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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

1998年後半のワールドプロレスリングの主役は完全に大仁田厚だった。新日本のレスラーたちは気分が悪かっただろうが、実際に知名度抜群の大仁田厚が出ると視聴率が一気に高くなったらしいから、テレビ的にもプッシュするのは当然である。そして、その流れの中で1.4での佐々木健介戦が決まり、当然それが大会での最大の目玉だった。

 

この日は確か夜12時半ぐらいから当日録画放送がされていたかと思うが、当然のようにつかみは大仁田と健介の試合だった。で、私はそれ以外のカードは知らなかったので、まさかここで今更感満載の橋本VS小川戦が行われるなど予想だにしなかったのである。おそらくほとんどのファンが同じような気持であったかと思うが、入場してきた小川を見てびっくり、余分な脂肪が完全に取り除かれ、黒タイツとレガースをつけた精悍なその姿は完全にファイターそのものだったのだ。

 

そんなカッコいい小川に対して、橋本の相変わらずなボテってとしたその姿には少なからず失望させられた。そして、そんな橋本の入場中にまさかのマイクアピールを犯す。これは実況の辻よしなり氏も触れているが、プロレスラー最高の見せ場である入場にまさかのマイクアピールと言うのはご法度そのものである。この時点で、多くの人たちが不穏な空気を感じた事は間違いない。

 

試合自体は今更触れるまでもないかも知れないが、正直何も知らずに当時見ていた者の感想としては、小川の方が明らかに強そうに見えるのだから、橋本が無様にやられてしまうのは当然だと思ってみていた。つまり、まだ当時のファンと言うのは、単純に強い人間が勝つもの、と信じ込んでいたという事である。ただ、それでもさすがにパンチがプロレスにしてはモロに入っているな、とも思っていたし、直後の顔面蹴りにしてもそうである。

 

プロレスの歴史上でも屈指のマイクアピールかも知れない「目を覚ましてください!」と言うのも、強いのは橋本ではなく俺なんだよ、と言ってるようにしか見えなかったし、実際にそれはそうなのだから納得せざるを得なかった。なので、この時の素直な感情としてはプロレスラーが負けて悔しいという気持ちはほとんどなく、逆に自身の強さを自ら証明して見せた小川カッコいい、と言う感想の方が強かったのである。

 

そして、試合以上に注目されたかも知れないのが、日本プロレス史上最大級となったであろう世紀の大乱闘である。しかし、小川はこうなる事をある程度想定していたか、あらかじめジェラルド・ゴルドーを引き連れており、さすがにゴルドーがいる間は新日本のレスラーも手を出せなかった。これに関しては情けない、との声もあるが、ゴルドーはあくまで用心棒的な役割で試合には一切関与していないので、ゴルドーをボコる大義名分もなかったのでこれも当然である。

 

しかし、ゴルドーがヤバい奴と言うのも事実なので、手を出したくても出せなかったのも事実だろう。その証拠に、ゴルドーが引っ込んでからはタガが外れたようにUFOの連中に襲い掛かり、特に村上は瀕死の重傷を負ってしまう。

 

この試合は特番でも流されたが、のちの通常枠では完全ノーカットで放映され、久々に見るプロレスの事件に何度も録画したテープを見返していったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かくして橋本VS小川の初対決となった訳だが、ここで橋本はまさかの負けを喫する。プロレス的な展開として、まずは敵である小川に勝たせてからその後の展開を考えていく、と言うのはごく普通なのであるが、まだミスター高橋本発売4年前の当時としてはまだまだ純粋にプロレスを見るファンばかりであったので、ひたすら悔しかったものである。因みに、余談ではあるのだがこの時も1.4に続いて、当時タレントとしてメディアに出始めたテリー伊藤氏の姿をリングサイドで見る事が出来る。

 

ただ、ご存じのように、小川直也が自身の映像を上げる事を拒否しているので、今では個人で録画しているテープでしか見る事が出来ないのだ。そして、この時の試合も確か日曜の午後14時ぐらいから放映され、10パーセントを超える視聴率を記録した。しかし、それだけ橋本の敗北が世間に広く伝わってしまった事もあるので、複雑な気持ちだったのは確かだ。

 

