1571年信長軍の比叡山焼討が直後に、光秀は信長から近江国滋賀郡の支配を命じられ、この地域の領主になりました。この地域は、多くの商人や職人が集まる地域でした。光秀は、この地域を復興させるため、1571年の秋口には商人たちとの交流を開始しました。
明智光秀が復興のために行なった事として、
1、坂本法度による商人、住民の保護
比叡山焼討直後、荒れ果てた坂本の町を復興するために作った全5箇条のルールを定めました。
商人にも有利な内容が含まれています。内容としては、減税、よその人が町の利権を侵害するのを防ぐルールなどです。このルールによって地域の商人は安心して商売ができるようになり、坂本の町に商人が集まってきました。
2、茶の湯を通じたおもてなし
光秀は一流の文化人であり、茶人でもありました。商人、地元の有力者を坂本城に招き、自らお茶をたてて交流しました。
光秀のお茶会は
『相手の立場や好みに徹底的に配慮する』
という、心遣いに溢れていたと記録が残っているようです。
そして、結果的に、近江の領民、商人たちは、光秀を『名君』として、慕い続けました。その「相手を思いやる統治の姿勢」こそが、近江の地に深く根付いたのです。
光秀が定めたルールは、すべて
「立場が弱い人(住民、商人)を守るために、
強い者(役人、自分の部下)を厳しく縛る。」
誰に対しても『誠実』になっていました。
その土地で育ったのが、石田三成です。
お茶の心遣いは、その当時10代の三成にも
しっかりと受け継がれていました。
有名な三成の話で『三献の茶』がそれです。
石田三成が15歳頃、豊臣秀吉にお茶を出した逸話です。
一杯目は、ぬるめのお茶
二杯目は、やや暑めのお茶を半分ほど
三杯目は、熱いお茶を少なめに
気配りを感じた秀吉に気に入られて、家臣に召し抱えられたという話です。
石田三成は、知ってか知らずか、明智光秀が地域に浸透させた心遣いを学んでいました。その心遣いを島左近は感じとって、三成に尽くしたのかもしれません。
想像話でいくと、実は三成は光秀の仲間だった。
案外しっくりくるところもあります。
・石田家の墓は、妙心寺にある。
三成の息子の重家が出家したお寺。そして、
明智光秀の叔父密宗和尚があるお寺でもある。
・三成が近江(現・滋賀県長浜市)出身である
ことは有名ですが、光秀にも「近江出身説」
があります。
表向き2人はつながりはないが、奥深いところで実はつながっていた。
そして、同じ様にもう1人奥深いところでつながっていた人がいます。それは、福島正則です。
福島正則の話はまた次回。
石田三成と明智光秀の想像話ですが、聞いてください。
12歳の頃、勘定に長けた三成は有名な人材だった。
とにかく計算能力が高く、その上その数字を業務に活かす事が出来る人材だった。
噂もあって光秀は、近江に来た時に三成に声をかけた。そして、光秀は来るたびに三成に声をかけるようになった。ある日、三成はお茶を通し、三成から心遣いを学んだ。そして、自分に対しても他の人に対しても心遣いのある光秀に惚れ込んだ。
光秀は三成に、お茶は勿論の事、政治、政策、戦略など三成に教えていった。そして、3年の月日が流れたある日、光秀から『もうどこに行っても通用するだろう。経験を積め』と言われました。その後、光秀はパタリと来なくなりました。
そして、15歳の頃チャンスが訪れます。
秀吉にお茶出しをしました。この時の話が『三献の茶』です。その後、秀吉に気に入られて、家臣として採用された。三成は持ち前の能力を発揮して、豊臣の頭脳として中心的な存在となっていきます。
そして、ここから激動の運命が始まります。
つづく