
『レスリー・チャン — 誰能代替你地位?』
2003年の春、友人との栃木の旅から帰ってすぐ、レスリー・チャン自殺の
ニュースを耳にした時は衝撃を受けました。特にファンではありませんでしたが、当時、仕事で香港の品を扱っていたのです。
その後、通信制大学での卒論指導の先生も映画俳優としてレスリーを高く評価していました。代表作『さらばわが愛―覇王別姫』は東急文化村での上映時にはあまりの混雑で観られず、なぜか金沢の街で鑑賞したのをおぼえております。そんなわけで生誕70年を記念した展覧会を見ることにしました。
「レスリー・チャン — 誰能代替你地位?」写真展
詳細はこちら
会場のVictoria1842ビルは1Fがカフェのカウンター、2Fがカフェルーム、そして3Fが展示室でした。まずはカフェで一休み。ユンヨン茶なるものを注文してみました。ちょっと不思議な味でしたがおいしくいただきました。コーヒーと紅茶のブレンドに練乳を加えたものとのことです。漢字で書くと鴛鴦茶、こちらの方が私にはわかりやすいです(笑)。
一緒に行った友人が味わったのは香港ミルクティ。その特徴がカフェルームの壁に若き日のエリザベス女王の肖像など英国領だったころの香港を記念するものと共に掲示されていました。
そしてこの部屋に映画『欲望の翼』のフィギュアと『さらばわが愛』の写真がありました。

3F展示室の写真は音楽活動についてのものがほとんどでした。大きなモニターでは生前の歌唱やバラエティなどに出演した際の映像も流れておりましたが、出演した映画、ドラマなどについての展示物はフィギュアの他は見当たりませんでした。ただこのビルの地下には香港関係の書籍や絵葉書、ストラップ等香港グッズの店があり、レスリー・チャンの大型写真集も売られていました。
レスリーと日本との関わりの説明
天使?風の衣装で歌う? 髪はかなり長くして束ねています。ロングヘアだった時代があったのをはじめて知りました。

写真家の紹介
どんな服を着てもどんな髪型にしても、そしてどんな役を演じても
魅力にあふれ…確かにこの展覧会の題にあるように「誰能代替你地位?」
(誰もあなたの代わりはできない)スターですね。

中学から大学の途中まで英国で教育を受けたレスリー・チャンは
頭脳も優秀な人で人生でもさまざまなことを試みたようです。
私は香港には中国への返還直前に一度行っただけです。
でも東洋と西洋の文化がミックスし、共存しているすてきな場所だと
思いました。ごちゃごちゃしているのに伸び伸びしたところも
あって何でもありで…
レスリー・チャンは今は損なわれつつあるかもしれない香港そのものの
化身のような人物だったように思えます。彼が志半ばで自ら命を絶ったのは
現在のようなご時世になることを予感したからでしょうか?
カフェに入った時はあまり人がいませんでしたが、土曜日とあって昼過ぎから
おそらくレスリーの熱心なファンらしき女性客が多く入ってきました。地下1F
店も拝見した後、地下鉄で神保町へ。リニューアルした三省堂書店本店を見学しました。
『戦争の記憶-横浜と軍隊の120年』(横浜都市発展記念館)
既に終了した展覧会で恐縮ですが、4月10日、横浜都市発展記念館の『戦争の記憶-横浜と軍隊の120年』を鑑賞いたしました。

展覧会サイト
http://www.tohatsu.city.yokohama.jp/feature.html
雨、風の強い日でしたので少し迷いましたがやはり見ておこうと思ったのです。
明治44年の『東京市全図』。


