武藤敬司について語る・その2 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

前回の記事を作成した直後、すでに昨年に武藤の事を語っていた事に気付いたが、今更繰り返すのも面倒なので改めてこちらでまた語っていこうかと思う。と言う訳で、私が武藤敬司と言うレスラーを認識したのは、1990年の下半期以降だったという事である。なので、12月に浜松アリーナから生中継された特番も見ているのであるが、この時点ではまだ家族とチャンネルをシェアせざるを得ない環境だったため、タイガージェットシン戦はほとんど見ていない。

 

その後、高校で知り合った同じくプロレスファンの友人から、この時のビデオを借りてみる事が出来たものの、正直何故武藤の名前を売るチャンスであるゴールデンの中継で、こんな試合を組んでしまうのか不思議なぐらいの凡戦だった気がする。昔からの新日本の悪い癖として、普段の試合であれば神がかり的な大会もあるのに、ゴールデンと言うと余計に考えすぎたマッチメイクを組んでしまい、その結果凡戦となってしまう、と言うのがあるのだが、この大会もそれに当てはまってしまったかと思う。まあ、この時は確か裏番組で当時人気絶頂だった「ショーバイショーバイ」の特番などが放送されていた記憶があるので、相手が悪かった、と言うのもあるのだが。

 

そして、一気に話は翌年のスターケードin闘強導夢まで飛ぶが、この時は春休みと言う事もあって普通に午後4時からの放送を見ていた。この当時はもちろんまだ1時間枠であったが、最初に放映された試合が確かムタVSスティングだったかと思う。しかし、当然この時点ではムタの存在は知らず、一緒に観ていた姉も「カブキの真似じゃん」と言っていたものだ。と言う訳で、この試合が始めてみたムタの試合だったのであるが、当時は気付かなかったものの、見れば一目瞭然、この試合だけペイントの塗料が明らかに異なり、試合中にスティングの身体にそれが移りまくるのだ。

 

そのおかげで、当時の忍と炎の文字も滲みまくりとなったのだが、結局このペイントはこの一回だけで終わった。色々試行錯誤していただけかもしれないが、とりあえず本人もこの時のペイントは失敗だと思ったのだろう。さらに、試合も大して盛り上がらず、毒霧からのトップロープからのクロスボディで終わるという、スティングの格を守りつつカウント3、と言う結末だったのだが、当然当時のファンがこんなもので納得する訳がなく、試合後はブーイングの嵐だった。

 

と言うか、この時点では真面目な日本人にとって「毒霧イコール反則」であり、つまりまだ毒霧を使っただけでブーイングが飛んでいたような時代だったのだ。それがいつから歓声になったのかは定かではないが、記憶にある限りでは1993年頃だったかと思う。と言う訳で、この試合は凡戦に終わったのだが、スティングもアメリカではあれほどのスーパースターなのに、日本では何故か持ち味を全開出来ていなかったことも要因だったのかも知れない。