武藤敬司について語る・その9 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

1993年の新日本は、まずは前年に引き続きWARとの対抗戦を軸としていった。しかし、武藤自身はあまり関心がなかったのか、執拗に天龍戦をアピールしていた橋本とは対照的に、あまり乗り気でなかったように思える。興行の軸的にすでに三銃士がメインだったとは言っても、まだ長州も藤波もトップでバリバリであり、同世代の天龍も当然そちら側を中心として絡んでいったため、結果的に三銃士らは影が薄かったように思える。

 

そういう訳で、上半期はもっぱらIWGP王者と言う事もあってムタとしての露出の方が目立っていた。まずは何と言っても、同年にオープンしたばかりの初の福岡ドーム大会におけるハルク・ホーガン戦である。この当時、WWEとの関係が揺れており離脱もしくは引退と言う噂まで出ていたほどだったのだが、記録によるとこの時点ではまだWWE所属だったようである。それでいて、WCWと提携中の新日本によく来日してくれたな、と思うのだが、この辺りのいきさつは今なおよく分かっていない。

 

そして、東京よりも遥かに集客に苦戦する事は間違いない福岡ドームとあって、関係者の意気込みは凄まじく、ホーガンVSムタ以外にも豪華カードが目白押しであった。また、この大会は何故かテレ朝がハイビジョン収録していたのであるが、当時の家庭におけるブラウン管は99パーセント4:3であったので、当然上下には黒帯が入ってしまいあまり意味がなかった。

 

試合は、さすがにホーガン相手では勝ちとはいかず、国内では初のフォール負けを喫した。しかし、フィニッシャーがアメリカでのギロチンドロップではなく、アックスボンバーであったのはせめてもの意地であろうか。

 

そして、5月24日、初の親子対決であるカブキ戦がWARのマットで行われた。結果はカブキを血だるまにした挙句の反則負けと、まさにムタの真骨頂とも言える展開だった。そして、早くも翌月に今度は新日本の武道館大会において、IWGP王座を賭けた再戦が組まれたのだが、これが実は大変な物議をかもす試合となってしまったのだ。

 

前半はムタが飛ばしていたものの、後半はカブキの一方的なペースとなり、結果は今度はカブキの反則負けで王座防衛と言う形になったのであるが、なんとテレビマッチでありながら当時の地上波放送では放映される事がなかった。まあ内容を見れば一目瞭然なのであるが、単なる流血戦と言うだけではなく、カブキのお家芸である血の噴水をムタに振りかけた事が放送コードに引っかかってしまったのだろう。

 

3年後の新崎人生戦も相当なものだったが、この時はすでに深夜に以降していたのでほぼノーカットで放映されたのだが、1993年の時点ではまだ午後4時からの放送だったので、カットも止む無しだったのだろう。と言う訳で、ムタの放送を毎回楽しみにしていた私にとっては残念極まりなかった。