展示物の撮影が許されていたのはここまででした。
横浜の近現代の始まりはやはりペリー来航から…『黒船来航画巻』や「ポーハタン」艦上の宴会図など。
神奈川区にある砲台跡、日の出町にあった軍事拠点だった太田屋陣屋、三春台の兵隊山など自分にもなじみのある地名が登場して、ずしんと来ました。
西南戦争の死者の慰霊碑、招魂社(野毛山)があることも初めて知りました。
この時、太田房次郎なる若者が徴兵されていく図を描いた『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1877)では黒い軍装をまとった房次郎に父が自分の小指を切って渡していました。
1908年に来たアメリカ艦隊についてのコーナーは黒船ならぬ『白船来航』。
『米国艦隊歓迎演芸梗概』(1908)の冊子の表紙は花盛りの桜に朱塗りの橋。
いろいろな出来事の記念として人気があったのは絵葉書とそれをまとめた
絵葉書帖だったようです。『日露戦争関係絵葉書帖』(1905)、『陸軍特別大演習絵葉書』(1921)、『海軍大演習観艦式記念絵葉書』などには桜や紅葉などの挿絵も入っていました。第一次世界大戦後の『平和記念絵葉書』(1919)には各国の国旗とオリーブの葉の輪、上半身は裸でロングスカートの平和の女神?が描かれておりました。
1939年、日米関係が悪化する中でワシントンで亡くなった駐米大使斎藤博の遺骨を届けるために来たアストリア号についての展示には浅草の雷門前で観光するアメリカ兵たちや満開の八重桜にキスしながらアイドル風に微笑む若い兵士の写真がありました。
第2次大戦中、「本土決戦―地域の軍事化」のコーナーには戸塚海軍病院の看護婦の帽子が展示されていました。茶色のビロード風の生地で正面に大きなリボンが縫い付けられ、小さな赤十字がついています。
「敗戦と占領軍の駐留」のコーナーでは占領軍向けのバーやホテルの宣伝カード、映画やスポーツなどのエンタメガイド、東京や横浜の観光ガイドが展示されていました。面白いと思ったのはお土産用の煙草セット。銀色で彫金?で桜?の模様をつけた盆に富士山や横浜税関の建物や椿?の模様の灰皿、シガレットケースの蓋では赤い着物を来た日本髪の女が港を見ています。写真撮影禁止でしたが、下記Xでごらんになれます。
https://x.com/yoko_tohatsu/status/2019914702994960533/photo/2
この展示を見た後、同じ建物にある横浜ユーラシア文化館の常設展示も鑑賞。
3~5世紀のシリアの美しいガラス香油瓶。
この日は『戦争の記憶』展示のボリュームがあって疲れていたので、今回はあっさり。また天気のよい日に行きます。
十二単…マキシム、バキシム
父を車椅子散歩に連れて行く公園の花壇に「十二単」と書かれた札がありました。いかなる植物なのか? どんな花が咲くのかと思っておりました。
ひょっとしたらこんな花?…まさかね。

4月6日、晴天に恵まれたので父を散歩に連れ出しました。
かの「十二単」の花が咲いておりました。

近くに赤やピンクのチューリップ、つまり派手な花が咲いているせいも
ありますが、名前のわりに地味というか、楚々とした魅力の花です。唇形花が幾重にも重なって咲くところから平安時代の女官の服に例えられたとのことです。
話はちがいますが、最近、何でも高くてスーパーに行く度にお札が
どんどんなくなります。
15%引きクーポンで何とか買ったインスタントコーヒーと
自分の名前に似たコーヒーを眺める超獣バキシムです。
たまには空の割れ目ではなく、ミルクピッチャーから
登場してみました(注1)

このミルクピッチャーは1998年にローマのカフェグレコを訪れた時に買ったものです。スタンダール、ゲーテ、メンデルスゾーンなど著名人が利用したことで知られる歴史あるカフェです。昨年閉店したとのこと…
ミルクピッチャーを買ったのは私の手持ちのお金ではカップやお皿は高すぎたからでしょう。オレンジ色がバキシムの一角のある頭の色とコーディネート?
「マキシム、バキシム、カフェグレコ」…何かを買うかどうか値段で迷う時、
この呪文を唱えてみます。迷いが止まり、良い判断ができる…かどうかは
今後研究します(笑)。
注1)筆者の書いていることがわからない方は、『ウルトラマンA』第3話をご覧ください。
連続テレビ小説よくぼけ?…春の花の続き、mustとwant
父がデイサービスに行っている施設近くの公園でハナカイドウが咲いていました。子供の頃住んでいた家にもハナカイドウの樹があり、桜よりも濃いピンクでとてもきれいだと亡くなった母が言っていました。