ミスター高橋氏によれば、負けをのまざるを得なかった橋本は試合前までも納得の行かない様子だったらしいのだが、試合後からもその感情は伺う事が出来る。さすがの新日本もすぐにイーブンにしてあげたかったのか、わずか1ヵ月後に大阪ドームで行われた再戦で、橋本はリベンジを果たす。しかし、この時のフィニッシャーが、有名なほぼ死角からの側頭部蹴りである。レガースをつけていない橋本の蹴りがかなりマジで決まり、実際に小川はプロレスの域を超えたダメージを喰らったはずである。これで1対1となり、一旦は2人の対決はこれで決着がついたように見えた。

 

で、今結果を見直して知ったのだが、2戦目は実はIWGP王座が賭けられていたのだ。もちろん、小川が勝つ事はないとは言っても、プロレスキャリアゼロに等しい小川相手にいきなりベルトを賭けるのはどうなのか、とも思ってしまう。

 

その年の10月11日、プロレスの威信を賭けた戦いで高田がヒクソンに完全に敗北し、世の中の潮流はプロレスからMMAへと向かっていく。私も自然とその流れに乗っていく形となっていったので、まだ週刊プロレスは読んでいても、次第にプロレスを楽しめなくなっていき、同時にプロレスラーの強さに対しても疑問符が付くようになってしまう。

 

なので、翌年になるととうとう週プロを買うのも止めてしまったので、ワールドプロレスリングのみが頼りとなっていった。なので、記憶にあると言えば1998年のG1で、遂に橋本がG1を制覇した事ぐらいである。しかし、この時の相手が山崎一夫であり、どう考えてもここで優勝するような格でもなかったので、なんだか橋本に勝たすための相手を用意してあげた、みたいな感じを受けてしまったので、「これじゃどうせ橋本勝つよね」と最初から冷めた目で見てしまっていたかと思う。

 

そして、まさかの大仁田厚招聘を挟んで、遂にあの1.4事変を迎えるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高田戦以降、UWFインターとの対抗戦も落ち着いていくので、新日本はインディーとの対抗戦に活路を見出そうとしていく。しかし、新日本のかませ犬になる事を嫌ったか、主力であるターザン後藤や松永光弘らが参戦拒否を示したため、新日本の思惑通りとはならなかった。

 

その結果、1997.1.4はカード編成にかなり苦しんだ様子が伺え、挙句の果てに猪木の相手にウイリー・ウイリアムスまで引っ張り出した事からもそれは伺える。しかも、この時は決め技限定マッチと言う意味不明なルールの試合となり、猪木の試合としては大凡戦に終わってしまった。

 

そんな中でも、大日本から参戦した田尻が大谷を相手に大善戦し、一気に注目を浴びるなどの収穫はあった。そんな大会のメインを締めたのが、橋本と長州である。さすがに時代を引き戻す事はなく、おそらく橋本が初めて長州に決めた垂直落下式DDTで完璧に決着がついた。

 

この試合は、橋本が長州のラリアットを何発も喰らっても倒れないなど、かなり見どころのあった試合であったが、それが一般視聴者をも引き付けたか、夕方の特番として放映されたこの大会は、この試合で瞬間最高17パーセントを記録したのだ。当然、この時間帯でもトップクラスであり、平均でも11パーセントを超え、箱根駅伝以外の正月スポーツ中継としても十分及第点な数字だったのである。

 

ネット黎明期の時代、テレビの影響は非常に大きく、これ以降観客動員数が目に見えてアップしていったと言う。それまでも、橋本は自らの知名度を上げようと様々なバラエティに出演していったのだが、この辺りから改めて「プロレスラー」としての橋本真也の認知度を確実にしていったかと思う。そういう部分から、この大会の意義は非常に大きいものがあった。

 

そして、前年に引き続き4月のドームが発表されるのだが、この時の目玉はパンクラスを離脱していたウェイン・シャムロックになる予定だった。しかし、WWEと天秤にかけていたシャムロックはあっさりとWWEに寝返り、そのままモーストデインジャラスマンとしてWWEに定着する。これに関して田中ケロ氏が文句を言っていたが、良い条件を出した方に行くのはプロとして当然なのでシャムロックは至極妥当な選択をしただけの話だろう。

 

その結果、橋本の相手は「プロ格闘家」を名乗った小川直也へと急転直下する。まさにのちの橋本の運命を左右する相手となるのであるが、プロレスファンは最初っからアマチュア格闘家など眼中にないので、一般マスコミの報道とは対照的に反応はいまひとつだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1996.1.4では橋本は山崎一夫と対戦しているが、実際に観に行ったにも関わらずほとんど記憶にない。何と言ってもこの日はセミリタイヤ後では最も伝説とされる「猪木VSベイダー」戦が行われた日であるので、正直ほとんどのファンにとってそれ以外はメインですら記憶に薄いのではないかと思う。せいぜい安生の顔がガムテープでぐるぐる巻きにされた程度だった。

