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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

前にもどこかで触れたと思うが、1994年2月24日に、新日本としては時期的には異例とも言える日本武道館大会を行う。しかも、私の記憶が正しければ、この日はファン感謝デー的な日であり、確か全席5000円とかでの販売ではなかったかと思う。ソースがみつからないので今となっては記憶のみが頼りなのであるが、確かこの時は「武道館なのにこんな安くてラッキー」と思った事は間違いないので、普段よりかなり安かった事は確かである。

 

そして、新日本はこれを恒例化するはずでもあったのだが、案の定これ一回きりで終わってしまった。この日の橋本はメインであり、当時ジュニアの王者だったライガーと対戦した。つまり普段は基本まずないであろうヘビーとジュニアの王者同士、と言うのが売りであったという訳である。

 

そしてさらに、この日のライガーは対ヘビー級仕様として、マスクがシンプルかつ上半身裸のコスチュームを初披露してきた。ライガーとしてデビューして以来、一貫して全身コスチュームであったので、つまりは素顔時代以来の上半身を披露と言う訳である。身長が低い事もあるとは言え、若手の頃から筋骨隆々だったライガーであったが、久々に披露した肉体は下手なヘビー級レスラーを凌駕してしまうぐらいの見事な肉体をしていたものだ。

 

当然、会場はライガーへの声援一色であり、かなり橋本を追い詰めた所まで行ったのだが、当然ジュニアがヘビー王座に勝てるはずもなく、橋本が勝利した。この試合もワールドで見れるのであるが、決着は垂直落下式DDTであった所を見ると、この辺りから「ここ一番」としてのフィニッシャーとして使用していったのだと思う。ただ、見た目的には元祖ブレーンバスターと大差はないので、確か週刊プロレスはかなり長い期間「垂直落下式ブレーンバスター」で通していった記憶がある。

 

因みに、元祖ブレーンバスターはディック・マードックが一線を退いてからは誰も使い手がなかったが、1992年の夏頃に川田利明がリチャード・スリンガーに突如として使ったあたりから復権し、必殺技としてのブレーンバスターを蘇らせた。

 

なので、元々のDDTもジェイク・ロバーツの技だし、それを発展させた垂直落下式DDTも元はと言えばブレーンバスターそのものである。武藤や蝶野に比べるとオリジナルの技が乏しかったという部分で、正直自分的には物足りなさを感じていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

新日本プロレスのサイトには歴代IWGP王座の記録があり、さらに防衛戦の内容と、ワールドに動画がある場合はリンク先も貼られていたので、改めて内容を見返してみると、なんと最初の防衛戦は初戴冠から3ヶ月後の武藤敬司戦だった。

 

3ヶ月も間が空くというのは意外であったが、確かに当時の新日本は10〜11月というのは大会場でのビッグマッチは記憶にない、そもそもこの時期は毎回ゴルフ中継で中止になっていたので、そういう意味からも意図的に大会場は避けられていたのかもしれない。

 

その最初の防衛戦となった武藤戦はテレビマッチだったので、久々に見返してみると当時の新日本としては異例とも言える28分超えの試合だった。まあ、新日本が異例というよりも、長州力が王座だった頃は20分超えの試合が皆無だっただけにそう感じるだけかも知れないが、長時間の試合と言えば四天王時代が幕開けした全日本のイメージが強かっただけに、これは意外だった。

 

そして、3日後の健介戦を挟み、1.4では蝶野正洋戦が行われた。前にも触れたが、この大会の目玉はもちろん猪木VS天龍だったものの、試合開始前のカード発表では前者がメインイベントと紹介されたので、一瞬観客がざわついたものである。そして、後者の試合は「特別試合」という事であったのだが、この理由は試合後に田中ケロ氏より「猪木戦はノーテレビ」とである事が明かされる。

 

つまり、猪木戦が放映されない以上、あくまでテレビ的には「橋本VS蝶野」がメインという扱いだった訳である。当時、プロレスは完全に活字なしでは追えない世界となっていたので、マニアであれば大人の事情などは分かりきっていたのであるが、それでもまだテレビが強かった時代だけあって、テレビだけしか見ないというファンも一定数いたものである。

 