父がデイサービスに行ってくれていてとても助かるのですが、父自身はいやがっています。首を吊りたいというほどに…そこまで嫌がっている所に行かせていることに罪悪感もありますが、家で入浴させるのがだんだん難しくなってきていますし、プロの手を借りずに介護をやっていく見通しがたちません。ただいやがりながらも父は少しずつ家族以外のケアを受けることに慣れているようです。来月には1週間ほどのショートステイも利用する予定です。うまく行きますように。

散歩のついでに園芸用ハサミで採集して仏壇に供えました。

近所の集合住宅の前で咲いている純白のハナモモです。

今年初めて近所で発見した白い小さめの花の桜。ソメイヨシノより早く咲く品種らしく、気づいた時には樹の上の方は盛りを過ぎていました。これは根方に咲いていたものです。若葉に包まれてさく純白の花…ソメイヨシノとはちがう
魅力があります。

春の花を楽しみつつもいろいろ考えてしまいます。家の中も心の中も片付かないのは自分の中の欲のせいかと…欲が深いのでなかなかものが処分できません。

『ばけばけ』じゃなくて『よくぼけ』なんてテレビ小説がそのうちできる…
わけありませんよね…そういえば亡くなった母に「実以は過去への執着が強すぎる」と言われたことがありました。執着、つまり欲…
部屋を片付けていて何となく保存していた心の危機についての新聞記事が出てきました。「生きづらくなったら自分の中のmustよりwantに耳を傾けること」心の中には「want(~したい)」と「must(~しなければならない)の「相反する自分が存在する」とのこと。
私のmustは裕福ではないのだから働かなければならないということ。wantは
いつかしようと思っていたこと、歌うこと、調べて書きたいものを書くこと。
とにかく今は休みたいのかも…ずいぶん休んでる気もするけど…私の場合、
仕事はしてないけど、家事をしているからあまり楽ではないのです。特に弟が
工場勤めで毎朝7時前に家を出るから朝食の用意がありますし。
とりあえず自分のwantのうち、実行できるものから実行していこうと思います。
ぼちぼちと…
我が家のステンドグラス、庭園(4月1日なので)
エイプリルフールで笑った嘘は?
▼本日限定!ブログスタンプ
母の新盆のために信州へいった時の写真です。
私の育ったところでは皆こういう服装で新しい仏様をお迎えします。
とこの写真を皆に見せて言ってみたかった…(正解は上田おもてなし武将隊の
皆様です)
我が家の玄関ホールのステンドグラスです。大好きなブドウの葉とツルの
模様にしてみました。
正解は飯田橋のセントプラザ…ここに住んでみたいと思っているのは
本当です。
これは私が育った家です。とても広かったので掃除が大変でした。
(いつから名古屋出身になった?)
これは実家の庭です。冬になると池でスケートをしました。
正解は山梨の恵林寺です。甲斐武田氏ゆかりの寺…我が家の先祖は何となく?源氏で、川中島の合戦なら武田方と勝手に思っていますので、
エイプリルフールにお庭をお借りするのもお許しいただきたいところです。
以上、一度こういうばかばかしいウソを4月1日についてみたくてたまりませんでした。
ついでですが、本日88鍵のキーボードを購入しました。
届けてもらうのは数日後ですが、
音楽を学んで歌手を目指したいと思います…
キーボードを買ったのは本当ですが…
来年のこの日にはもっとウケる嘘を書けるよう、
平素から考えておきたいところです。
父とお花見できました…何となく3月のまとめ
桜の写真見せて!
▼本日限定!ブログスタンプ
3月24日、本当に久しぶりに父を車椅子に乗せて路上に出ました。花見をさせてやりたかったのです。近所のソメイヨシノはまだ咲き始めでした。

でもうれしいことがありました。7年前に亡くなった母をよく散歩させた公園に
若木ではありますが、新しく桜が植えられていたのです!

