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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

元々、この年の神戸ワールド記念ホールではムタとライガーの「夢の対決」が組まれていたのであるが、同シリーズの愛知県体育館大会においてライガーが足首を負傷してしまったため、直前でお流れとなってしまった。しかし、すでに闘魂Vスペシャルの発売が決まっていたためか、さすがにムタの試合ごとキャンセルは出来ず、代役の木戸修を立てての試合となった。

 

なので、何の変哲もないカードとなってしまった訳であるが、それでもこの試合に関しては本来のライガー戦用の新コスチュームで登場し、また闘魂Vでの差し替え入場曲も鈴木修氏監修と言う事で、実際のムタの曲に近い感じとなっており、これもなかなか良かったものである。

 

試合は当然ムタが勝利したが、前回触れたようにコメンテーターも武藤が担当しており、顔面に毒霧を吹かれた木戸は、その後3日間ぐらい武藤と口を聞いてくれなかったという。翌月は恒例のSGタッグリーグ戦に馳浩と組んでの出場となったが、この年の4月からワールドプロレスリングの放映が深夜になり、ゴルフで飛ばされなくなったため、シリーズ中もそこそこテレビ中継はあったかと思う。

 

しかし、さすがに年末の風物詩となっていた全日本の世界最強タッグに比べると、私的にもどうしても新日本のタッグリーグは力が入らず、あまり注目もしていなかったのであるが、蝶野・マシン組との決勝において大事件が起きた事で、後世に語られる事となった。言うまでもなく、シリーズ中から不協和音が絶えなかった2人が仲間割れし、マシンがマスクを脱いで平田となった試合がこの時だからだ。

 

無論、会場は割れんばかりの平田コールに包まれた訳であるが、そこからの展開がいささか急であり、蝶野が平田を置き去りにしてとっとと控室に帰った事もあって、あっさりと武藤のムーンサルトによってフォール負けで決着が着いた。また、この試合はワールドで視聴可能なので、久々に見てみたのであるが、相変わらずテレ朝のカメラワークが悪く、武藤のムーンサルトの全体像が映っていないという最悪のものとなってしまっている。

 

結局、2人の優勝と言うよりも、久々の平田の素顔と、そして「しょっぱい試合ですいません」と言う名言ばかりが後世に伝えられる形となり、私自身もそればかりが印象に残ってしまっている。なので、武藤としては結果的に平田に美味しい所を持っていかれた形だったので、案外不本意な形で終わってしまったのかも知れない。

 

そして、その年はIWGPに挑戦する事もなく、年始の1月4日を迎えたが、なんとこの日は前年と全く同じ武藤・馳VSスタイナーズのカードが組まれ、そして対スタイナーズ初勝利を果たしたのであるが、ドームとなるとムタを期待してしまう私としてはいささか拍子抜けのカードだった。また、この日は猪木のファイナルカウントダウン3rdの格闘技トーナメントと言う無理のある企画が組まれたよう、かなりカード編成にも苦心した後が伺われた。

 

 

 

 

 

 

 

1994年は全体的に橋本推しであったので、武藤として目立った動きはなかったかと思うし私も印象に残る出来事はない。という訳で、いきなり8月のG1クライマックスに話は飛ぶが、この年は前年の反省を活かして両国5連戦に短縮し、もちろん全戦G1絡みという濃縮されたシリーズとなった。

 

当然、全大会とも超満員となったのであるが、この年も決勝と4日目は早々に売り切れてしまったので、3日目だけに足を運ぶ事が出来た。購入当時はまだカード発表前であったのだが、蓋を開けてみるとメインは長州力VS武藤敬司、その他も馳VS越中、橋本VSパワーなどの好カードが目白押しであり、前年とは比較にならないほどの豪華カードであった。

 

ただ、後者2試合があまりにも白熱したせいもあるのか、メインも凡戦ではなかったとは言え、そこまで白熱した歴史に残る名勝負、というほどでもなかったかと思う。メインは長州のサソリ固めを反転しての変形足4の字固めという、当時としては意外なフィニッシュであったのだが、返し技という事もあるとは言え、この形でのフィニッシュはこれっきりだったと思う。