 

で、案の定ここで武藤は高田に敗れ、年末までの武藤時代はあっさりと終焉を迎える。しばらく王座を高田に渡して価値?を高めた後、満を持して史上初となる4月の東京ドーム大会にて橋本VS高田の王座戦が組まれる。それまで東京ドーム大会と言えば1.4のみが当たり前だったのに、何故唐突に4月にも組まれたのか謎であったのだが、のちの永島氏によると、そうでもしないと会社が持たなくなったから、と言う事に過ぎないらしい。

 

しかし、この日は橋本VS高田以外にも、伝説的なムタVS白使の試合が組まれたりするなど、超豪華超満員確実な大会であった。そしてこのタイミングで週刊プロレスの取材拒否が始まったので、それに対抗するかのように週プロは「東京ドーム観戦記」と言う文字だらけの増刊号を発売するという暴挙に出る。なので、さすがに週プロ派だった私も、この時ばかりは週刊ゴングの増刊を買ったかと思う。

 

そして、メインでは橋本がわずか12分で高田を仕留め圧勝する。この時はUを意識してか、垂直落下式DDTからそのままフォールに行かず、三角絞めがフィニッシャーとなった。ドームのメインで12分と言うのはかなり短く思えるが、Uスタイルに慣れきった高田が相手では20分超えの試合は難しかったかと思われるのと、当時の観客はまず結果ありきと言うのがあったので、これでも会場は大爆発だったのだ。

 

そして、再び橋本時代の到来を迎えるが、この時私はあくまで週刊プロレスに拘ったため、新日本はテレビで得られる情報以上のものは知らなかった。なので、記憶にあると言えばリック・フレアーを相手に防衛戦を行ったことぐらいである。この時のフィニッシャーは通常のDDTだったような気がするが、当時のフレアーはすでに46歳を迎えていたにも関わらず、もろに頭から突き刺さっていた記憶があるので、普段WCWでは受けなれていないであろう技を喰らって本当に痛そうだったフレアーを見て少し可哀想に思えてしまったものだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そんな感じで行われた橋本VS武藤だったのだが、実はこの時まで武藤はスランプと言う事で2ヵ月ほど欠場していたのである。なので、当然北朝鮮遠征にも帯同していない。そんな武藤が何故いきなりIWGP王座に挑戦出来るのか、と各所から不満の声が上がっていたものである。

 

正直、これ以降の武藤の爆発ぶりを考えると、盛り上げるための単なるアングルだったのか、と勘繰ってしまう所なのであるが、これに関してはその後はっきりと言及した記憶がないので、今なお真相は良く分かってはいない。そして、久々のひげ面で登場した武藤に、なんと橋本は敗北を喫してしまうのである。ここで、一旦藤波に渡した事はあったものの、1993年9月以来の橋本時代は一旦区切りを迎える事となった。

 

ほぼ記憶のみを頼りに書いているので、この後の展開と言えば、山崎一夫が突如としてUWFインターを離脱し新日本に参戦、馳が自民党推薦で参議院選挙に立候補し見事当選し、プロレスはセミリタイア状態になり、逆に猪木と高田は落選した事などが思い出せる限りの出来事である。

 

この年のG1も、前年同様に両国5連戦で行われたが、2ブロック制かつそれぞれ4人ずつしか参加しないという、第1回以来の厳選メンバーで行われた。三銃士はもちろん、WCWからリック・フレアーまでもがフル参戦するという錚々たる面子の中で、決勝に進出したのは福岡ドームと同様の顔合わせとなった武藤と橋本だった。

 

いずれも勝てば初優勝であったのだが、ここでも新日本は橋本に星を返すなどと言う事はせず、武藤がIWGP王者としては初の優勝に輝き、名実共に武藤時代の到来となる。その中継中、突如として「UWFインターナショナルとの対抗戦が東京ドームで決定」のテロップが流れ、日本中のプロレスファンを震撼させる展開となり、それから10月までプロレス界の話題はそれで占められていく。

 