ソメイヨシノより早く咲き進んでピンクが濃いのでコマツオトメのような気がしますが…
そして本日、ハロワ近くの公園のソメイヨシノの下でおにぎりを食べました。

3月初め、1件面接を受けました。スーツを着てパンプスを履いて…ストッキングを履く…疲れました。私がなぜ30数年間も転職しなかったかというと、こういうのが嫌いだからかもしれません。
面接して下さった方々は愛想がよかったので、面接直後はひょっとして採用?かと思いました。ところがいよいよ働くと考えると怖くなってきました。9時までに出勤できるだろうか? 6時まで働けるだろうか?
ほんの少し前まで遠距離通勤で9時出勤、残業もある働き方をしていたのですが…
最近、父の寝起きが悪くなってきていますし。朝、父と弟の朝食を用意して
洗濯をして出勤できる? いや以前のようにフルタイムではなく、社会保険に
入れる時間数だけ働くことにすると、週3回ぐらいは休みになるから
毎朝洗濯しないで休みの日だけすれば何とかなる?とごちゃごちゃ考えていましたが、幸いな?ことに不採用でした。
もしかすると社会保険に入れることと介護と両立して働くのは無理なのではないか?
特に自分の経験のある職種では難しい…
経験にこだわらず、コンビニや飲食店なら?…不器用だからお運びできるかな? いろいろな仕事をおぼえなくてはならないコンビニ勤まるかしら?
父の介護があるうちは働くのはあきらめて学業?に専念する?
語学の検定を受けて、それから通信制大学院で岡本綺堂の研究を
しようかと?
ごちゃごちゃまとまらないうちに新年度へ突入…とりあえずもう数件、経験してきた職種にトライしてみます。
ごちゃごちゃまとまらないうちに新年度へ突入…とりあえずもう数件、経験してきた職種にトライしてみます。
小泉八雲著、平川祐弘訳『怪談・骨董』より『ある女の日記』
河出文庫2024年
表紙の写真はこちら
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309420851/
たまたま主人公の名前が祖母と同じであるせいか、朝ドラ『ばけばけ』は
わりと熱心に視ています。祖母もドラマのヒロインと同じように
最初の結婚は破綻、怪談が好きで、怖い話のテレビ番組などを
よく視ておりました。ただ容姿はヒロインになれるほど可憐ではなく、夫に
去られたのではなく、自分が出てしまい、離婚となりました。
この『怪談・骨董』は昨年秋に図書館に設けられていた朝ドラコーナー
で見て未読の作品があったので借り、返却後に購入しました。
買ったものには『ばけばけ』の宣伝帯がついています。
『骨董』の中の『ある女の日記』は怪談ではなく、亡くなった女性の針箱にあった手記。貧しい境遇に育ち、妹より後に30歳近くに嫁ぎ、3回出産するも
子供は皆亡くなり、本人も早世。と言ってみれば不幸な人の話ですが、
八雲はただ「不幸」で片付けるべきではなく、「日本の庶民の女の考え方や
感じ方、喜びや悲しみを英語に訳してみよう」と思い、「この優しい女の魂に敬意を払い、たとえいまなお現世にとどまりこの訳文を読んだとしても、多少なりともいやな気分になることのないよう、この原稿を注意深く扱いたい」と書いています。