 

なので、以降これがフィニッシュになる事はなかったのであるが、すでに高田戦の1年前の出来事であった事を思うと、この頃からムーンサルトに代わるフィニッシャーを模索していた事は確かかも知れない。ただ、この当時長州VS武藤戦が組まれる事自体珍しく、私の記憶にある限り、ムタとしてを除けば長州とのシングル戦は1992年の大阪城以来だったかも知れない。なので、もしそれが正しいとするなら、長州戦シングル初勝利であったかと思う。

 

ただ、ご存知のようにこの年は蝶野がまさかの3度目の優勝、かつ白蝶野として最後の優勝、大会となり、またしても武藤は優勝を逃す事となってしまう。9月は前年に引き続き、G1スペシャルが開催され、私は23日の横アリに行く事が出来た。この大会では、ムタと黒蝶野の初対決となったのであるが、巷では凡戦と言われているにも関わらず、私的にはそこそこ楽しめた試合だった。

 

特に、試合の中盤でムタがリングを叩く小槌で蝶野の頭を滅多突きにした時などは、当時まだプロレスの流血のシステムを知らなかった私としては戦慄が走ったものである。また、ホーガンに負けて以来ムタはすでに無敵ではなくなっていたので、あいにくムタは負けてしまうのであるが、蝶野推しの当時としてはやむを得なかったかと思う。

 

そして、大阪城ホールではタッグマッチで長州と再戦が行われたのであるが、この時はまさかの長州の足4の字固めでギブアップ負けを喫した。サソリ固めという絶対的なフィニッシャーを持つ長州が、まさか他の足殺し、しかもその象徴とも言える足4の字を使うとは驚くしかなかったものである。

 

ただ、この試合は毎年恒例のノーテレビであったのだが、私は武藤敬司自ら解説していた闘魂Vスペシャルにおいて観る事が出来た。ただ、目玉はもちろんこの試合ではない。そう、この年はライガーの怪我により中止となってしまった代わりに組まれた、神戸ワールド記念ホールのムタVS木戸戦である。

 

 

 

 

 

 

話は多少前後するのだが、ムタがIWGP王者になるまではムタの試合はかなり希少であったので、私も含めて割とそれなりに多くのファンがムタの試合に飢えていたものである。その当時、日本語実況版のWWEとWCWのPPVのビデオが定期的に発売されていたのであるが、プロレスショップの通販において後者の一部が「グレート・ムタセット」として販売されていた事があった。

 

ムタの試合のみを切り抜きしたものではなく、順に1989年の「ザ・グレート・アメリカンバッシュ」、「ハロウィン・ヘイボック」、そして年末の「スターケード」がセットになっているだけであったのだが、アメリカでのリアルムタが見れる貴重なビデオだけあって私はこれが欲しくてたまらなかったのである。

 

しかし、当時のセルビデオは非常に高く、こちらも例に漏れずに1本9800円もしたので、買える代物ではなかった。しかし、1992年の年末頃、突如として1本3800円の廉価版として再発売されたのである。しかも、当時はまだプロレス人気も高かったせいか、月刊ゲーメストのバックナンバーも売っていた今はなき町田の福屋書店において、3本とも売っていたのだ。当然、私は全て買ったのは言うまでもない。

 

その中でも特に良かったのが、ワンナイトのリーグ戦が行われたスターケードだ。1本でフレアー、スティング、ルーガーとの試合も見れたし、しかもいずれのビデオも中盤からは武藤敬司自身の解説付きだった。それを聞くだけでも楽しめたものである。

 

そして、テレビ収録されたムタの試合も、ビデオパックニッポンから発売された。当然これも欲しくてたまらなかったのであるが、さすがにこちらは1本1万円と言う事でその時は買う事は出来なかった。しかし、数年後に運よく中古で買う事が出来たので、初期のものは見る事が出来た。

 

