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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

マシン戦以降は、馳と組んでIWGPタッグ王座などにもついたりしたのだが、何故か私はその試合をテレビで見た記憶がないので、ここではスキップする。と言う訳で、次はいきなり史上初のイッテンヨンとなった1992年1月4日の旗揚げ20周年記念大会であった「超戦士in闘強導夢」である。

 

この大会ではムタはスティングと組み、スタイナーブラザーズと対戦したのだが、見ての通り完全にWCW直輸入マッチであり、よって初の青ムタとなったこの試合ではヒールの要素はほとんど出ず、ひたすらアメリカンプロレスをエンジョイしていた感だった。しかし、スティングがセールを嫌がったのかどうかは知らないが、ムタはひたすらスタイナーズの強烈な投げ技らを受ける役目となり、比較的損な役回りに見えたものだ。

 

そして、この試合のみ、当日のスペシャルゲストによる女性のみのバンド「SHOW-YA」による生演奏での入場となったのであるが、当然和楽器は演奏出来るはずもなく、前半に当時発売されたばかりのMUTAのCDバージョンが少し流れ、その後に原曲のHOLD OUTによる入場となった。また、私はこの試合を見るまでスタイナーズの事は全く知らなかったので、タッグチームとしてはウォリアーズ以来のインパクトを受けたものだった。

 

前述のよう、1991年の12月にMUTAのオリジナル入場曲がアルバムCDで発売されたのであるが、こちらはそれまで使用されていたいわゆるプロトタイプではなく、改めて録音された完成バージョンだった。一応、このドーム大会からCDバージョンが使用されていったのであるが、プロトタイプの出来もかなり良かったため、一部テーマ曲マニアの落胆を買ったものである。

 

3月では、猪木の故郷である横浜アリーナにおいても20周年興行を行う。この試合では馳と組み、ベイダーとビガロと言う、当時の新日本最強外国人タッグチームとの対戦となったが、ベイダーのチョークスラムの前に武藤がフォール負けを果たした。初めて素顔の武藤敬司で試合をした横浜アリーナ大会であったのだが、あいにく武藤が負け役となってしまったのだ。

 

因みに、この時点では確かまだ田上明は輪島が考案したアームボンバーをメインで使用しており、のちのいわゆるのど輪落としはまだ使っていなかった、少なくとも自分は見た事がなかったので、この時に初めてチョークスラムと言う技を見たのである。しかし、当時は正式名称が分からず、しばらくは分からないままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しかし2023年の今、当時のプロレスファンが、1991年のベストバウトと聞いて、天龍VSホーガンを選ぶ人など皆無のはずである。全ての人に思い出として残っているであろう試合は、1991年4月18日の鶴田VS三沢と、そしてこのG1決勝である武藤VS蝶野の2つであるはずだ。このように、最高権威であるはずの東スポプロレス大賞は、たまにベストバウトに万人が納得いかない試合を挙げる事がままあるのであるが、1988年と並んで1991年もその代表的な例だろう。

 

そしてその直後、新日本はこれも異例とも言えるよみうりランドでの興行を行う。そのメインが、究極ヒール対決とも銘打たれたムタVSマシン戦だ。まあ、一応当時マシンはヒールユニットだったブロンド・アウトローズの一員ではあったのだが、ファイトスタイルは特に露骨なヒール寄りではなかったかとは思う。と言う訳で、試合は札幌で覚醒したムタがこれまた悪党全開のファイトとなり、最後は当時としてはすでに時代遅れともされたマスク剥ぎでの反則決着と言う、お互いのキャラとマシンの格を守った結末となった。

 

今では考えられない結末だが、当時の新日本は勢いもあったのか、まだ稀にメインですらこのような不透明決着は珍しくもなかったのだ。そして、他の目玉と言えば、マシンの緑色コスチュームに合わせたか、ムタが日本初披露となる緑色をベースとしたペイントをしてきた事だった。カエルみたい、と揶揄されたせいか、この色はおそらくこの1回限りではなかったかと思うが、緑色と言うのはなかなか毒々しく、またいつも以上に表情も読み取り辛く、ヒールのイメージに合っていたかと思う。

 

