この1991年上半期は、まだプロレス中継を見れたり見れなかったりしていたため、はっきりと覚えている試合は少ない。しかし、さすがの私もテレビだけでは満足出来なくなっていたことから、本屋に週刊プロレスがあればそれを読み漁っていくようになっていた。その中で衝撃だったのが、1991年7月に札幌で行われたムタ・TNTVS馳・佐々木戦である。
ムタが木槌で馳の頭をいたぶるシーンが表紙となった週刊プロレスは大変なインパクトがあり、すぐさま手に取って夢中に読んだものである。この試合は、当時試合が滑りまくっていたムタが初めて覚醒した試合として今でもファンには有名な試合なのであるが、当時はリング上のキャラクターが素だと信じていた私にとって、あの絶対的なベビーフェイスである武藤敬司のこんな姿は大変な衝撃を受けたものである。
当然、この試合もテレビ中継されたはずなのであるが、あいにく私用がありちょうど中継を見る事は出来なかった。のちに毎週ビデオ録画する事になるが、まだこの時はそこまでする事はなかったのである。なので、しばらく私の中では雑誌でしか見る事が出来なかった幻の試合的なものだったのであるが、後年ムタのビデオを運よく中古屋で買った際、おおよそ10年越しぶりぐらいに映像で見る事が出来たものである。
映像で見たその試合も期待に違わず、10分程度の試合ながらも試合内容はほぼ完璧に等しく、今見ても十分面白いと言えるクオリティのものだった。また、この時限りのパートナーとなったTNTの動きも非常に良く、この後すぐに新興団体のウイングに移籍してしまうのがもったいないぐらいだった。まあ、一夜限りとなっただけに余計にこのタッグマッチは伝説化したのかも知れないが、もう少し新日本で見たかった外国人のひとりであった。
ただ、その感想は今になってこそであり、当時まだ何も知らない私にとってその悪党丸出しのムタは非常にショックだった。まだ当時の私にとって、武藤とムタと言うのは別人格であるという割り切りは出来なかったのである。なので、翌月に行われた武藤VS蝶野のG1クライマックス決勝は、自然と蝶野を応援していた。
この時のG1は、何戦かはテレビマッチだったはずだが、私が見たのは最終戦の蝶野VS橋本と、前述の決勝だけだったかと思う。会場の雰囲気も、当日2試合目だった蝶野を後押していているようにも見えた。この時点ではお互いがデビュー戦の相手だったという事も知らなかったのであるが、とにかく素晴らしい内容であり、当時の新日本としては異例とも言える30分近い激闘だった。と言うか、全日本ですらまだ30分以上の試合は稀だった時代である。まさに異例中の異例、間違いなく1991年のベストバウト候補のひとつであると思ったが、結果的に取ったのは年末の天龍VSホーガン戦だった。