ドームでのスティング戦以降であればほとんど見てはいたのだが、運悪く見逃してしまったTNTと組んでのタッグマッチがようやく見れたのはその時である。週プロを見る限りではもっと陰惨な試合かと思ったが、意外とそうでもなく武藤が初めて生き生きとしてムタを演じた初めてと言っても良い試合であり、10分ちょいの試合ながら非常に上手くまとまった内容であったかと思う。

 

そして、個人の特集だけあって、当然ムタの入場曲も収録されており、ほぼノーカットで見る事が出来る。この時、1990年の上から降りてきたと伝説のリッキー・スティムボート戦の入場もようやく見る事が出来たのであるが、あいにくテレ朝のカメラアングルが最悪であり、ほとんどリングに降りる直前ぐらいのカットしか映っていなかった。なので、映像からはその凄みが全く伝わってこないのであるが、実際に行った人の話からすると本当に沸き返ったと言う。

 

 

 

 

ドーム以降、私は2月の武道館と、3月の東京体育館大会へと足を運んだのであるが、あいにくいずれも武藤は出場していない。当時のソースが探せないので何故欠場していたのかは分からないのであるが、と言う訳で次は一気に5月の福岡ドーム大会である。

 

前年が豪華すぎたが故に、さすがにあれ以上のカードを用意するのは困難、と言う訳で前年に比べるとかなりスケールダウンした感が否めなかった。と言う訳で、カウントダウンを発表した猪木の商品価値はまだまだこの時点では高く、前年に引き続きメイン、しかもシングル、そしてその相手がなんとグレート・ムタとなった。

 

しかし、それまで特に因縁もストーリーもなかったので、かなり唐突に組まれた感は否めなかった。しかも、この時点でもまだ前年の金銭疑惑がまだ尾を引いており、猪木は一切ワールドプロレスリングの放送に乗る事が出来なかったのだ。と言う訳で、福岡大会への煽りとも言える西日本、九州シリーズでは熊本のテレビマッチで急遽ムタとして登場したり、そしてその極めつけが4月の広島大会における長州・天龍VS武藤・蝶野戦だった。

 

試合開始早々、天龍に「ムタで来い!」と挑発された武藤はそのまま花道を引き返し、10分した所で蝶野とのNWA戦以来の白塗りの赤字ペイントで登場した。試合中にペイントが溶けて素顔になる事はあっても、その逆はあり得なかった話であり、この時の会場の盛り上がりは大変なものがあったのだ。結果は蝶野がフォール負けして終わったのであるが、当然ムタはそんな事はお構いなしであり、当日試合出場した猪木にも因縁をふっかけていったのである。

 

しかし、前述のように猪木はまだ放送に乗る事が出来なかったので、当然このシーンは放送されなかった。しかし、ドームの「猪木VS天龍」はテレビ的には「なかったこと」とされていたのに対し、さすがに集客に苦戦する福岡ドーム大会ではそうもいかず、黒バックに白字で殴り書きのように「猪木VSムタ」と書かれた文字だけの煽りが使われていた。

 

という訳で、猪木がテレビに出れない代わりに、ムタが必死とも言えるほどのプロモーションを仕掛けていったものである。試合ももちろんその時点ではオンエアーされなかったのであるが、その代わりに当時放映が開始されたばかりのリングの魂において、南原氏が試合終了の瞬間を見届ける絵だけが紹介された。

 

この試合はのちに「キラー猪木」と言うビデオシリーズの目玉として発売され、そして翌年1月にようやくテレ朝でも放映されたので、もちろん今では自由に見る事が出来るのであるが、終始ムタのペースで進んだ試合は完全に猪木がムタに喰われた形となってしまったため、試合後の猪木が非常に不機嫌だった事が今なお印象深い。

 

 

 

 

 

 

 

 

10月には当時恒例だったSGタッグリーグ戦が開催され、武藤は当時良くタッグを組んでいた馳とのコンビで出場した。が、すでに既出の通り、この時期はほぼ毎週レベルでゴルフ中継に取って代わられたため、見ている側としても今一つ乗り切れないシリーズだった。それに加えて、当時はまだ全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦が圧倒的な歴史とブランド力を持っていたので、これだけは新日本が破る事の出来ない壁であったかと思う。