数年は学校に行ったらしく、仮名文字は上手だが漢字をあまり知らず、東京の下町の言葉で手記を書いた「ある女」が当時としては適齢期を過ぎた29歳まで未婚だった理由等詳しい事情は不明。明治25年の9月25日の夕方、向かいの家の人が38歳の並木氏の後妻になる話をもってきて翌々日に岡田氏なる人の家で見合い、その場で岡田氏が「相談する人もおられないのだから幸運は見つけた場所で拾うのはよくございませんか」と言い、並木氏が10月1日というのを岡田氏は「夜勤で家を空けるのも心配だから」というのでいきなりその翌日に嫁ぐことになります。その夜、女は家族に挨拶し、翌日は一人であれやこれやと買い物をして午後は髪結いと、夜、岡田氏の妻に介添えされて並木宅へ行き、三々九度の盃。
並木氏は善人だが細かなことでも几帳面でやかましいと亡くなった先妻の父は言いましたが、意外にも結婚生活は現代でいうラブラブ。二人で芝居を観たり、浅草寺にお参りしたり、お酉様へも行き、二人分の春着を仕立てる縫物が楽しかったと記します。「会ったこともない人と夫婦になったが今では人も羨む身、咲き乱れる花より愛しい人と共に年老いて最後は共に葬られたい」という意味の小唄を自作。
親族の集まりで夫が初めて筆者が仕立てた春着を着てくれたのを喜び、その場で自分たち夫婦と妹たち夫婦が詠んだ歌を記録。
漢字は多くは知らなくても歌が詠めるってことは
さほど教養が低い人たちでもないのかしら。
三崎座で『妹背山』、春木座で『黄鳥墳』(うぐいすづか)、金沢亭で浄瑠璃の『三十三間堂』と観た芝居の劇場や題名、参詣した神社仏閣、花見へいった場所などを細々と記録していることでこの女の暮らしが幸せな楽しいものであったことがわかります。今なら写真を撮り、ブログにアップするのでしょうが、この時代は書き留めておくことが大事だったのでしょう。

明治30年(1897)6月8日午後4時に男の子を出産、予定日が8月なので未熟児、今なら保育器に入れるでしょうが「昼も夜も抱いて温かくしてやる」しか対処できず、翌日午後6時半に死亡。母と呼ばれるのが一日限りだった悲しみ…それでも9月8日は二人で芝居見物、10月8日には一人で春木座で『大久保彦左衛門』を観劇。芝居が悲しみを忘れさせてくれたのでしょうか。

翌明治31年8月に女児を出産、はつと名付け、百日が無事に過ぎるまで気をもみ、翌年3月には初節句を祝い、内裏雛、小さな箪笥や鏡台が贈られます。しかし4月29日にはつの具合が悪くなり、5月2日に死亡。この時は医者を呼んでも来なかったので来ず、翌々日に女自身がおぶって医者へ、つまり診察のおくれがよくなかったのかと悔いる夫婦に医者は「あの病気では最初から最良の治療をしても助からなかった」と言います。「この子とわたしたちの縁は、きっと前世から弱くて薄いものだったのだ」と思うことにするがやはり病みついてしまう女。同じ年なのかどうか9月4日に女の妹の幸が肺病で死亡。かねてからの取り決め?で下の妹の芳が後妻になります。同じ月に夫婦を取り持った岡田氏が亡くなり、婚礼に葬式と出費が重なっての金銭の苦労。
明治33年(1900年)2月20日三番目の男児を出産するが8日目に死亡。
自分のせいでこんなつらい思いをしたからには夫の愛が離れるのではないかと心配するが彼は「天命致し方これなく」と繰り返すのみ。しかし「この世で自分のために空が晴れることはない」という悲しみの故か女の体にむくみが出て、それが消えたと記したところで日記は終わり。

悲劇的な短い女の生涯…でも読んだ後、不思議と温かな気持ちになります。
八雲がこの女の記録に心を留め、世に出してくれたことに感謝したくなります。
静かではありますが勇気が湧いてくるのは、短い一生ではあっても
確かに幸せがあること。夫の愛を感じ、子供を愛し、芝居や祭りを楽しむ…
だからあらすじだけ見ると不幸でもどんな人生も生きるに値するのですね。
今、自分が不運だと落ち込んでいる人がいたら、この作品を読むことを
お勧めします。