という訳で、マニアには周知であっても、テレビ的にはやはりそうしなければならなかった面もあったのかも知れない。正直、当時の蝶野はまだヒールターン前であったので、すでに何度も行われている2人の試合は集客的には強いとは言えなかった。ただ、試合自体は良く、こちらも28分超えの激闘であり、「メインイベント」としても十分なものだった。

 

興味深いのは、この試合で橋本はのちの切り札である「垂直落下式DDT」を出しているのであるが、なんと蝶野がキックアウトしているのである。そうしたのはロード・スティーブンリーガルただ1人だと思っていたのであるが、実はそうではなかったのだ。という訳で、フィニッシャーは武藤戦と同様、ランニングしての飛びつきDDTだったのであるが、つまりこの時点では垂直式よりもこちらの方が技としては格上だったのである。それは私もすっかり忘れていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

メインはすでに新鮮味皆無のオカダVSジェイであったので、正直オスプレイVSケニーのブーストがなかったらかなり動員的には厳しかったと思われるカードである。そしてそのセミがあまりにも凄い試合であったので、自分たちの空気に持っていくプレッシャーも相当なものだったはず。しかし、そんな厳しい空気の中でも、危険技も出さずにファンを満足させていく2人の技量はやはりさすがである。

 

ただ、今回は猪木追悼という事もあり、バッドエンドはまず予想出来なかったので、大方結果が予測出来てしまうきらいはあった。案の定オカダの勝利で終わったが、それでもここで予想を裏切ってジェイに勝たしたら微妙な空気になる事は間違い無いので、まあこの結果が一番無難であった事は確かだ。

 

そして、最後にサプライズが起こり、オカダがゲートの中に入るかと言う所で突如振り返り、1、2、3ダーで締め、炎のファイターが再度流れるというエンディングを迎えた。追悼試合がかなりグダグダだった事もあって、入場時に貰えたおまけと大会ロゴ、そしてビジョン以外に猪木追悼の雰囲気は正直無いに等しかっただけ、最後の最後で追悼らしき雰囲気を味わえたというものだ。

 

結局、内容的に満足出来たのはラスト2試合のみであったとは言え、その2試合で十分我々を魅せてくれたのでそれだけでも行った価値はあると言えた。また、4年ぶりに1日だけのドームとなったのだが、1日に凝縮されたという部分でも良かったかと思う。2020年からレッスルマニアまで2日開催となったが、こちらは元々2リーグという事もあって、選手は1日のみの出場であっても十分なカードを揃える事が出来る。

 

しかし、日本のファンはさすがにそれでは納得しないはずなので、オカダや内藤らは2日とも出場してきたものの、さすがに両日30分超えの試合は相当身体に負担がきたはずであるし、また2日間タイトルマッチを組むというのもマッチメイカー泣かせであるかと思われるので、やはり1日で良かったと思う。また、ファンにとってもドームの小さい椅子で2日間連続観戦というのはかなり身体に堪えるので、そういう意味でも1日で良かったかなと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

セミまでの目玉と言えば、やはり武藤敬司の新日本プロレスラストマッチの6人タッグだった。ただ、面子を見ても顔見世的な試合であり、実際武藤がリング上に居た時間は2分もなかったのではないかと思う。なので、内容を期待する試合ではなかったものの、今大会からようやく歓声が解放されたので、久々の内藤コールが一番の目玉だったかも知れない。

 

さすがにコロナ以前ほどではなかったものの、それでも聞き取れるぐらいには内藤コールは起きていた。今のトップクラスはコールがしづらい入場曲ばかりなので、やはり内藤の入場と言うのは楽しみの一つであるに違いない。

 

セミ前はIWGPJr.の4WAY戦が行われたが、3WAY戦以上の試合はレッスルマニアでも幾度となく行われたあちらでは有名な試合形式である。しかし、王者が絡まない結末でもベルトが移動してしまうというのは今でも違和感があるので、個人的には好きではなかったりする。

 

そして、今大会最大の目玉だったのがセミファイナルの「ウィル・オスプレイVSケニー・オメガ」だ。この2人が対決するという時点でとんでもない試合が行われるだろう、と言うのは誰もが思わざるを得ないだけに、これが一番楽しみな試合だった。まず、ケニーが何の入場曲で来るかが個人的な焦点であったのだが、そのものずばりの「片翼の天使」、しかもオーケストラバージョンを選択してきた。本人もセフィロスを彷彿とさせるコスチュームで現れたが、これらが実にハマっておりラスボス感満載だった。