 

辛うじて、決勝の両国だけはテレビ中継されたものの、当時超満員と言えば11500人と言う数字が当たり前だった時代に、この大会は11000人となっている事からも、チケット完売はならなかったのだろう。田中ケロ氏曰く、選手は頑張っているし会場自体も盛り上がっている、と旅日記に記していたが、やはりテレビ中継の少なさはいかんともしがたかった。

 

そして、この大会における優勝チームがこの武藤と馳であった。定番タッグチームの少ない新日本の中で、この2人はIWGPタッグ王座に輝くなどそれなりに実績も残していたので、まあ納得の出来る結果であったかと思う。ただ、私自身もこのSGタッグはあまり注目していなかったのは確かなので、正直リアルタイムでの記憶はほとんどない。

 

年末には橋本の所で触れたように、武藤は橋本のIWGP王座へと挑戦する。29分弱と言う、当時の全日本でもなかなかなかった試合タイムであり、毎年この時期に行われる愛知県体育館や、大阪府立体育会館の試合は名勝負が多かった。

 

1994年の1月4日は、馳と組んでスタイナーズと対戦したのだが、実はこの時が武藤敬司として出場した初のドームだった。この頃、雑誌のインタビューなどで「武藤敬司の商品価値はムタより下」と常々語っていたので、ようやくその商品価値が上回った記念すべき日と言えた。イコール、ドームで初めてHOLD OUTが響き渡った日でもあり、当然の如くドームで初の武藤コールも鳴り響いた。

ぶっちゃけ言うと、当時の認識で言うとドーム大会イコールムタの試合が見られる、と言う感覚であっただけに、少し残念だった気持ちがあったのも確かである。ただ、試合自体は非常に盛り上がり、さらにこの日はスコット・スタイナーのスタイナースクリュードライバーが初披露された日でもあった。途中までは垂直落下式ブレーンバスターの型だったので、別にざわつきもなかったのだが、その瞬間から一気に逆ツームストーンのような形で落ちた時は、ドームが一斉にどよめいたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸いにも、数か月後に行きつけのお店でビデオが入荷してくれたので、それでようやくムタVSカブキ戦を見る事が出来た。しかし、当時の市販ビデオの宿命により、当然の事ながら入場曲は差し替えである。しかし、ビデオパックニッポンが用意したムタ用のBGMはなかなか出来が良く、個人的には悪くはなかった。

 

現時点で唯一の両国7連戦となっているこの年のG1は、前年同様にトーナメントで行われたのだが、トーナメントが行われたのは2~6日の5日間のみであり、当然私が行った初日は公式戦はゼロ。私が電話予約した日にはすでに最終日と6日目は売り切れていたので、仕方なく一回戦を目当てに初日を選んだのであるが、前述のように公式戦はゼロであり、何の変哲もないカードばかりが並んでいたという詐欺のような日だった。

 

まあ、それでも自分の他にも騙された人が多かったせいか会場自体はほぼ満員だったので、盛り上がりも良かったし、さらに単なる6人タッグながらムーンサルトまで披露してくれた武藤にも驚いたものである。テレビでしか見てないと毎回ムーンサルトで決めているような感覚を受けるが、本当は全然そんな事はなく、地方ではもっぱらドラゴンスリーパーなどを決め技としていたものだ。それでも、あの高田戦が行われるまでは、ムーンサルト以外にこれぞと言う決め技は存在していなかった。

 

そしてこの年のG1でも準決勝まで進出したのであるが、藤波のこれも珍しい胴絞めドラゴンスリーパーで敗れた。これと、メインである蝶野VS馳はダイジェストながらテレビでも流されたのであるが、実際はノーテレビのビデオ収録のみであり、辻アナがスタジオでアテレコしたものが放映された。このふたつはいずれも20分越えの試合であり、会場もかなり盛り上がっていた感があったので、出来ればテレビ収録してもう少し多く流してほしかったものである。

 