そして、翌月の横アリ大会では、前年のリッキー・スティムボート戦に続いて2年連続となるムタでの登場となり、まだ世代交代がテーマだった時代の藤波戦だった。この当時の大会場のムタの入場はかなり凝る事が多く、この大会ではなんと引田天功本人まで現れるというマジックショーさながらの演出だった。まあ、ムタの入場はご存じのように忍者マスクをしている訳で、今見るとたわいのないものであるが、それでも結構驚いたものである。

 

試合はこちらも横アリのメインとは思えないぐらいの凡戦であり、毒霧レフェリー誤爆から幻のスリーカウント、そして急所打ちからムーンサルトでフォールと言う、古典的な反則アングルバリバリの結末であった。まあ、まだ三銃士の誰もがIWGP王者になっていない当時、藤波の格を守る上でのムタの勝利、と言う面もあったとは言え、さすがに横アリのメインがこれではファンを馬鹿にしているにもほどがあるというものである。

 

今でもオカダがフォール負けをする際、その格を守るためにEVILやKENTAを筆頭とするバレットクラブの連中が、茶番全開の反則をしまくった挙句に、と言うのが頻繁に繰り返され、それが多くのファンの怒りを買い、結果的に観客動員に大打撃を与えるという愚行を犯しまくった事が最近まで令和の新日本ではあったのだが、当時のムタへの怒りや失望感はこんなものではなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この1991年上半期は、まだプロレス中継を見れたり見れなかったりしていたため、はっきりと覚えている試合は少ない。しかし、さすがの私もテレビだけでは満足出来なくなっていたことから、本屋に週刊プロレスがあればそれを読み漁っていくようになっていた。その中で衝撃だったのが、1991年7月に札幌で行われたムタ・TNTVS馳・佐々木戦である。

 

ムタが木槌で馳の頭をいたぶるシーンが表紙となった週刊プロレスは大変なインパクトがあり、すぐさま手に取って夢中に読んだものである。この試合は、当時試合が滑りまくっていたムタが初めて覚醒した試合として今でもファンには有名な試合なのであるが、当時はリング上のキャラクターが素だと信じていた私にとって、あの絶対的なベビーフェイスである武藤敬司のこんな姿は大変な衝撃を受けたものである。

 

当然、この試合もテレビ中継されたはずなのであるが、あいにく私用がありちょうど中継を見る事は出来なかった。のちに毎週ビデオ録画する事になるが、まだこの時はそこまでする事はなかったのである。なので、しばらく私の中では雑誌でしか見る事が出来なかった幻の試合的なものだったのであるが、後年ムタのビデオを運よく中古屋で買った際、おおよそ10年越しぶりぐらいに映像で見る事が出来たものである。

 

映像で見たその試合も期待に違わず、10分程度の試合ながらも試合内容はほぼ完璧に等しく、今見ても十分面白いと言えるクオリティのものだった。また、この時限りのパートナーとなったTNTの動きも非常に良く、この後すぐに新興団体のウイングに移籍してしまうのがもったいないぐらいだった。まあ、一夜限りとなっただけに余計にこのタッグマッチは伝説化したのかも知れないが、もう少し新日本で見たかった外国人のひとりであった。

 

ただ、その感想は今になってこそであり、当時まだ何も知らない私にとってその悪党丸出しのムタは非常にショックだった。まだ当時の私にとって、武藤とムタと言うのは別人格であるという割り切りは出来なかったのである。なので、翌月に行われた武藤VS蝶野のG1クライマックス決勝は、自然と蝶野を応援していた。

 

この時のG1は、何戦かはテレビマッチだったはずだが、私が見たのは最終戦の蝶野VS橋本と、前述の決勝だけだったかと思う。会場の雰囲気も、当日2試合目だった蝶野を後押していているようにも見えた。この時点ではお互いがデビュー戦の相手だったという事も知らなかったのであるが、とにかく素晴らしい内容であり、当時の新日本としては異例とも言える30分近い激闘だった。と言うか、全日本ですらまだ30分以上の試合は稀だった時代である。まさに異例中の異例、間違いなく1991年のベストバウト候補のひとつであると思ったが、結果的に取ったのは年末の天龍VSホーガン戦だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の記事を作成した直後、すでに昨年に武藤の事を語っていた事に気付いたが、今更繰り返すのも面倒なので改めてこちらでまた語っていこうかと思う。と言う訳で、私が武藤敬司と言うレスラーを認識したのは、1990年の下半期以降だったという事である。なので、12月に浜松アリーナから生中継された特番も見ているのであるが、この時点ではまだ家族とチャンネルをシェアせざるを得ない環境だったため、タイガージェットシン戦はほとんど見ていない。