ここからは語るまでもないが、名実共に新日本の頂点を極めた武藤は、同じく最強として名を馳せていた高田とのシングルがいきなり組まれる。これだけでもドームが埋まるのは当確なので、そのせいかどうかは分からないが、橋本と蝶野の相手はどう考えても格下である中野と宮戸にそれぞれ決まった。

 

宮戸は意見の食い違いで離脱し、そのまま代役が決まらず蝶野の出場はなくなる。橋本は予定通りに中野とセミで対決するが、どう見ても全てにおいて格が違いすぎ、当然番狂わせも起こらず、順当に橋本が勝利した。メインでは武藤が高田を足4の字固めで下し会場は大爆発、結果的に下半期は完全に武藤の時代となり、橋本の活躍はしばらく影をひそめる事となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして4月28・29日、新日本では前年から噂のあった北朝鮮興行を遂に行う。正直、この時点で私は他国にはほとんど興味がなかったので、ぶっちゃけ北朝鮮と言うのがどれだけヤバい国と言うのも分からなかった。そもそも、北朝鮮はもちろんとして、韓国ですらほとんど日本で話題になる事がなかった時代の事である。つまり、当時の日本人にとって、朝鮮半島そのものがまるで頭になかったのだ。

 

なので、この大会自体もほぼプロレスファンにしか認知はされてはいなかったのだと思うのだが、ここぞとばかりにニュースステーションがこの大会に食いつき、当時まだキャスターだった小宮悦子さんが現地からリポートしていったものである。当然、プロレス嫌いの久米宏がまだまだ健在だったので、番組内では新日本プロレスの試合が行われたというリポートと、一瞬リングが映った程度であり、猪木の姿すらも映る事はなかったのだが、ユーチューバーなど存在しない時代、日本のテレビ局が現地から直接リポートと言うのは極めて異例だったはずである。

 

そんな大会であったのだが、橋本はノートンを相手に初日のメインを務め、何故か2日目には出場せず、その日のメインはもちろんご存じのようにアントニオ猪木VSリック・フレアーと言う、こんな国でやるのはもったいなさすぎるカードでプロレスの神髄を北朝鮮に知らしめて大会のフィナーレを飾った。

 

この時、橋本がセコンドに居るのが見えるが、この時はいちレスラーではなく完全にいち猪木信者と言う感じだった。この時の様子は当然週刊プロレスが増刊でリポートしていったのだが、「猪木超え?不可能でしょう笑」と答えたり、前述のように完全に猪木の弟子、いちファンに戻っていた顔をしていたという。それまでの橋本は常にイライラしている感じだったから、ファンとしてもそんな嬉しそうな橋本の顔を見てほっこりとしたものである。
 

そして、帰国するとすぐに福岡ドーム大会と言う強行日程である。この時は、実はこの当時としてもかなり珍しい武藤とのシングルマッチが組まれた。橋本VS長州、蝶野、健介などは何度も組まれていった印象だが、武藤とのシングルと言うのはこの時点でもかなり記憶になかった。パッと思いつくだけでも、1990年福岡での三銃士と健介のトーナメント戦ぐらいしかなかった気がする。と言う訳で、三銃士対決ながら橋本VS武藤と言うのはかなりプレミアな組み合わせであったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1995年の1.4では、素顔に戻った佐々木健介と正真正銘のメインイベントを張る事となった。橋本自身は、これより5年前の2.10で蝶野と共にメインを張っていたものの、主役はあくまで猪木・坂口であり、IWGP王者として一番最後にコールされたこの大会こそ、本当の意味でメインイベンターになったと言えたと思う。

 

しかし、メインこそあくまで王座戦であったものの、興行の目玉とは「格闘技トーナメント」と称した正直苦し紛れのイノキカウントダウンの3回目だった。WCWからわざわざスティングを呼んだり、またUWF系ファンには著名なジェラルド・ゴルドーなども見れたのはプレミア感があったものの、正直何故わざわざこんなトーナメント形式にしたのかは全く意味不明だった。

 

で、これはあまり触れたくないのであるが、学生以外には仕事始めの平日4日と言う事もあったにせよ、猪木の試合が終わった時点で会場を後にしていったファンたちがかなり居た。この時代は一見超満員に見えるものの、招待券の数もそれなりに出回っていたので、そういう人たちであったのかも知れないが、さすがにこれからセミ、メインに出場する選手たちは気の毒に思えてしまった。

 