翌月からはG1スペシャルが開始されたが、両国7連戦をターザン山本などが失敗と断罪したしせいもあるのか、非常に豪華なカードが組まれていった。その先鞭が、愛知県体育館のムタVS橋本のIWGP戦である。しかし、この大会もノーテレビのビデオ収録のみであり、当時はもちろん今でも映像で見た事がない。そして、ジャンピングDDTで敗れたムタは、1年1ヵ月守ってきたベルトを橋本に明け渡し、本格的な三銃士時代が到来し始める。

 

唯一のテレビマッチとなった横浜アリーナ大会では、今度はハルク・ホーガンと組み、ホーク健介のヘルレイザースとのタッグ対決と言うこれまた夢のカードが組まれる。さすがのヘルレイザースと言えど、ホーガン相手に勝てる訳もなく、ホーガンが健介を仕留めて勝利したのだが、実際に会場に居た私にとって、この時が初めて生で見るハルク・ホーガンの試合であり、「リアル・アメリカン」がかかった瞬間からそれはそれは興奮したものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1993年の新日本は、まずは前年に引き続きWARとの対抗戦を軸としていった。しかし、武藤自身はあまり関心がなかったのか、執拗に天龍戦をアピールしていた橋本とは対照的に、あまり乗り気でなかったように思える。興行の軸的にすでに三銃士がメインだったとは言っても、まだ長州も藤波もトップでバリバリであり、同世代の天龍も当然そちら側を中心として絡んでいったため、結果的に三銃士らは影が薄かったように思える。

 

そういう訳で、上半期はもっぱらIWGP王者と言う事もあってムタとしての露出の方が目立っていた。まずは何と言っても、同年にオープンしたばかりの初の福岡ドーム大会におけるハルク・ホーガン戦である。この当時、WWEとの関係が揺れており離脱もしくは引退と言う噂まで出ていたほどだったのだが、記録によるとこの時点ではまだWWE所属だったようである。それでいて、WCWと提携中の新日本によく来日してくれたな、と思うのだが、この辺りのいきさつは今なおよく分かっていない。

 

そして、東京よりも遥かに集客に苦戦する事は間違いない福岡ドームとあって、関係者の意気込みは凄まじく、ホーガンVSムタ以外にも豪華カードが目白押しであった。また、この大会は何故かテレ朝がハイビジョン収録していたのであるが、当時の家庭におけるブラウン管は99パーセント4:3であったので、当然上下には黒帯が入ってしまいあまり意味がなかった。

 

試合は、さすがにホーガン相手では勝ちとはいかず、国内では初のフォール負けを喫した。しかし、フィニッシャーがアメリカでのギロチンドロップではなく、アックスボンバーであったのはせめてもの意地であろうか。

 

そして、5月24日、初の親子対決であるカブキ戦がWARのマットで行われた。結果はカブキを血だるまにした挙句の反則負けと、まさにムタの真骨頂とも言える展開だった。そして、早くも翌月に今度は新日本の武道館大会において、IWGP王座を賭けた再戦が組まれたのだが、これが実は大変な物議をかもす試合となってしまったのだ。

 

前半はムタが飛ばしていたものの、後半はカブキの一方的なペースとなり、結果は今度はカブキの反則負けで王座防衛と言う形になったのであるが、なんとテレビマッチでありながら当時の地上波放送では放映される事がなかった。まあ内容を見れば一目瞭然なのであるが、単なる流血戦と言うだけではなく、カブキのお家芸である血の噴水をムタに振りかけた事が放送コードに引っかかってしまったのだろう。

 

3年後の新崎人生戦も相当なものだったが、この時はすでに深夜に以降していたのでほぼノーカットで放映されたのだが、1993年の時点ではまだ午後4時からの放送だったので、カットも止む無しだったのだろう。と言う訳で、ムタの放送を毎回楽しみにしていた私にとっては残念極まりなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かくしてIWGP王者となった武藤であるが、あくまで武藤ではなくムタとしての戴冠であったため、正式にグレート・ムタ戴冠であり武藤敬司としての戴冠とはカウントされる事はなかった。と言う訳で、三沢光晴がハンセンにピンフォールで三冠王座を奪取し、鶴田が入院していた事もあってほぼ完璧な形で世代交代を果たした全日本プロレスとは異なり、長州と藤波は自らの格を維持しつつ、興行のメインは三銃士に譲っていくと言う、上手い具合でパワーバランスを維持しつつ興行を回していく形となった。

