武藤敬司について語る・その1 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

現時点であと4日後と迫った武藤敬司の引退試合。と言う訳で、今回からは私にとってのスーパーヒーローである武藤敬司について語っていこうかと思う。

 

武藤敬司のデビューは1984年の9月、と言う訳でなんと私がプロレスファンになった時にはすでに武藤敬司はデビューしていたという訳である。しかし、まだ私が初めて買ったプロレス本には掲載されておらず、翌年に初めて発売されたゴングのスーパーカタログでも新人の日本人は一切未掲載であったので、その時点では武藤のムの字も知らなかった。

 

しかし、武藤のテレビマッチデビューは当時の新人としては異例とも言える早さであり、翌1985年9月6日のトニー・セントクレア戦にて初めてブラウン管を通して武藤の試合が全国に放送された。この試合は新日本プロレスワールドでも視聴可能なのであるが、当時少しプロレス熱が落ちていた私は、この試合を見た記憶がない。と言うか、プロレスはまだテレビで見ていたのであるが、アメリカンプロレス寄りであった当時の私は、皆黒パンツだった新日本よりも、まだ外人天国に近かった当時の全日本の方に興味があったので、新日本の試合はほとんど記憶にないのである。

 

さすがに、9月の猪木VS藤波戦などは見ていたものの、それ以降の試合については覚えていないに等しい。旧UWFが帰ってきてからは尚更であり、当時の子供にUWFの関節技など理解出来るはずもなく、余計にプロレス離れを起こしてしまったのである。実際、人吉の旅館事件の際、武藤が前田に面と向かって「UWFが帰ってきても視聴率は上がらないしお客さんも戻らない」と言ったらしいが、少なくとも子供にとっては面白くなかったのは事実である。

 

と言う訳で、前振りが長くなったが、1980年代までは武藤敬司と言うレスラーの存在は全く知らなかったのである。なので、当然私が武藤の存在を認識したのは、1990年4月の凱旋帰国以降の話である。初めて見た試合は記憶にないが、当時土曜午後4時から放送されていたワールドプロレスリングを久々に見てみると、まだ猪木が牛耳っていた頃の新日本のカラーとはあまりにも異なっていた事にまず驚いた。

 

前述したように、当時は猪木を筆頭に、ほとんどの日本人レスラーが黒のショートタイツだった。それはそれで新日本の象徴的な面もあったのであるが、アメプロやルチャが好きだった私にとっては正直かなり地味目に映ったものである。そんなイメージだった新日本のリングに、新日としては派手な部類に入る色だった鮮やかなレッドのショートタイツにサポーター、そして白のシューズを履いたまだ20代のイケメンレスラーが、リングの上を縦横無尽に躍動していたのだ。そして、決め技はヘビー級ながらも弾丸が吹っ飛ぶかのような超高速のムーンサルトプレス。当時の子供のファンたちは、一目見ただけで武藤敬司に惹かれたのではないだろうか。まだ長州や藤波らが昭和の匂いを醸し出していた平成初期のリングにおいて、一人だけが異様な輝きを放っていたのだ。それが武藤敬司に抱いた最初の感想である。