この本の巻末にある注によればこの日記を書いた女性の死後、並木氏の3度目の妻になったのが小泉家に奉公していた女性で、先妻の針箱から手記を発見し、小泉夫人に渡したとのこと。手記しか資料がないはずなのに夜勤の多い「小使」である夫並木氏の月給が10円ほど、夫婦の住まいがが六畳と三畳の二間であること等が終わりに書かれているのはそのためですね。ドラマ『ばけばけ』の中でも主人公一家に奉公する女中は活躍していますから、この顛末もスピンオフでドラマ化してほしいですね。
初めての大船観音寺参拝、原爆の火(及び勝手に朝ドラ企画)
3月11日の続きです。
『生誕100年 永井路子展』の鑑賞を終え、鎌倉芸術館を出て、
天候がよいので駅の反対側にある大船観音寺へ参詣して
みようと歩きだしました。
その道すがらこの日初めて知った永井路子氏の前半生について考えていました。
実父母ではない人々に、それでも愛情深く育てられた少女時代…
朝ドラ『ばけばけ』のヒロインに似ています。
ただ『ばけばけ』のトキさんよりは時代もちがうけど
教育の機会に恵まれ、学びの中で出会った人と結ばれる…
小説を書き始めたのも愛する人との暮らしを守るためだったと、
私が昔聴いた講演では言っていました。
そして大作家となっても謙虚な生き方を貫く…
そのうち永井氏は朝の連続テレビ小説のヒロインになるのではないだろうか? 題名は『ひろ子からみち子へ』かな? 黒板先生の役は
きっとイケメン俳優が扮するのだろう…語りは『ばけばけ』の「へび」と「かえる」のように北条政子や日野富子かな? 「私たち、いつもいろいろな人から語られてるから、たまには私たちのことを語った人のことを語りたいです」などと勝手にドラマの企画を考えつつ、大船観音寺の参道へ。
結構、きつい坂道でした。
大船観音寺HP
https://oofuna-kannon.or.jp/about-us/

今まで遠くから眺めるだけだった白衣観音像。恐慌や戦争などなど完成までにはいろいろあったとのこと。最初の計画では立像だったのが地盤の問題など諸々の理由で胸像になったのだそうです。
日本人もそうでない人も平等に供養するという思いから造られていった…そのせいか、観音様なのにどこか国際的?頭にふんわりかかる布に聖母マリア像を連想してしまいます。宗旨はちがうけれどミケランジェロのピエタに似た美しさを感じるのです。
全くこの観音様が映画の『大魔神』のように立ち上がって歩き出してしまうのではないかと思うほど、よくない世相です。
白衣観音の中にはひざまずいて祈るための台が設けられており、その辺もなぜかカトリック教会を思い出してしまいました。どこか国や宗派のちがいを越える慈悲を感じるお寺です。境内に奉納されている灯籠には中華系か韓国系の方かと思われる名前のものもありました。私たちは一緒に平和を目指せるはずなのです。道はけわしいですが。
白衣観音の胎内へ向かう通路で若いお坊さんとすれちがいました。参詣客のご婦人の一人がお守り等の売店のスタッフに「お寺ということは檀家があるのですか?」と尋ねていましたがスタッフの方もよくご存じでないようでした。設立から複雑な歴史があるのでよくあるお寺とはちがう運営なのかもしれません。ともあれ初めて参詣できたことを感謝し、ちょうど3月11日ということもあって震災で被害を受けた方々、今起きている戦争で苦しんでいる方々のために祈りました。
白衣観音の前から坂を下って慈光堂へ参拝。
この御堂の前の紐は中の観音様の手につながっているのだそうです。
そう思うと握ると心が休まるような気がしました。
原爆の犠牲者の慰霊と核兵器廃絶を祈る石碑。被爆した石、ケロイド瓦。
広島原爆の火が燃え続ける石灯籠。復員兵の方が自分のカイロに移して持ち帰ったものを分火したとのこと。こうした場所が関東にあるのを今まで知りませんでした。 今、まさに世界中の人に見てほしい炎です。