 

そして対するオスプレイ、こちらはいつもの曲かと思いきや、途中でフェードアウトしてスローテンポな前曲のサビのインストが流れる。そして、「Return of Assassin」の文字が映し出され、これはもしかしてと思ったらやはり以前のテーマ曲である「ELEVATED」が流れた。今の曲も悪くはないとは言え、やはり個人的には前作の方が絶対に似合っていると思っていたから、流れた瞬間におおっと思ったものである。

 

試合はもう語るまでもない凄さであったが、さすがにコーナーポストを外した状態でDDTを決め、オスプレイが大流血に陥ってグロッキー状態になった時には「このまま試合を続けられるのか」と本気で思ったものである。しかも、DDTを決めた時にはこちらに背を向けた状態であったから、本当に金具で切ったガチ流血かなとも思っていたし、出血の多さからもこれはヤバいのでは、と思ったものである。

 

あとでワールドで見返した際、実はそうではなかったと判明するのであるが、それでもオスプレイがなかなか立ち上がれず、あわやカウントアウトと言う時にケニーがあえてカウントを止めさせた事からも、かなり深刻なダメージを受けていたのだろうと思ったものだ。辛うじて試合は継続されたものの、オスプレイの動きが目に見えて悪くなっていたので、この時はかなり本気で応援したものである。

 

オスプレイがスタイルズクラッシュを出した辺りから会場の興奮は頂点に達し、ここからオスプレイが勝利してこそプロレス、だと思っていたのだが、その願いも空しくスポット参戦のケニーにまさかのフォール負け。ここまで新日本プロレスに貢献してきたオスプレイ、この大舞台で勝利させてあげたかったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

猪木追悼大会と銘打たれた17回目のWKであったが、追悼的なものは藤波とオカダがダーをやり、炎のファイターが流れたぐらいである。なので、それには批判もあったのだが、逆に追悼しなければしないで叩く人間が居たのも目に見えた事なので、この辺りが最適な落としどころであったかのかと思う。

 

2022年から、それまで数年間存在したリング上のディスプレイが経費削減のためか消失した。それでいてステージの演出もショボく、さらにコロナの影響もあったとは言えガラガラでもあったので、去年のドームは印象が薄くて仕方がなかったのであるが、今回もリング上のディスプレイはなかったとは言え、ドーム既存のモニターが改修されそれだけでも十分迫力がある事、そして外野フェンス上部にも目いっぱいディスプレイが設置されたため、前年よりかは遥かに見ごたえがあるセットだった。

 

しかし、今回はモニターの遅延がかなり酷く、当然技が決まった瞬間の音が鳴った際にはまだディスプレイ上では決まる前のため、その違和感が酷く、今回は遠いリングを凝視していなければならず、それが結構辛かった。アナログ時代はもちろん、前年までも特にディレイは感じられなかったので、その点に関してはとても見づらかった。

 

試合に関しては、セミまでは淡々と進む感じだった。それに関しては各所で不満も見受けられるが、2018年のように延々と15分以上の試合を見せられても疲れるので、いくつかはどうでもよい試合があっても良いとは思う。しかし、それでも第2試合で行われたIWGP女子王座戦はさすがにいかがなものかと思ったものだ。

 

中野たむ選手はスターダムの中でもかなり実力者のはずなのに、5分ちょいであっさり敗北と言うのはさすがにあっけにとられたものだった。「時間が押してるのか?」とも思ったのだが、すぐにその理由に気付く。それはかねてから噂だった、元WWEの元サーシャ・バンクスが登場してきたからである。

 

正直、もはや日本ではプロレスファンですらWWE選手の知名度は低いし、私自身も顔まではっきりと覚えている訳でもなかったので、顔が映っても本当にサーシャなのかどうなのか判別出来なかったのであるが、まあ一応それなりに反応はあったのでホッとした所であろう。しかし、この時にKAIRIに決めたフィニッシャーも、どうみても失敗気味だったし、一応ゆっくり話してくれたとは言っても、英語のマイクでは日本のファンはノーリアクションなので、正直かなり滑った感があったかと思う。