 

そして、9月の横アリではムタとして橋本真也の挑戦を受けた。この頃になるとあまり入場に凝る事も少なくなっていたが、この時は忍者マスクをせずに入場してきた初の事例となった。そして、ここまで完璧に忘れていたが、前回の長州力戦から日本初の目と頬の周りをツートンカラーに分けた通称「悪魔相」を披露する。この形はすでにWCWのビデオで見る事が出来たのであるが、日本では何故かここまで初披露だったのだ。

 

ただ、試合内容は相変わらず微妙であり、この試合ではシューズに金具を仕込んでのニードロップが見せ場となったのだが、これが試合会場で見ていた人たちには見えづらかったらしく、何故橋本がニードロップ程度であそこまでダメージを負っていたのかが伝わらなかったようである。フィニッシュのムーンサルトも当たりが浅く、結果的にまたもや凡戦となってしまった。

 

10月にはスコット・ノートンとなんと幕張メッセでの王座戦を行うが、こちらはノーテレビであり、当時の資料も見る事が出来ないので全く記憶にない。この時は青ムタだったような記憶があるぐらいである。11月には両国2連戦の初日で、初公開となる全身真っ白の白ムタとしてスティングとの王座戦を行うが、こちらもなんとノーテレビである。この頃、毎年秋はゴルフ中継で潰れていたので、テレビマッチが極端に少なかったのであるが、モロにその煽りを受けた格好となった。なので、この2試合に関しては未だに動く映像で見たことがないのである。

 

まあ、面子的にどう考えてもIWGP王座になる訳はないだろうな、的な相手だったのは確かとは言え、それでもまだまだレアなムタの試合がテレビで見れないというのは大きな損失であった。そして、イッテンヨンでは蝶野とのダブルタイトルマッチを行う。この時もスティング戦に続く白ムタであったのだが、この試合ではヒールの欠片も見られない武藤的なファイトに終始し、最後はムーンサルト2連発からのスリーカウントで遂に悲願のNWA王者となる。

 

その後、WCWでバリー・ウインダムと試合し、ここで敗北してベルトを失ってしまうのであるが、今考えればアメリカでの実績は蝶野より遥かに上であるムタが、返しに行っただけ、の話である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1992年のG1クライマックスは、復活したNWA王座決定トーナメントとなり、武藤は1回戦でバリー・ウインダム、そして2回戦ではスティーブ・オースチン、そう、なんとのちのストーンコールド・スティーブ・オースチンと日本で闘っていたのである。しかし、この当時のオースチンは当然ストーンコールドスタイルではなく、ブロンドの長髪をなびかせた「スタニング・スティーブ・オースチン」と言う、ニヒルな二枚目キャラで売っていた。

 

これが初来日であり、当然ほとんどの日本のファンはこの時にオースチンを目の当たりにしたのであるが、これぞと言って目を引くようなモノはなく、あくまでWCWの中堅的なイメージとでしか見ていなかった。しかし、9月に放映されたプレ・ステージに馳や健介らが出演した際には非常に高い評価を受けており、健介などは「これから上に行くんじゃないですか?」とまで評していたのだから、プロからすれば光るものがあったのだろう。それでも、さすがにあそこまでの大ブレイクにまで至るとは、とても予測できた人はいなかったはずである。

 

そして、準決勝では前年同様に蝶野と当たったが、ここでも完璧に決まったSTFに仕留められてしまう。この時のSTFは、キャメルクラッチ並に上体を引っ張り上げた形となっており、これまでの中でも強烈に決まった型だった。この頃になると、さすがに最後にSTFで仕留めるというのもパターン化してきた感があったので、いつもとは違う蝶野の凄みを見せつけていたような感があった。

