南光坊天海と高台院は、交流があったという記録は残っていません。関ヶ原以降に画像のように話し相手になっていたと思います。


高台院となる前の寧々から話は始まります。


秀吉が亡くなり、正室である寧々も、秀頼たちとともに一度は大坂城へ入りました。彼女に与えられたのは、大坂城の「西の丸」という広大な敷地です。

しかし、この時期の大坂城内は非常に険悪なムードに包まれていました。
  • 淀殿(秀頼の母): 豊臣家を我が子中心の「羽柴家」として存続させたい
  • 寧々(秀吉の正室): 豊臣政権(織田信長から続く天下の形)を平和に維持したい
このような思惑の違いや、子を産んでいない寧々と後継者の母である淀殿の立場逆転もあり、寧々は大坂城内での政治的な役割を終えつつあることを察します。秀吉の死から約1年後の1599年(慶長4年)9月、寧々は大坂城の西の丸を明け渡し、住み慣れた京都へと戻る決意をしました。

大坂を離れ京都に戻った寧々は、京都の御所(禁裏)のすぐ近くにある「京都新城(きょうとしんじょう)」という豊臣家の邸宅で暮らしました。


実はこの頃の寧々は、政治の表舞台から隠居したと言いつつも、東西両陣営の超重要人物たちや、朝廷(天皇家)と極めて深い交流を持っていました。当時の日記などの一次史料から判明しています。

この時期に出入りしていた西軍、東軍の人物としては、西軍では石田三成、東軍では徳川家康などです。寧々は両方の意見を聞きながら、調停を試みていました。
寧々は中立の立場を貫き通しました。その時に後ろ盾になっていたのが、実兄の木下家定を始め、甥の木下勝俊、木下利房。そして、徳川家康がスポンサーとしてついており、家康が背後で姿を見せていることで三成も強行には出れませんでした。
出入りしている中で、お坊さんがいました。そのお坊さんの名前は、三江紹益(さんこう じょうえき)といい、後の高台寺の初代住職になる方で妙心寺のお坊さんでした。
寧々は妙心寺との繋がりが太い人でした。寧々には杉原くま」という実のお姉さんがおり、夫を亡くした彼女は、1600年(慶長5年)、妹の寧々の支援も受けながら、妙心寺の境内に「長慶院(ちょうけいいん)」という塔頭寺院を建立しました。寧々の実家木下家にとって、妙心寺は先祖、家族を供養している最も頼りにしているお寺でした。
この時の妙心寺のトップは、南化玄興(なんか げんこう)で、家康の右腕とも言われていた僧侶です。家康から朝廷との交渉など依頼されていた人物で、家康の最高相談者です。
南化玄興は、光秀の叔父にあたる密宗和尚とは同じ臨済宗の仲間でした。密宗和尚が明智風呂を建てた際、本来ならば「逆賊のためはダメだ」取り壊しを受ける案件ではありましたが、南化玄興が「これは僧侶のための風呂だ」と後ろ盾になる事を言ったので取り壊しがなくなったと云われています。

そして、斎藤利三の娘お福も密宗和尚は匿って育てました。南化玄興もこれらの事を知りつつも、黙認そして後ろ盾となり、2人を守ってきました。


その南化玄興の愛弟子である三江紹益(さんこう じょうえき)というお坊さんが寧々と深くお付き合いしていました。そして、この三江紹益が関ヶ原の戦い前に京都新城の出入りが激しかったと記録が残っているそうです。


そして、今回の想像話は、この頃の話です。


つづく