引き続き島左近の想像話を続けます。
私の中の島左近は、まさにこの島左近です。
義に厚く、冷静な男 島左近
話が混ざるかも知れませんが、島左近の想像話を聞いてください
明智光秀は、元主人の筒井順慶の事をすごく理解しており、応援に駆けつけると言い出す事を想定していた。筒井順慶の命を守る手段として、島左近を信頼してストッパーとして使った。島左近も自分にしか出来ない役目を果たした。そして、危険をかえりみず、足を運んで自分のところに礼を言いに来てくれた。この恩、恩ではなく信頼?に答えたい。島左近は、自分で考えた最善の道をこの後、突き進んでいった。
明智光秀が動けない間は、自分が秀吉、家康と対決するように、もしくは、自分がどちらかを討ち取る事で、恩を返すと決意した。
まずは、秀吉を止める。
それには、秀吉の弱点である秀長を倒す…。
紀伊国、和泉国、大和国100万石の大名となった秀長は、凄いやつだと聞き及ぶ。
紀伊の根来衆は、信長でさえ手を焼いていたが、これを討伐して、刀狩を行った。(※秀吉より先に刀狩りを行ったと云われている。)そして、農民と一緒に水路を引くなど、田畑についても抜かりなく、今後石高も増えて行くだろう。動き回る秀長に隙ははたしてあるのか❓
光秀は、中に入れば内情がわかり、対応がしやすくなると言っていた。自分もそうしてみよう。
そして、島左近は秀長に会いに行く。
秀長は心良く受け入れてくれた。島左近は、大和国について明るいから助かる、手伝ってほしいと秀長は言ってくれ、客人として取り計らいを受けた。
早速、島左近は秀長の仕事のアドバイザーとして、職務を全うした。藤堂高虎と共に、郡山城の改装も行った。筒井順慶が、郡山城を建築する際に島左近も一緒に居たので、詳しかったからである。
そうして過ごして行く中で、秀長の体調が悪いという事が分かって来た。秀長の様子を見ていると、どうも症状が順慶と似ている。同じではないか?
島左近の妻の父親は医者で、北庵法印と呼ばれ興福寺の名医で、最先端の薬を取り扱うプロでした。
島左近は、妻の父に秀長の話をして、北庵法印から最先端の薬をもらいます。それは、痛みは取れるが症状は進む薬でした。ある意味毒ではあったが、最先端と言われている薬である。誰も理解出来ないだろう。
その薬を秀長に渡します。
痛みは取れるが、治るわけではない。症状が進む事は話しませんでした。秀長は、治らなくとも動けるならという事で薬を受け入れます。痛みが治るので、秀長は薬を頻繁に飲むようになります。
そして、1591年1月22日秀長永眠となります。
島左近は客人扱いという事もあり、秀長が亡くなった後、秀長の元を引き払います。
そして、1591年(天正19年)、1人の僧侶が蘆名盛重(佐竹義重の次男)に迎えられ、常陸国(茨城県)の江戸崎不動院(現在の江戸崎不動院・医王山東光寺)の住持(住職)に就任しました。
この頃の名は、「随風(ずいふう)」でした。
そして、1591年に僧侶は改名します。
その名は「天海(てんかい)」
秀長が亡くなった年に、まるで随風の足取りを消すかのように。
つづく







