武者 松平直政に真田丸から投げ与えたと言われている軍扇です。
この軍扇ですが、山城の戦いのあと真田幸村の父である真田昌幸が手に入れて、幸村に与えたと云う一説もあるようです。
昌幸がどの様に手に入れたのか分かりませんが、それを幸村に託され、真田丸の采配時に使用していた。幸村の真田丸での戦闘で、鉄砲の使い方が明智
光秀の戦略だったという話もあるそうです。
そこで考えました。











