1992年のG1クライマックスは、復活したNWA王座決定トーナメントとなり、武藤は1回戦でバリー・ウインダム、そして2回戦ではスティーブ・オースチン、そう、なんとのちのストーンコールド・スティーブ・オースチンと日本で闘っていたのである。しかし、この当時のオースチンは当然ストーンコールドスタイルではなく、ブロンドの長髪をなびかせた「スタニング・スティーブ・オースチン」と言う、ニヒルな二枚目キャラで売っていた。
これが初来日であり、当然ほとんどの日本のファンはこの時にオースチンを目の当たりにしたのであるが、これぞと言って目を引くようなモノはなく、あくまでWCWの中堅的なイメージとでしか見ていなかった。しかし、9月に放映されたプレ・ステージに馳や健介らが出演した際には非常に高い評価を受けており、健介などは「これから上に行くんじゃないですか?」とまで評していたのだから、プロからすれば光るものがあったのだろう。それでも、さすがにあそこまでの大ブレイクにまで至るとは、とても予測できた人はいなかったはずである。
そして、準決勝では前年同様に蝶野と当たったが、ここでも完璧に決まったSTFに仕留められてしまう。この時のSTFは、キャメルクラッチ並に上体を引っ張り上げた形となっており、これまでの中でも強烈に決まった型だった。この頃になると、さすがに最後にSTFで仕留めるというのもパターン化してきた感があったので、いつもとは違う蝶野の凄みを見せつけていたような感があった。
と言うように、結果的にG1はもちろん、長年の悲願だったNWA王座も逃す事となってしまったのだが、その後まもなく行われたG1クライマックススペシャル福岡国際センター大会において、グレート・ムタとして長州力が保持するIWGP王座への挑戦となった。結果は11分26秒、ムーンサルト2連発からのフォールにより、三銃士の中では初めてのIWGP王座戴冠となった。
この試合はノーテレビであったのだが、早い段階から闘魂Vスペシャルでのビデオ発売が告知されていた。しかも、全国のチケットぴあステーションにおいて予約まで受け付けていたのだ。この当時、まだ高かったセルビデオを売っている場所はなかなかなく、都内のプロレスショップ以外となるとほぼ通販のみに限られた。しかし、Amazonなど影も形もない当時の通販はえらく届くのが遅かったので、異例とも言えるぴあでの予約は非常に助かったものである。
当然、私は開始と同時に相模大野のサトームセンにあったぴあで予約し、発売日当日に取りに行ったのだが、この時は暑さにやられたか異常に体調が悪かったのを今でも記憶している。そして、もちろん結果を知った状態で試合を見ていったのであるが、正直試合内容自体はムタの一方的なペースであり、凡戦と言っても良いレベルだった。当時、長州力の試合はタイトルマッチであっても10分ちょいで終わる事が多かったのであるが、今思うと単純に20分以上の試合が難しかっただけだったのだろう。しかし、それでいてもあまりにも一方的過ぎ、期待感が大きすぎた事もあってか見終わった後の失望感が凄かった。