 

サーシャがアメリカでのPPVに登場するという事で、ワールドの新規加入者がかなり増えたとの報道があるが、まあ日本ではサーシャの参戦が大きく動く事はない気がする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その有名な前奏を始めて使用した天龍源一郎との大一番であったが、正直内容はあまり覚えていない。G1クライマックスのシリーズ中である以上、やはり主役はG1であり、そして優勝した藤波辰爾と言うのがファンの中にはあるので、藤波が最後サソリ固めで決めたシーンは良く覚えていても、唐突に行われた天龍戦などは正直記憶が薄いのだ。そして、この時点では天龍と三銃士の間にはまだ明確な格が存在していたので、橋本が勝つわけないだろう、と言う思いが強かったのもある。

 

そして、この史上初そして現時点で最後でもある両国7連戦は失敗との声が強かったので、翌月に行われたG1スペシャルではそんな声を払拭するかのような超豪華カードが組まれた。そして、その最中の名古屋大会において、遂に橋本がムタからIWGPを奪取した。ムタは異分子なので、事実上三銃士としては初めての戴冠であったと言える。

 

しかし、長州や藤波からではなく、あくまで異分子であるムタからの奪取であったので、この時点のファンの認識ではまだ世代超えを果たしたとは思っていなかった。その辺りも長州や永島ラインの狙いであったかと言える。しかも、いやらしい事にこの大会はノーテレビであった。つまり、テレビのみのファンにとってはいつの間にか王座が入れ替わっていた訳であり、橋本がその栄光に輝いた瞬間を全国に誇る事が出来なかったという訳だ。

 

これは長州ムタも同様であったので、これだけでもテレビマッチで王座の入れ替えは許さなかった、つまり暗黙的にはまだまだ長州や藤波の方が格上であるという思惑が伺えた。そして、唯一のテレビマッチであった横浜アリーナ大会では、DDTの元祖であるジェイク・ザ・スネーク・ロバーツとのシングルマッチが組まれた。

 

当時、よくWWEのビデオを借りていたが、ジェイクのDDTは他のレスラーとは切れ味が全く違い、唯一無二の必殺技と言えた。ここで橋本に決めたDDTも完璧な形で決まり、橋本がガチでグロッキーな感じにまでなったが、当然結果は橋本が勝利した。しかし、ジェイクに敬意を表してか、最後はニールキックで唐突に決まり特に盛り上がりもなく終わった。

 

この大会の目玉はホーガンとムタが組み、ホークと健介のヘルレイザーズと言う超豪華タッグマッチであり、メインが天龍と馳浩のシングルだった。つまり、王座でありながら橋本としては目立つようなマッチメイクではなかったのである。

 

 

 

 

 

 

少し前、とうとうXL2546Kを購入した。2020年10月発売だからすでに2年以上前のモデルとなるが、今なお最高のゲーミングモニターのひとつだ。

 

私はその下位モデルに当たるXL2411Kを使用しており、PCゲーマーではない私にとっては基本それでも十分すぎるほどである。しかし、DyACを使用すると仕様上必ず輝度が低下してしまう事、そして先月2台目のPS5であるデジタルエディションを購入した事もあり、最高のコンソールを使うのであれば最高のゲーミングモニターも欲しい、と言う事で遂にXL2546Kを購入したのである。

 

現物自体は、秋葉原のTSUKUMO本店で見ているのであるが、やはりプレミアムにしても輝度がまるで低下しないDyAC+の威力は本当に凄かった。しかし、このモニターの特徴はそれだけではなく、画質もIPSに負けず劣らず美しいのである。TNは反応速度が最高な代わりに、画質と視野角は大きくIPSに劣る、と言うのは常識なのであるが、画質の調整次第では下手なIPSよりも余程綺麗に映る。

 

さすがに普段使いや動画視聴ではIPSにはかなわないのであるが、それでも現在6万前後もするモニターだけあり、エントリーのTNパネルよりかは大分まともに使う事が出来るだろう。メインに使える、とまでは言わないものの、それでもこれまで私が使用してきたTNパネルとは段違いのレベルである。

 

