明智光秀が真田と島津とどこで知り合ったのか?
想像話ですが聞いてください。
明智光秀が足利義昭の家臣だった頃の話です。
足利義昭と織田信長は、最初の頃はお互いに利害関係が一致していたので上手くいっていました。
足利義昭が将軍として、自分の政治手腕を発揮したいと思うようになり、利害関係が崩れ始めました。
1570年に信長から『殿中御碟(五ヶ条の条書)』を突きつけられました。義昭が諸国に手紙を出すときは信長の了承を得るという制限書です。
信長への不満わ募らせた義昭は、将軍の権威を使い、全国有名大名たちに『信長を討て』と密書を送ります。これが有名な『信長包囲網』です。
武田信玄もその密書を受け取った1人でした。
武田信玄は、上杉謙信と揉めている最中だったので、上杉謙信との和議をまとめてくれるならとし、上洛を受けました。
この時に、信長包囲網の密書を書いていたのが光秀です。その密書を信玄が読んだ時に直感的に、これは誰が書いた文面だ?と興味が湧きました。
そして、京都の状況や信長の動きそして、この密書を書いた人物が誰かを探るために密偵を送ります。
それが真田昌幸でした。
昌幸は、信玄が育てたエリート中のエリートで、信玄の両目と言われる人物でした。そして、昌幸は京都に向かいました。
昌幸は京都探索を行い、足利義昭や取り巻きの情報収集を行いました。そして、足を伸ばして堺に行きました。昌幸は鉄砲に興味がありました。武田信玄も早くから鉄砲を取り入れてましたが、火薬不足の問題があり、まだまだ『戦略的な武器』というレベルには達していませんでした。甲斐国は海がなく貿易もできたいため、常に火薬不足が付き纏っていました。その問題を解決するべく、堺に来たという訳です。
昌幸は堺に来るにあたり、事前に手を打っていました。里村紹巴から今井宗久への紹介状を書いてもらっていました。堺商人を知らない昌幸にとって、頼みの綱となる手紙でした。
里村紹巴はその当時人気の連歌師でした。
大名たちが里村紹巴を自国に招いて歌会を行なう事が行われていました。武田信玄も京都から公家を招いて歌会を頻繁に開くほど文化人でした。その招かれる文化人の1人が里村紹巴でした。昌幸は、幼少期から青年期を信玄の宮殿で育ったので、歌に関して超一流の歌の技法を学んでおり、里村紹巴とも交流がありました。そして、今回は事前に頼んで紹介状を書いてもらっていました。
今井宗久と対面し、お互いに歌を読み上げていきます。歌の端々に「武田信玄の思い」「信長包囲網実現するよ」そういった暗号文が入れ込まれていました。宗久は、これは只者ではないと察して昌幸に言いました。
『会わせたい人がいる。』
そして、明智光秀と真田昌幸は初対面します。
2人は気が合いました。
堺の町を案内しながらいろいろな話をしました。
そして、会話の中で昌幸は光秀が鉄砲に詳しい事が分かりました。軍事的な話を他国の人にするのは
いけない事だと分かりつつ昌幸は切り出した。
鉄砲についての悩み、火薬不足の悩み、軍事戦略への取り入れの悩みなど話していきました。
光秀は黙って頷き話を聞いていました。
そして、惜しげもなく鉄砲の使い方について話し始めました。鉄砲が使える回数が少なくても有効利用出来る方法、戦略的に使う方法、鉄砲の仕組みに至るまで話をしてくれた。そして、最後に宗久の所に行き、火薬の原料になる硝石を幾らか回してあげて欲しいと伝えてくれた。信玄から預かっていた金を手付として宗久に渡した。心配していた輸送ルートも宗久が手配してくれた。海上ルートで運ぶルートだった。堺から伊勢に行きあとは陸ルートで進むルートだ。後に徳川家康が本能寺の変の時に逃げたルートである。この時はまだ徳川家康と武田信玄は同盟国なので、お茶と一緒に運べば関所も通過出来るとの事だった。堺商人としての証明書も発行してくれるという話だった。ただ、堺は今信長の管理下にあるので、硝石は量は出せないとだけ言われた。
昌幸は、石山本願寺から硝石を分けてもらっている話も思い切って宗久に相談した。
宗久はしばらく考えそして口にした。
一旦宗久付けの荷物として預かり、海上ルートで一緒に運びましょう。バレたら私も終わりなので、他言無用ですよ。
真田昌幸にとってこの隠密調査は大成功となった。
船で硝石をお茶や貢物に紛れて運び出し、徳川関所も通過して、無事に甲斐国まで運び込んだ。普段から武田信玄が頻繁にお茶会や歌会を開いていた事もあり、関所はまたかと言わんばかりに簡単に通過でしました。
昌幸の報告に、武田信玄はにんまりと笑っていた。
今井宗久に迷惑がかからぬように、硝石の取り引きは今まで通り石山本願寺と話をするように信玄も配慮した。硝石が届く日数も縮まり、武田も火薬の備蓄が可能となった。
そして、鉄砲についても今まで通り少ない回数ではあるが、効果の出る使い方について武田軍内で共有されていった。
そして、上洛である。
途中、徳川家康との戦になった。
徳川家康を挑発して、籠城から戦場に引き摺り出した戦、三方ヶ原の戦いが始まった。
※生成AIによるイメージ図です。
信玄は兵30.000を引き連れて、浜松城に籠城していた家康の前を素通りしました。怒った家康は背後から攻撃するつもりが、魚鱗の陣で待ち伏せしていた信玄に2時間ほどで完膚なまでに打ちのめされます。
この時、信玄は光秀に習った銃の火力の出し方を徳川軍に試しました。その事がこの戦の時間を短縮した大きな要因となりました。
徳川軍この時、鶴翼の陣で挑んでいますが、武田信玄の兵の強さもあって、短時間で中央突破され部隊を二分化されて、あえなく敗退となりました。
家康も『空城計』と呼ばれる伝説の戦法対抗します。逃げ帰った城の城門を開け、篝火を増やし、太鼓を鳴らし罠があるかのように見せる珍しい戦法です。信玄は空城計の戦略を熟知しており、それに免じて深追いせずに去っていきました。
その時、家康がこの事を忘れないようにするために描かせたのが『しかみ像』と言われる肖像画です。
しかし、この時徳川軍は中央突破の恐怖を植え付けられていました。本人たちが気が付かないままに。そして、この流れについては、明智光秀のところにも話は届いていました。
つづく