 

その後、高校で知り合った同じくプロレスファンの友人から、この時のビデオを借りてみる事が出来たものの、正直何故武藤の名前を売るチャンスであるゴールデンの中継で、こんな試合を組んでしまうのか不思議なぐらいの凡戦だった気がする。昔からの新日本の悪い癖として、普段の試合であれば神がかり的な大会もあるのに、ゴールデンと言うと余計に考えすぎたマッチメイクを組んでしまい、その結果凡戦となってしまう、と言うのがあるのだが、この大会もそれに当てはまってしまったかと思う。まあ、この時は確か裏番組で当時人気絶頂だった「ショーバイショーバイ」の特番などが放送されていた記憶があるので、相手が悪かった、と言うのもあるのだが。

 

そして、一気に話は翌年のスターケードin闘強導夢まで飛ぶが、この時は春休みと言う事もあって普通に午後4時からの放送を見ていた。この当時はもちろんまだ1時間枠であったが、最初に放映された試合が確かムタVSスティングだったかと思う。しかし、当然この時点ではムタの存在は知らず、一緒に観ていた姉も「カブキの真似じゃん」と言っていたものだ。と言う訳で、この試合が始めてみたムタの試合だったのであるが、当時は気付かなかったものの、見れば一目瞭然、この試合だけペイントの塗料が明らかに異なり、試合中にスティングの身体にそれが移りまくるのだ。

 

そのおかげで、当時の忍と炎の文字も滲みまくりとなったのだが、結局このペイントはこの一回だけで終わった。色々試行錯誤していただけかもしれないが、とりあえず本人もこの時のペイントは失敗だと思ったのだろう。さらに、試合も大して盛り上がらず、毒霧からのトップロープからのクロスボディで終わるという、スティングの格を守りつつカウント3、と言う結末だったのだが、当然当時のファンがこんなもので納得する訳がなく、試合後はブーイングの嵐だった。

 

と言うか、この時点では真面目な日本人にとって「毒霧イコール反則」であり、つまりまだ毒霧を使っただけでブーイングが飛んでいたような時代だったのだ。それがいつから歓声になったのかは定かではないが、記憶にある限りでは1993年頃だったかと思う。と言う訳で、この試合は凡戦に終わったのだが、スティングもアメリカではあれほどのスーパースターなのに、日本では何故か持ち味を全開出来ていなかったことも要因だったのかも知れない。

 

 

現時点であと4日後と迫った武藤敬司の引退試合。と言う訳で、今回からは私にとってのスーパーヒーローである武藤敬司について語っていこうかと思う。

 

武藤敬司のデビューは1984年の9月、と言う訳でなんと私がプロレスファンになった時にはすでに武藤敬司はデビューしていたという訳である。しかし、まだ私が初めて買ったプロレス本には掲載されておらず、翌年に初めて発売されたゴングのスーパーカタログでも新人の日本人は一切未掲載であったので、その時点では武藤のムの字も知らなかった。

 

しかし、武藤のテレビマッチデビューは当時の新人としては異例とも言える早さであり、翌1985年9月6日のトニー・セントクレア戦にて初めてブラウン管を通して武藤の試合が全国に放送された。この試合は新日本プロレスワールドでも視聴可能なのであるが、当時少しプロレス熱が落ちていた私は、この試合を見た記憶がない。と言うか、プロレスはまだテレビで見ていたのであるが、アメリカンプロレス寄りであった当時の私は、皆黒パンツだった新日本よりも、まだ外人天国に近かった当時の全日本の方に興味があったので、新日本の試合はほとんど記憶にないのである。

 

さすがに、9月の猪木VS藤波戦などは見ていたものの、それ以降の試合については覚えていないに等しい。旧UWFが帰ってきてからは尚更であり、当時の子供にUWFの関節技など理解出来るはずもなく、余計にプロレス離れを起こしてしまったのである。実際、人吉の旅館事件の際、武藤が前田に面と向かって「UWFが帰ってきても視聴率は上がらないしお客さんも戻らない」と言ったらしいが、少なくとも子供にとっては面白くなかったのは事実である。