と言うように、結果的にG1はもちろん、長年の悲願だったNWA王座も逃す事となってしまったのだが、その後まもなく行われたG1クライマックススペシャル福岡国際センター大会において、グレート・ムタとして長州力が保持するIWGP王座への挑戦となった。結果は11分26秒、ムーンサルト2連発からのフォールにより、三銃士の中では初めてのIWGP王座戴冠となった。

 

この試合はノーテレビであったのだが、早い段階から闘魂Vスペシャルでのビデオ発売が告知されていた。しかも、全国のチケットぴあステーションにおいて予約まで受け付けていたのだ。この当時、まだ高かったセルビデオを売っている場所はなかなかなく、都内のプロレスショップ以外となるとほぼ通販のみに限られた。しかし、Amazonなど影も形もない当時の通販はえらく届くのが遅かったので、異例とも言えるぴあでの予約は非常に助かったものである。

 

当然、私は開始と同時に相模大野のサトームセンにあったぴあで予約し、発売日当日に取りに行ったのだが、この時は暑さにやられたか異常に体調が悪かったのを今でも記憶している。そして、もちろん結果を知った状態で試合を見ていったのであるが、正直試合内容自体はムタの一方的なペースであり、凡戦と言っても良いレベルだった。当時、長州力の試合はタイトルマッチであっても10分ちょいで終わる事が多かったのであるが、今思うと単純に20分以上の試合が難しかっただけだったのだろう。しかし、それでいてもあまりにも一方的過ぎ、期待感が大きすぎた事もあってか見終わった後の失望感が凄かった。

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5月には大阪城ホールにおいても20周年記念興行が行われたが、その日のメインが長州力VS武藤敬司のIWGP王座戦だった。そして、なんとこの日が武藤敬司にとって初のIWGP王座への挑戦でもあったのである。橋本、蝶野がすでに挑戦しているにも関わらず、なんと1992年のこの日まで戴冠はおろか挑戦した事すらなかったのである。これは非常に驚き、そして謎でもあった。

 

さすがにこの時点では長州力も現役バリバリであり、まだまだ世代を超えさせるという事はなくリキ・ラリアットによってフォール負けを喫した。そして、6月には私の地元の近くである今はなき大和市の車体工業体育館と言う、かつてはテレビマッチや、さらにはあの伝説の神取VSジャッキー佐藤戦が行われた、マニアには有名な場所に新日本がやってきてくれたのであるが、何を隠そうこの日が私にとってのプロレス初観戦の日だったのだ。

 

この時はたまたまクラスメイトにプロレスファンが居た事から実現したのであるが、それまでプロレスはテレビで見るものでしかなかった自分にとって、ノーテレビでありながら生で見るプロレスの迫力に圧倒されたものである。当然、早めに来て会場入りする選手を待っていたのであるが、三銃士と木村健吾だけは自家用車で来たのだ。

 

そして、突然目の前に現れた本物の武藤敬司に我を忘れるほど興奮した自分は、家から持ってきたカメラで2枚撮影、そして握手を求めに行ったものの、ひとりひとり丁寧に握手してくれた橋本とは異なり、そそくさと会場に入ってしまった。この時、実は蝶野も後ろに居たらしいのであるが、この時の自分にとっては武藤以外何も見えておらず、蝶野の存在には全く気付くことはなかった。

 

1992年と言う年は非常にプロレス界が活況であったため、ノーテレビでありながらこの大会もかなり埋まっていた。私はリングサイドの後ろの方であったのだが、ちょうどその辺りに売店などもあったため、田中ケロ氏と、当時まだヤングライオンだった西村修のサインなども貰う事が出来た。

 

そして、武藤はヒロ斎藤とのシングルだったのだが、こんな会場で武藤のシングルが見れるというのは非常にラッキーだった。当然、武藤の勝ちであったのだが、さすがにムーンサルトは出さずにドラゴンスリーパーと言う意外な技がフィニッシャーとなった。のち、ドラゴンスクリューからの足4の字固めを自身の代名詞にするのだが、この時期はたまにドラゴンスープレックスなども使用しており、他人の真似は嫌いと言いつつも案外藤波の技は平気で使っていたものである。