武藤敬司について語る・その8 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

かくしてIWGP王者となった武藤であるが、あくまで武藤ではなくムタとしての戴冠であったため、正式にグレート・ムタ戴冠であり武藤敬司としての戴冠とはカウントされる事はなかった。と言う訳で、三沢光晴がハンセンにピンフォールで三冠王座を奪取し、鶴田が入院していた事もあってほぼ完璧な形で世代交代を果たした全日本プロレスとは異なり、長州と藤波は自らの格を維持しつつ、興行のメインは三銃士に譲っていくと言う、上手い具合でパワーバランスを維持しつつ興行を回していく形となった。

 

そして、9月の横アリではムタとして橋本真也の挑戦を受けた。この頃になるとあまり入場に凝る事も少なくなっていたが、この時は忍者マスクをせずに入場してきた初の事例となった。そして、ここまで完璧に忘れていたが、前回の長州力戦から日本初の目と頬の周りをツートンカラーに分けた通称「悪魔相」を披露する。この形はすでにWCWのビデオで見る事が出来たのであるが、日本では何故かここまで初披露だったのだ。

 

ただ、試合内容は相変わらず微妙であり、この試合ではシューズに金具を仕込んでのニードロップが見せ場となったのだが、これが試合会場で見ていた人たちには見えづらかったらしく、何故橋本がニードロップ程度であそこまでダメージを負っていたのかが伝わらなかったようである。フィニッシュのムーンサルトも当たりが浅く、結果的にまたもや凡戦となってしまった。

 

10月にはスコット・ノートンとなんと幕張メッセでの王座戦を行うが、こちらはノーテレビであり、当時の資料も見る事が出来ないので全く記憶にない。この時は青ムタだったような記憶があるぐらいである。11月には両国2連戦の初日で、初公開となる全身真っ白の白ムタとしてスティングとの王座戦を行うが、こちらもなんとノーテレビである。この頃、毎年秋はゴルフ中継で潰れていたので、テレビマッチが極端に少なかったのであるが、モロにその煽りを受けた格好となった。なので、この2試合に関しては未だに動く映像で見たことがないのである。

 

まあ、面子的にどう考えてもIWGP王座になる訳はないだろうな、的な相手だったのは確かとは言え、それでもまだまだレアなムタの試合がテレビで見れないというのは大きな損失であった。そして、イッテンヨンでは蝶野とのダブルタイトルマッチを行う。この時もスティング戦に続く白ムタであったのだが、この試合ではヒールの欠片も見られない武藤的なファイトに終始し、最後はムーンサルト2連発からのスリーカウントで遂に悲願のNWA王者となる。

 

その後、WCWでバリー・ウインダムと試合し、ここで敗北してベルトを失ってしまうのであるが、今考えればアメリカでの実績は蝶野より遥かに上であるムタが、返しに行っただけ、の話である。