 

と言う訳で、前振りが長くなったが、1980年代までは武藤敬司と言うレスラーの存在は全く知らなかったのである。なので、当然私が武藤の存在を認識したのは、1990年4月の凱旋帰国以降の話である。初めて見た試合は記憶にないが、当時土曜午後4時から放送されていたワールドプロレスリングを久々に見てみると、まだ猪木が牛耳っていた頃の新日本のカラーとはあまりにも異なっていた事にまず驚いた。

 

前述したように、当時は猪木を筆頭に、ほとんどの日本人レスラーが黒のショートタイツだった。それはそれで新日本の象徴的な面もあったのであるが、アメプロやルチャが好きだった私にとっては正直かなり地味目に映ったものである。そんなイメージだった新日本のリングに、新日としては派手な部類に入る色だった鮮やかなレッドのショートタイツにサポーター、そして白のシューズを履いたまだ20代のイケメンレスラーが、リングの上を縦横無尽に躍動していたのだ。そして、決め技はヘビー級ながらも弾丸が吹っ飛ぶかのような超高速のムーンサルトプレス。当時の子供のファンたちは、一目見ただけで武藤敬司に惹かれたのではないだろうか。まだ長州や藤波らが昭和の匂いを醸し出していた平成初期のリングにおいて、一人だけが異様な輝きを放っていたのだ。それが武藤敬司に抱いた最初の感想である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、無事に目標の数まで集まり、折り鶴兄弟が実際に橋本に折り鶴を手渡し、橋本は復帰を決意する。正直、この企画については何も知らないので、これ以上は何も語る事は出来ない。そして、当時まだ社長に就任していた藤波が復帰戦となるのであるが、その後何のゴタゴタがあったか、橋本は「新日本内での独立」を画策する。これがのちのゼロワンとなるのであるが、この辺りになると私もプロレスよりもPRIDEの方にハマっていってしまい、一体何があったのか全く良く分からなかったのだ。

 

ただ、この年の5月に三沢光晴らが全日本から独立、8月には早くもノアを旗揚げし、団体間の垣根が前よりも大分下がった事は確かである。その流れの中で、橋本と三沢らノア勢との試合が実現した訳なのであるが、あくまでタッグマッチのみであり、橋本と三沢、小橋のシングルマッチが実現する事は最後までなかった。

 

そして、運命の2005年7月11日がやってくる。この日は母親からの一報で橋本の死を知ったのであるが、当然の事ながら信じられない気持ちだった。馬場の時ももちろんショックだったのだが、さすがに橋本はこの時点で40歳になったばかりであり、それ以上のショックを受けたものである。訃報が入ったのが午前中だったので、夜のニュースでは関係者らのインタビュー映像がすでに流れていた。

 

もちろん、テレ朝ではすでにNステではなく、古舘伊知郎司会の報道ステーションの時代であったから、この訃報もしっかりと番組内で伝えられ、実際に古舘伊知郎が実況した1987年のヤングライオン杯の決勝の映像まで流れたものである。

 

そして、すぐに橋本のお通夜と告別式の日程も発表されたが、横浜で行われるとの事だったので、私も横浜駅から京急に乗って葬儀場へと赴いた。正直、それまで有名人のお葬式、つまりは身内や友人でもない人の葬式に向かう人たちの感情が全く理解出来なかったのであるが、そんな自分が初めて自分とは直接無関係な人の告別式へと訪れた訳である。だからと言って、正直生前は橋本の大ファンと言う訳でもなかったし、もっと言えば普通のファンでもなかった。

 

自分はあくまで武藤敬司や船木誠勝のファンであって、橋本真也のファンでは決してなかったのである。それどころか、前にも触れたように、1994年の王者時代は憎いヒールと言った感じで、正直大方のファンと同様、私も常に挑戦者側を応援していたものである。そのぐらい橋本は特に応援する気にはなれなかった。

 

そんな自分が、橋本の死で大変な衝撃を受け、告別式にまで向かったのである。皮肉にも、死んでから改めてどれだけ思春期に橋本、そして三銃士の存在が影響を与えてきてくれたのかが実感出来たものだ。

 