原爆の火の石灯籠について詳しくはこちら。
https://www.kanaloco.jp/news/social/article-1200460.html
桜はまだ咲いていませんでしたが、白い水仙が花盛りでした。
鎌倉芸術館(松竹大船撮影所跡地)『生誕100年 永井路子展』
3月11日、俳優の星光子さんも訪れた鎌倉芸術館で
『生誕100年 永井路子展』を鑑賞いたしました。星さんのブログの
写真にある「共に生きる」の額、私も見ました。
展覧会サイト
今となっては口にするのもはばかられますが…若い頃、ほんの一時期、
歴史小説とか書いてみたいなと思っていました。そう永井路子のような
作家になりたかったのです。ああなんと大それたことか…
なぜ永井路子かというと、作品を多く読んだということもありますが、
20歳前後の頃、たまたまお目にかかり、お話をする機会に恵まれたのです。
永井路子の夫で歴史学者の黒板伸夫氏は、私が子供に紙芝居をよみたくて日曜学校のリーダーをしていたカトリック教会の信者で、
ミサで一緒になったことも多く、また黒板氏が教授を務めた
清泉女子大学の市民講座で百人一首などの講義を受けたことも
あります。
永井氏と直接お話する機会を得られたのはやはり清泉女子大学で
催された講演会の後の茶話会でのことでした。当時の私は歴史上の人物でも悪人と言われる人に妙に興味をひかれており、この公演の前に永井氏の著書『歴史を騒がせた女たち・外国編』を読み、その中でも清王朝末期に権勢をふるった西太后の章が興味深かったと話し、西太后についてもっといろいろ調べてみたいと申しました。
すると永井氏は西太后について中国で書かれたものを原書で読めるようになることが大事と答えて下さいました。つまり中国語を勉強しなさいということ。その時の勤め先近くに早朝クラスのある中国語学校があったので何となく通い始めました。そして何となくその学校に張り出された求人で入ったのが昨年まで働いていた職場です。
零細企業ですが女性が30年以上も正社員として働けたのはラッキーだと
言って下さる人もまれにいますから、何となく…何となくばかりで恐縮ですが、永井路子と西太后には足を向けて寝られない気がしてこの展覧会を鑑賞しました。
会場につくとまず永井氏の故郷、古河市のコーナーで椅子に腰かけて20分ほどの講演映像を視ました。題は『魅惑の人 鷹見泉石』。鷹見泉石は渡辺崋山が描いた肖像で知られ、この肖像は芸術的に高く評価されて国宝ですが、これが描かれた理由も歴史的に重要だととのこと。あの大塩平八郎の乱の鎮圧を藩主の代理で菩提寺に報告へ行く時の姿。だから烏帽子を被った正装の絵になったのだそうです。崋山が蛮社の獄で自害しましたが、泉石も危なかったそうです。永井氏いわく、もしこの時泉石が崋山と同じ運命をたどっていたら、
もっと注目されたのであろうが、助かったが故に歴史に埋もれてしまい、功績が知られていないのだそうです。泉石像とその由来は下記のサイトでもごらんになれます。
https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100147
脚の疲れがとれた所で展示を見ます。
年表を見ると出生の事情は複雑で実の父母には育てられていません。
朝ドラ『ばけばけ』のヒロインを思い出しました。でも育ての親たちには
惜しみない愛情を受けたようです。3歳の時の小さな足形、手形、
幼少時の宝物として展示されていた人形用(現代で言えばリカちゃんサイズ)の蒔絵硯箱や、ピクニックセット(小さな布のケースに入った小さなナイフやフォーク、スプーンにランチボックス?らしき消しゴムほどの大きさの小さな箱)
こうしたものがよい状態で保存されていることから、
幸福な子供時代がしのばれるのです。
12歳で古河高等女学校へ入学、16歳で東京女子大学へ入学!…
少女時代から秀才だったのですね。ああこのことをもっと前から知っていたなら、私は小説書いて見ようなんて気は起こさなかった?かも。少なくともあの時、永井氏の前で西太后の話なんかしなかったかも…
東京女子大学は戦争の影響で19歳で繰り上げ卒業したものの、
戦後に東京大学の聴講生になって日本経済学を学ぶ…私が昔聴いた講演の中でも「私は20歳の時、終戦を経験したことが自分にとってとても大きかった」とおっしゃっていました。だから学ばなければという思いに駆られたのでしょう。この聴講生の時に黒板伸夫氏と結婚。小学館に入社したのは結婚後のこと。文金高島田、打掛姿の永井氏と黒板氏の婚礼写真も拝見しました。
永井氏が小学館時代に編集していた『女学生の友』『マドモアゼル』や
永井路子の名前を使い始めた『人物往来』等雑誌の現物。そして直木賞受賞作『炎環』の原稿や初版本、直木賞受賞記念の腕時計。そして永井氏の著作が原作となった大河ドラマ『草燃える』、『毛利元就』のポスターや台本も展示。吉川英治文学賞受賞作で最澄を描いた『雲と風と』、『毛利元就』の原作『山霧』はサイン入り本を持っています。家にあるのと同じ本がガラスケースに収まっているのを見るのはちょっと不思議な気分でした。
展示物は写真撮影禁止でしたが、展覧会の様子は下記の「もっと知りたいかまくらナビ」 様のXでご覧いただけます。
https://x.com/kamakura_kankou/status/2024694067423302100
2023年に亡くなる間際まで身辺にあった品も展示されていました。
その中にレンズが紫色?私にはそう見える眼鏡(サングラス?)があります。
あれは非公式の場、大学のクリスマス会の折だったか、永井氏が
銀色の飾りのついた明るい紫のカーディガンをお召しになっていたのを思い出しました。紫色が好きでまた似合う色だったかもしれません。
『雲と風と』を出した時の講演では黒のシンプルなワンピースに
朱色のテープ状のネックレス?石や金属ではなくて中華模様の布でよくあるネックレスよりも長さがあって胸のあたりまで下がるものをつけていました。仏教の偉人、最澄というテーマにあわせての装いだったのでしょう。
最初に聴いた鷹見泉石についての講演で「ダイヤの指輪や毛皮のコートは買わない」とおっしゃっていました。つまり自分は贅沢をせず、古河歴史博物館、古賀文学館などの設立に寄付。
あらためて永井氏、黒板氏夫妻と面識を得られた幸せを感じ、また『炎環』『歴史をさわがせた女たち』シリーズなどを再読したい、一方でまだ読んでいない『氷輪』『岩倉具視』は読まなきゃと思いました。