この大会は対抗戦などのテーマは皆無であり、ほぼ新日本とWCWの連中のみでカードが組まれていったのであるが、そのために既視感のあるカードが多く、特にセミなどは前年と全く同じ組み合わせだった。そして、ほぼ2年ぶりに佐々木健介が復活したのも一応話題とはなったものの、元々パワーと健介に大差はないし、当時の感覚としては「この2人がドームのメインなの?」と言うのがほとんどではなかったかと思う。なので、会社は橋本を押していようと、この時点ではファンのほとんどが猪木はもちろんの事、長州や天龍を超えたとはまだ思っておらず、その間にはまだ厳然たる「格」が存在していた。

 

その後、凱旋帰国したばかりの天山、ノートン、そしてスティーブン・リーガルらとの防衛戦を行い、これが当時最長の9連続防衛となった訳である。いずれの試合もワールドには上がっていないので、今すぐに見返す事は出来ないのだが、一番最後のリーガル戦が、垂直落下式DDTをキックアウトし、腕十字で無理やり決めた曰く付きの試合となった。

 

当時は大試合に限ってフィニッシャーを一度はキックアウトして良い、と言う風潮はなかったし、特に橋本の垂直落下式DDTは決まったら誰も返せない、と言う一撃必殺の技として認知されていたので、リーガルが返した時にはドッと沸いたものである。しかし、その直後の橋本のキレようを見ると、やはりリーガルが空気を読めないだけだったのかも知れない。シュートに自信があるのか否か分からないが、数年後今度はWCWで売り出し中のゴールドバーグに対して固い攻撃を仕掛けてしまう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

9月のG1スペシャルでは、前年が豪華すぎたせいもあるとは言え、カード的にはかなり見劣りするものとなった。テレビ中継は相変わらず当時はまだ恒例だった23日の横浜アリーナ大会のみであったのだが、この大会において橋本はパワー・ウォリアーと防衛戦を行っている。が、実際に観に行ったにも関わらず、正直サイトを見るまで全く記憶にない。すでに触れたよう、橋本はファンの支持を掴めきれていなかったし、健介に至っては言わずもがな。

 

と言う訳で、この大会もまだまだ猪木頼みであり、メインはなんとウィレム・ルスカとの約18年ぶりの再戦であった。これはおそらく以前触れているとは思うが、途中で猪木が失神?したところを長州がビンタで生き返らせ、最後は逆転で勝利するという、猪木ならではの試合であったため、非常に記憶に残る展開だったのだ。それもあって、他の試合が印象に残らなかったのかも知れないが、橋本はここでも猪木超えは果たせなかったのである。

 

4日後、今度は大阪城ホールで蝶野とタイトル戦を行う。正直、この時点で橋本VS蝶野は食傷気味であり、それは観客動員に直接響く格好となる。一応、蝶野が黒になってからは初シングルであったのだが、この時はまだNWO結成以前であり、蝶野自身もスタイルを色々模索していたかと思うので、ファン目線からしてもまだ蝶野の方向性と言うのが掴めていなかったのだ。そして、この大会も前年同様にノーテレビである。もちろん、闘魂Vで発売はされたものの、今の感覚からすれば大阪城でノーテレビなど考えられない。

 

そして年末には馳とIWGP戦を行う。こちらは毎年恒例となっていた大阪府立体育会館であったが、当然超満員でテレビ中継ありだった。この当時、馳と言うのは結構名勝負製造機的な感じで、誰とやってもそれなりの試合はしてくれるだろう、と言う安心感があったものだ。そして、当然この試合でも観客の声援を一身に浴び、29分もの激闘を繰り広げるものの、最後はフィッシャーマンDDTで決着がついた。

 

私の記憶にある限り、フィッシャーマンの体勢からそのまま落とした元祖は「フィッシャーマンバスター」と名付けられたライガーのはずである。なので、稀に繰り出していたこのフィッシャーマン式のDDTも、言わば他人の技である。プロレスファンと言うのは真面目な人間が多く、安易に他人の技を使うレスラーに好感は持てなかったので、この辺りも橋本が支持を集められなかった理由だったかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その藤波戦後の会見で、かなりマッチメイクに不満をぶつけていた事をはっきりと覚えている。大体の内容は、「未だにアントニオ猪木がメインで、さらにその下に長州藤波が居て、さらにその下に俺らが居る、これじゃ未来がない」的な感じであったかと思うが、正直ファン目線からすればドームクラスの会場にはまだまだ猪木の集客力が必要だった事は間違いない。