この日は炎天下ではなかったものの、それでも狭い葬儀所に大変な行列ができ、出棺まで実に2時間ほど並んだものである。当然、当時はスマホなどなかったので、ただひたすら並ぶだけだった。そして、出棺の直前には赤い紙テープが配られ、幸運にも出棺場所の真後ろ辺りに位置する事が出来た。目の前には初めて間近で見る前田日明の姿もあったが、あまりのオーラに圧倒され声も出なかったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして、運命の2000年4月7日金曜日を迎える。2時間枠の特番だったので、当然他の試合も生中継で放送されたが、飯塚VS村上以外の試合は特にテーマもなく、淡々と進んでいくだけのものだった。そして21時過ぎにメインが始まったが、まあプロレス的な展開を考えたらさすがにここで橋本が勝つだろう、と思うのが普通である。「負けたら引退」と言う煽りまで入れるぐらいだったから尚更の事だ。

 

正直、私もここで橋本が勝つだろう、とも思っていたが、小川が負けるというのも考えづらかったので、予想は全く出来なかった。そして、結果はご存じのように、大方のプロレス的展開を裏切る橋本のKO負け。橋本がSTOをDDTで返した時などは最高に盛り上がり、ここで行けるのかなと思いきやSTOの連発であっさりと返されるのだから、小川の完璧な強さに舌を巻いたものである。

 

ソースがあやふやなので確定は出来ないが、私が知る限りの話では当初は橋本が勝つ予定だったという。しかし、世間にプロレスを甘く見られたくない猪木としてはそうはいかせず、このような結末になったらしい。確かに、それは旗揚げ戦でゴッチにフォール負けし、そして第1回IWGP決勝でまさかの失神KO負けを演じた猪木ならではの発想である事はよくわかる。実際、直後の週刊プロレスには「橋本が勝つと八百長だと思われるからこれでよかった」と言うファンの声も掲載されていたと思う。

 

ただ、まだプロレスの真実を知らなかった私にとって、その結果はただひたすら悔しかったの一言だった。確かに、橋本が負ける事によって、真剣味が出た事も間違いなく、プロレスを色眼鏡で見る一般人に凄さを見せつける事が出来たのも間違いない。ゴールデン生中継だから尚更の事だ。それでも、橋本が負けた事は本当に悔しかった。

 

当然、気になるのは視聴率であるが、平均で15.7%、瞬間最高で24.1を記録したと新聞で見た記憶がある。橋本VS小川戦に限ればほぼ20以上をキープしていたらしいから、当時のプロレス人気を考えれば驚異的な視聴率と言えた。しかし、逆に言えばそれ以外の試合は世間の興味を引けなかった事とも言える。まあ、正直試合自体もつまらないものが多かったので、やむを得ない部分もあるのであるが、世間には純粋なプロレスを見て魅力に気付いてもらいたい、と言う気持ちが強かったので、この結果は少し残念と言えた。

 

そして、橋本は引退と言う形となってしまったが、当然そんな訳にはいかず、復帰させるためにテレ朝はまさかの展開を仕掛ける。もちろん、折り鶴兄弟の事である。おそらくググれば出てくるとは思うのだが、当時リングの魂が終了したばかりの南原氏が、テレ朝で割と真面目なスポーツの番組をやっており、その中のいちコーナーにおいて橋本を復帰させるために折り鶴を送る、と言うのがあったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2000年のイッテンヨンでは、橋本と飯塚が組み、小川と村上が組んでのタッグマッチが実現した。この時、一応立会人と言う立場で猪木が登場したのであるが、「道はどんなに険しくとも、笑いながら歩こうぜ」の名言を発したのが実はこの時である。試合は一旦ノーコンテストみたいな決着になったと思うが、それを不服とした橋本と飯塚が再戦を希望し、そのまま再戦となった。試合は沸きに沸き、最後は飯塚が村上を背後からスリーパーホールに極めて勝利した。

 

この時は、背後に回り込んだ飯塚がスリーパーに極め、村上がタップ出来ずに落ちた所で決着となったのであるが、この時の村上の落ち方が見事でこの瞬間だけでもプロレスファンの溜飲が下がったものである。そして、4月には引退を賭けた再戦が決まるが、これがあの有名な、もはや伝説とも言える「橋本真也34歳、負けたら引退スペシャル」である。

