しかし2023年の今、当時のプロレスファンが、1991年のベストバウトと聞いて、天龍VSホーガンを選ぶ人など皆無のはずである。全ての人に思い出として残っているであろう試合は、1991年4月18日の鶴田VS三沢と、そしてこのG1決勝である武藤VS蝶野の2つであるはずだ。このように、最高権威であるはずの東スポプロレス大賞は、たまにベストバウトに万人が納得いかない試合を挙げる事がままあるのであるが、1988年と並んで1991年もその代表的な例だろう。
そしてその直後、新日本はこれも異例とも言えるよみうりランドでの興行を行う。そのメインが、究極ヒール対決とも銘打たれたムタVSマシン戦だ。まあ、一応当時マシンはヒールユニットだったブロンド・アウトローズの一員ではあったのだが、ファイトスタイルは特に露骨なヒール寄りではなかったかとは思う。と言う訳で、試合は札幌で覚醒したムタがこれまた悪党全開のファイトとなり、最後は当時としてはすでに時代遅れともされたマスク剥ぎでの反則決着と言う、お互いのキャラとマシンの格を守った結末となった。
今では考えられない結末だが、当時の新日本は勢いもあったのか、まだ稀にメインですらこのような不透明決着は珍しくもなかったのだ。そして、他の目玉と言えば、マシンの緑色コスチュームに合わせたか、ムタが日本初披露となる緑色をベースとしたペイントをしてきた事だった。カエルみたい、と揶揄されたせいか、この色はおそらくこの1回限りではなかったかと思うが、緑色と言うのはなかなか毒々しく、またいつも以上に表情も読み取り辛く、ヒールのイメージに合っていたかと思う。
そして、翌月の横アリ大会では、前年のリッキー・スティムボート戦に続いて2年連続となるムタでの登場となり、まだ世代交代がテーマだった時代の藤波戦だった。この当時の大会場のムタの入場はかなり凝る事が多く、この大会ではなんと引田天功本人まで現れるというマジックショーさながらの演出だった。まあ、ムタの入場はご存じのように忍者マスクをしている訳で、今見るとたわいのないものであるが、それでも結構驚いたものである。
試合はこちらも横アリのメインとは思えないぐらいの凡戦であり、毒霧レフェリー誤爆から幻のスリーカウント、そして急所打ちからムーンサルトでフォールと言う、古典的な反則アングルバリバリの結末であった。まあ、まだ三銃士の誰もがIWGP王者になっていない当時、藤波の格を守る上でのムタの勝利、と言う面もあったとは言え、さすがに横アリのメインがこれではファンを馬鹿にしているにもほどがあるというものである。
今でもオカダがフォール負けをする際、その格を守るためにEVILやKENTAを筆頭とするバレットクラブの連中が、茶番全開の反則をしまくった挙句に、と言うのが頻繁に繰り返され、それが多くのファンの怒りを買い、結果的に観客動員に大打撃を与えるという愚行を犯しまくった事が最近まで令和の新日本ではあったのだが、当時のムタへの怒りや失望感はこんなものではなかったのだ。