5月には大阪城ホールにおいても20周年記念興行が行われたが、その日のメインが長州力VS武藤敬司のIWGP王座戦だった。そして、なんとこの日が武藤敬司にとって初のIWGP王座への挑戦でもあったのである。橋本、蝶野がすでに挑戦しているにも関わらず、なんと1992年のこの日まで戴冠はおろか挑戦した事すらなかったのである。これは非常に驚き、そして謎でもあった。
さすがにこの時点では長州力も現役バリバリであり、まだまだ世代を超えさせるという事はなくリキ・ラリアットによってフォール負けを喫した。そして、6月には私の地元の近くである今はなき大和市の車体工業体育館と言う、かつてはテレビマッチや、さらにはあの伝説の神取VSジャッキー佐藤戦が行われた、マニアには有名な場所に新日本がやってきてくれたのであるが、何を隠そうこの日が私にとってのプロレス初観戦の日だったのだ。
この時はたまたまクラスメイトにプロレスファンが居た事から実現したのであるが、それまでプロレスはテレビで見るものでしかなかった自分にとって、ノーテレビでありながら生で見るプロレスの迫力に圧倒されたものである。当然、早めに来て会場入りする選手を待っていたのであるが、三銃士と木村健吾だけは自家用車で来たのだ。
そして、突然目の前に現れた本物の武藤敬司に我を忘れるほど興奮した自分は、家から持ってきたカメラで2枚撮影、そして握手を求めに行ったものの、ひとりひとり丁寧に握手してくれた橋本とは異なり、そそくさと会場に入ってしまった。この時、実は蝶野も後ろに居たらしいのであるが、この時の自分にとっては武藤以外何も見えておらず、蝶野の存在には全く気付くことはなかった。
1992年と言う年は非常にプロレス界が活況であったため、ノーテレビでありながらこの大会もかなり埋まっていた。私はリングサイドの後ろの方であったのだが、ちょうどその辺りに売店などもあったため、田中ケロ氏と、当時まだヤングライオンだった西村修のサインなども貰う事が出来た。
そして、武藤はヒロ斎藤とのシングルだったのだが、こんな会場で武藤のシングルが見れるというのは非常にラッキーだった。当然、武藤の勝ちであったのだが、さすがにムーンサルトは出さずにドラゴンスリーパーと言う意外な技がフィニッシャーとなった。のち、ドラゴンスクリューからの足4の字固めを自身の代名詞にするのだが、この時期はたまにドラゴンスープレックスなども使用しており、他人の真似は嫌いと言いつつも案外藤波の技は平気で使っていたものである。