 

この時点でまだ34歳、つまりは今のオカダよりも若いと思うと、まだまだ随分と若い時だったのだな、と思い知らされる。そして、再び前哨戦的なものとして、3月に行われたメモリアル力道山2のメインにおいてもタッグマッチで対戦した。しかし、この時はちょうど橋本が会場入りする際、村上が遅い流血しながら会場入りするという事件が発生し、血が止まらない橋本は赤く染まったタオルを巻いて入場してきた。

 

当然、ほとんどのファンはそんな事知る由もなかったので、なんと試合前にご丁寧に「小川ー!何故村上に俺を襲わせた!」とマイクアピールをしたのだ。もちろん、会場入りの際にはクロネコ氏も一緒に居たので、もちろんプロレス的な流血であったのだが、さすがにこれはいくらなんでも茶番過ぎるのではないか、と思ったものだ。因みに、この大会は猪木と滝沢氏がエキシビジョンマッチを行った日でもあり、この試合と数試合を収めたビデオCD(DVDにあらず)がダイソーで販売され、ノー地上波であったにも関わらず結構な人が見たのではないかと思う。

 

そして、自分が忘れていたので時系列が前後してしまうが、その10日前にはなんと笑っていいとものテレフォンショッキングにまで出演。誰の紹介だかは全く覚えてないが、ググったらパンチ佐藤だったという。どういう繋がりなのかは不明であるが、実は橋本の出演と言うのは1989年以来、猪木に紹介されて以来の2回目の事である。しかし、まるで無名だった当時とは異なり、この時は小川との再戦もかなり話題になっており、前回触れたように一般的知名度も大きく上がっていた頃であったので、若い女性客ばかりの会場でもそれなりに反応が大きかったものである。それは素直に嬉しかったものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、雑誌を読んでいなかった私は状況が呑み込めなかったので、久々に凄い乱闘を見たな、以上の感想は思い浮かばなかった。そして、その月末にはジャイアント馬場が急死する。発表されたのは2月1日の事であったが、この時は馬場の病状などは一切伏せられていたため、自分はもちろんの事、日本中に大変な衝撃が走ったものである。そして、この馬場の急死により全日本も大きく揺れ動く事になり、のちの橋本の運命にも関わっていく事になるのである。

 

まあ、もちろんその時はそんな事は知る由もないのだが、小川はひとまずUFO、そして遂にPRIDE参戦を果たしたため、しばらく橋本との関りはなくなっていく。しかし、猪木の強権により藤波辰爾が社長に就任すると、猪木のイエスマンである藤波はあっさりとUFOとの関係を復活させ、そして10月11日のドームの目玉として橋本VS小川の再戦が組まれるのだ。

 

この2人の因縁はプロレスファン以外からも関心を集め、その最たるものは何と言っても当日夜にあの「ニュースステーション」がなんと20分近くもの枠を割いて特集をしたのである。当時は月曜日でプロ野球がなかった事、そして何と言っても久米宏が夏季休暇中であった事が何よりの要因である。当時は契約問題で揺れていた事もあり、久米宏への当てつけ的かとも思ったものだったが、この件によりテレ朝は決してプロレスを軽視している訳ではなく、あくまで久米宏が居たからNステでプロレスを扱う事が出来なかった、と言う事を改めて我々は理解したのだ。

 

と言う訳で、これは大袈裟ではなく歴史的な事件とも言えたのであるが、このNステの報道は非常に良く出来ており、ご丁寧にも試合前までの煽りまでもが上手くまとめられ、初見であってもそこに行きつくまでの流れが理解出来たものである。

 

そして、角澤アナのリポートにより、速報で伝えられたのであるが、当然の事ながらプロレスの枠内に終始した。この試合、最後はSTOを喰らった橋本がかなりグロッキーになり、ほとんど試合が成立しない所まで行った所、突然猪木が小川にパンチを喰らわせて小川のTKO勝利と言う結末を迎えたのであるが、本放送もあるせいかそこまでは描写されず、橋本がダメージを負っている場面にTKO負け、と言う説明に終わった。

 