早春の花々、双子のミニトマト、ウィンナーコーヒーの思い出
3月7日、晴れて暖かかったので久しぶりに父を車椅子で公園に連れていきました。
「南夕子の樹」と私が勝手に呼んでいるシモクレンの樹が
満開になっていました。

遠距離通勤をしていた昨年より時間があるはずなのに、咲き始めに気づきませんでした。
就職支援のセミナーに出たり、履歴書や職務経歴書を作ったり、それを送って
書類選考で落ちたり、バタバタしていたせいでしょう。

この日、父は体調がよかったらしく、自分で車椅子をまわしたがりました。
弟は風邪をひいたと言って医者に行きました。そんな体調なのに翌日は
日曜出勤しました。
同じ日、近所のコミティハウスへ行く途中でゼニアオイが咲いているのを見つけました。この花を見るのは何年ぶりでしょう。

生協で買ったミニトマトの中に「双子」がありました。双子のまま、バランスよく
実っています。これは初めて見るもので何となく縁起がいい気分に
なりましたので写真を撮ってしまいました。
スーパーで1パック430円のとちおとめを買いましたが、同じ店にロールカステラがなかったので一袋198円の「不ぞろいパンケーキ」に載せ、ホイップクリームでイチゴパンケーキアラモード?にしてみました。

弟には「いちごどら焼きか?」と言われました(笑)。
翌日にはサンド風にしました。
前回も買ったホイップ済の植物性のクリームですから、ウィンナコーヒーにしてもおいしくないので、余りはパンに塗っていただきました。
ウィンナーコーヒーといえば、素敵な思い出があります。
銀座の松屋裏にあった我が美川隊員こと女優の西恵子さんが経営されていた喫茶店『蕃』でウィンナーコーヒーをオーダーしたところ、運んできたコーヒーに
マダム自らがクリームを入れてくださったのです。美川隊員に眼の前でうずまき状に生クリームをしぼっていただけるなんて、あれを越えるウィンナーコーヒーにはこれから出会うことはないでしょう。筆者が書いていることが
わからない方は『ウルトラマンA』をご覧ください。











