 

2月の武道館でファイナルカウントダウン宣言をし、「猪木の試合を見れるのもあとわずか」と煽り、猪木の商品価値をさらに上げてきた事からも、まだ三銃士だけでは大会場を埋める事には不安があった事は確かだろう。まあ、実際その時代は案外早くやってくるのであるが、この1994年の時点ではまだドームは猪木なしでは物足りなかったのである。

 

そして6月には藤原喜明との防衛戦が行われるが、正式所属でない藤原が勝つ事はまずあり得ない試合だったので、結果は見え見えだった。しかし、それだけに藤原への声援は物凄く、試合中に橋本に対してかなりブーイングが飛んだのだが、その時の橋本の表情がかなり困惑していたように伺えた。要は、「自分がIWGP王者、つまりは新日本プロレスの顔であるのに、何故ファンは俺を支持してくれないのだろう」と言う事である。

 

6月の武道館では長州との王座戦であったが、こちらは武道館のメインであるにも関わらず、なんと11分弱で決着がつき、しかも最後はDDTではなくトップロープから長州の首筋あたりに落とすエルボードロップがフィニッシュだったはずである。今思えば長州のコンディションが余程悪かったのか、と言う予測がつくのであるが、当時はまだ裏側など知る由もなかったので、そんな技で終わるとは信じがたいものがあった。

 

そして8月のG1クライマックス。前年の反省を活かしたか、今回は両国5連戦となり、当然全ての日で公式戦が行われた。私は確か3日目ぐらいに行ったかと思うが、記憶にあるのはメインの長州VS武藤と、越中が馳にパワーボムで勝利し会場が爆発した事ぐらいである。で、カードを見返してみると、なんと橋本は当時まだパワー・ウォリアーだった健介と30分時間切れ引き分けを行っていたのだ。

 

越中と時間切れ引き分けを行ったのはテレビで見た記憶があるのであるが、自分が会場に行ったにも関わらず覚えていないというのは正直驚いた。まあ、当時の自分は大の武藤ファンだった事もあるのだろうが、蝶野とは対照的に「G1では勝てない橋本」と言うイメージがあったので、それも関係していたのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3月にはノートンとの防衛戦が行われたが、これは正直ほとんど記憶にない。まだプロレスの全てを知っていた訳ではなかったとは言え、ベイダーと比べると新日本トップ外人としての器は落ちるノートンがベルトを巻くなど、この時はほとんどの人が考えてはいなかったはずである。

 

そして4月、広島での藤波との防衛戦が行われるが、この時は大部分の人が「今藤波なの?」と言う気持ちであったはずである。と言うのも、この時点ですでに興業は三銃士を中心に回っていたため、もしこれで藤波が取ったら逆戻りになってしまう訳であり、ファンからしてもそれはないんじゃないか、と思っていたからだ。

 

橋本自体もそんな空気にいら立っていたのか、この藤波戦などはかなり辛辣な攻撃が多かった記憶がある。当時、新日本のファンはこの手のカードが組まれた時、ほぼ100パーセント近く旧世代を応援していたものだったから、IWGPの王者でありながら橋本はかなりヒール寄りの立ち位置だった。それに加え、相手が当時ほとんどブーイングが飛ばない、新日本ファンにとっては究極のベビーフェイスであった藤波辰爾であったので、尚更ヒール色が強かった。

 

そして、蹴りまくられグロッキーになりながらも、一瞬にグラウンドコブラツイストを決めて勝利と言う、ここに来てまさかのIWGP王座移動に会場は沸き返ったが、なんとそれに納得の行かない橋本はスリーカウントを取られても藤波にストンピングを仕掛けるなどの暴挙を働く。当然、会場は大ブーイングに包まれるが、今思うと、IWGP王座でありながら観客の支持を得られない自分への苛立ちみたいなものもあったと思われる。

 

1ヵ月後にあっさりと再戦が組まれるが、この時確か橋本は「10分以内に決着をつける」みたいな事を言っていたかと思う。そして結果はその通りとなり、福岡ドームと言う大会場ながらわずか6分で決着がついた。前年の福岡ドームに比べて、この年は明らかにカード的にも弱かったので、ここらで一瞬でもタイトルを移動させて因縁を作っておこうか、とでも考えたのかどうかは知らないが、1ヵ月で明け渡せざるを得なかった藤波が正直気の毒だった。