その週末には当然ワールドプロレスリングで放映されたのだが、この時点では結構深い時間であったため、確かのちの「リングの魂」における南原氏と勝俣氏の「リンたま観戦ツアー」の方が早い時間帯であったため、深夜ながら7パーセント台と言う驚異的な視聴率を記録したのだ。このおかげで、かなり一般層にまでこの2人の抗争は話題となり、同時に橋本の一般的知名度も飛躍的に向上し、現役プロレスラーでは最も知名度の高い一人とまでなったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ最近、遂にSIEがPS5安定供給宣言を行い、その通りにドン・キホーテやゲオなどでも抽選なしでの購入が容易に可能になり、そしてさらには遂にヨドバシ・ドット・コムからですら普通に買えるようになった。まあ、人間と言うのは現金なもので、容易に入手が可能となるととたんに欲しくなくなってしまうものだが、まあとにかく転売ヤーが肥やしに出来なくなった事に関しては非常にめでたい話である。

 

ただ、相変わらず在庫があっても金がなく買えないひがみなのか、ネットでは暴言が目立つ。正直、素直に在庫が安定して良かったね、と言えないものなのか、と毎回思ってしまうのだが、批判する事がカッコいいとでも思っているのだろうか。いずれにしても可哀想な人たちである事には間違いはないが、当然そんな連中の声などは単なるやっかみか単なるアンチなので、真に受ける必要は決してない。

 

と言う訳で、長年PS4を中心にプレイしてきたユーザーであるなら、再び在庫が枯渇する前にとっとと乗り換えるべきである。確かに6万は高いが、ディスクが不要であればDEで5万円で買う事が出来るし、両方持っている私としても、DLでしか買わなくなった今となっては後者で十分満足している。むしろ、ディスクドライブが壊れて動かなくなるというリスクがないだけ、DEの方が安心感すらあるというものだ。

 

アンチの言い分のひとつとして、「やるゲームがない」といかにもなものがあるが、それは当人が知らないだけの話であって、ゲーマーであれば必ず自分向きのゲームがあるはずである。PS4からの膨大な遺産を考えたらない訳がない。まあ、確かにPS5版の方が若干割高であり、さらにはディスカウントの機会も多くはない感もあるので、PS4版で十分と考えるならあえてPS5版を買う事もないのは確かかも知れない。

 

しかし、最近はPS5版のラインナップも充実してきたし、それに特化したソフトであればPS4版との差は歴然である。HD相当の画質で60FPSをキープする事は、すでにPS4では無理に等しいからだ。そして、PS4版であっても、PS5で走らせると画質の向上や、60FPSで動くゲームもかなりある。PS4Proでも60FPSは無理と言う事がほとんどだったので、正直これだけでも買う価値はあると言っていいぐらいだ。これを体験してしまうとPS4にはもう戻れないだろう。

 

そして、アンチのもうひとつの言い分として、「PS5買うぐらいならゲーミングPCを買う方がマシ」と言うのがあるが、正直円安の今、エントリーモデルですら15万はくだらない。当然、デスクトップの場合はモニターはもちろんマウスもキーボードもケーブル類も別売りなので、まともな環境を揃えるとしたら最低でも20万は費やす羽目になる。

 

そして、当然ではあるが、全てのPS5ゲームがPCで走る訳はもちろんない。需要は多くはないかもしれないが、アーケードアーカイブスなどは未だにコンソールだけである。そして、今ではSwitch版もあるのでPS4独占ではないとは言え、Switch版は遅延が多い事で有名であり、まともにプレイをするにはPS4版オンリーと言うのが今では常識である。

 

もちろん、PCの方がゲーム機よりも遥かに色々な事が出来るとは言え、本当に「ゲームだけ」が目当てなのであれば、完全にオーバースペックである。しかも、私もゲーム目当てでゲーミングPCを買ったとは言っても、結局PCでゲームとなると色々煩わしく感じてしまい、すぐにやらなくなってしまった。つまり、ヘビーユーザーでもなければ、ゲームだけをプレイするのであればゲーム専用機の方が遥かに楽だったという訳である。まあ、Windowsを持っていなければ買っても良いとは思うのだが、正直今の時代、動画編集など重い作業などをしなければノートPCで十分、下手すらスマホでも、と言う時代である。

 

と言う訳で、PS5が欲しいけど買うか迷っている人たちは、そんなアンチの声に惑わされずに買えるうちに買ってほしい。絶対に満足出来るはずである。