そして、無事に目標の数まで集まり、折り鶴兄弟が実際に橋本に折り鶴を手渡し、橋本は復帰を決意する。正直、この企画については何も知らないので、これ以上は何も語る事は出来ない。そして、当時まだ社長に就任していた藤波が復帰戦となるのであるが、その後何のゴタゴタがあったか、橋本は「新日本内での独立」を画策する。これがのちのゼロワンとなるのであるが、この辺りになると私もプロレスよりもPRIDEの方にハマっていってしまい、一体何があったのか全く良く分からなかったのだ。
ただ、この年の5月に三沢光晴らが全日本から独立、8月には早くもノアを旗揚げし、団体間の垣根が前よりも大分下がった事は確かである。その流れの中で、橋本と三沢らノア勢との試合が実現した訳なのであるが、あくまでタッグマッチのみであり、橋本と三沢、小橋のシングルマッチが実現する事は最後までなかった。
そして、運命の2005年7月11日がやってくる。この日は母親からの一報で橋本の死を知ったのであるが、当然の事ながら信じられない気持ちだった。馬場の時ももちろんショックだったのだが、さすがに橋本はこの時点で40歳になったばかりであり、それ以上のショックを受けたものである。訃報が入ったのが午前中だったので、夜のニュースでは関係者らのインタビュー映像がすでに流れていた。
もちろん、テレ朝ではすでにNステではなく、古舘伊知郎司会の報道ステーションの時代であったから、この訃報もしっかりと番組内で伝えられ、実際に古舘伊知郎が実況した1987年のヤングライオン杯の決勝の映像まで流れたものである。
そして、すぐに橋本のお通夜と告別式の日程も発表されたが、横浜で行われるとの事だったので、私も横浜駅から京急に乗って葬儀場へと赴いた。正直、それまで有名人のお葬式、つまりは身内や友人でもない人の葬式に向かう人たちの感情が全く理解出来なかったのであるが、そんな自分が初めて自分とは直接無関係な人の告別式へと訪れた訳である。だからと言って、正直生前は橋本の大ファンと言う訳でもなかったし、もっと言えば普通のファンでもなかった。
自分はあくまで武藤敬司や船木誠勝のファンであって、橋本真也のファンでは決してなかったのである。それどころか、前にも触れたように、1994年の王者時代は憎いヒールと言った感じで、正直大方のファンと同様、私も常に挑戦者側を応援していたものである。そのぐらい橋本は特に応援する気にはなれなかった。
そんな自分が、橋本の死で大変な衝撃を受け、告別式にまで向かったのである。皮肉にも、死んでから改めてどれだけ思春期に橋本、そして三銃士の存在が影響を与えてきてくれたのかが実感出来たものだ。
この日は炎天下ではなかったものの、それでも狭い葬儀所に大変な行列ができ、出棺まで実に2時間ほど並んだものである。当然、当時はスマホなどなかったので、ただひたすら並ぶだけだった。そして、出棺の直前には赤い紙テープが配られ、幸運にも出棺場所の真後ろ辺りに位置する事が出来た。目の前には初めて間近で見る前田日明の姿もあったが、あまりのオーラに圧倒され声も出なかったものである。