まあ、XL2411Kの画質も素晴らしかったので、実質大して変わらないレベルであったかも知れないが、前述のようにこちらはDyACを使用すると必ず輝度が低下してしまったので、本質的な画質の美しさは堪能出来ていなっただけかも知れない。ただ、DyACは60Hzでは大きな効果は期待出来ないので、PS4やSwitchなどであればこのモデルでも十分ではある事も確かではある。それでも、全く効果がない訳ではなく、残像自体は肉眼でも確認出来るぐらいに軽減はされている。しかし、その代わりに、特にレトロゲームなどは残像の代わりにドット単位の動きが目立ってしまうようになるので、それが好みではないのであれば、2411Kでも十分なのは確かかも知れない。

 

しかし、ご存じのようにPS5とXSXSでは120Hz対応なので、その2機種でプレイするなら2546Kを所有する価値は十分にある。何度も言うようだが、TNパネルとは思えない画質の美しさ、そしてまるで輝度が低下しないDyAC+は本当に感動する。これまで色々ゲーミングモニターを購入してきたが、間違いなくこのXL2546Kが最高だ。つまり、これを買ってしまえば良質なゲーミングモニターを探す旅も終わりと言う事である。

 

 

 

 

9月23日の横浜アリーナ大会ではそのムタの初防衛戦の相手を務めるが、当時のムタでは好勝負など期待出来るはずもなく、それなりの試合に終わり、さらにメインでもなかった。以前、藤波との試合で暴動寸前まで行った事のある「前科」から、王座戦であってもムタの試合をメインに置かれる事は避けられていたのである。

 

当時、ノーテレビのタイトル戦も多かったので、そちらではどうだったのかは分からないが、少なくともテレビマッチにおいては全てセミ以下であった。それどころか、6月のカブキ戦などは元々中継予定であったはずなのに、放映するにはあまりにも不適切な内容だったおかげでビデオ発売までお蔵入りとなってしまったほどである。当然、メインどころかセミでもなかった。

 

その後の話題も完全にWARとの対抗戦で持ち切りとなり、当然天龍源一郎と比べたらまだ三銃士は格下であったため、抗争の軸はやはり天龍と長州が中心だった。1.4では橋本かねてからの希望により(だったと思う)、猪木と組んでのタッグマッチが組まれていたのであるが、なんとランニング中の骨折(だったはず)により欠場、急遽マサ斎藤に変更し、なんの変哲もないタッグマッチとなってしまった。今考えれば、これも不可解な理由であり、単純に猪木が出たくなかっただけ、な気がする。

 

5月の史上初の福岡ドーム大会では、蝶野と組んでホーク・健介とのヘルレイザースとの試合であったが、これに関しては全く記憶にない。他のカードが豪華すぎるというのもあったにせよ、つまりはまだ橋本はこの程度の扱いでしかなかったという訳である。

 

そして8月、史上初かつ唯一の両国7連戦となったG1クライマックスとなるが、なんとトーナメントは2~6日目の5日間だけ、初日は主力は全てタッグマッチの何の変哲もない興行、そして最終日にはG1とは何の関係もなく天龍VS橋本のシングルが組まれていた。この時点でまあお察しなのであるが、橋本は1回戦であっさりと馳浩に敗北、トーナメント初日で姿を消した。

 

そして、この時点ではまだ長州力しかシングルで勝利を収めていなかったので、天龍との試合も当然敗北。まだまだ橋本時代は到来していなかったが、この試合が実は福岡ドームのテーマ曲である「Welcome to the Pleasure Dome ~Into the battle mix」の一部が初めて前奏に使われた試合だったのである。

 

もちろん、この当時はまだ福岡ドーム大会のテーマ、と言う認識でしかなかったので、会場の反応は極めて薄かったのであるが、続けていくうちに定番となり、これが流れた時点で歓声が沸いていったものである。

 

 

 

 

 

 

 

1992年初頭の段階ではまだ長州力がIWGP王者であり、名実共に新日本のトップであったので、まだ若手同士が大会場のメインを張る事は多くはなかった。NWA王座が賭けられた第2回目のG1クライマックスは、前年とは異なりWCW勢も参加のトーナメント戦となり、当然橋本は優勝候補として挙げられたものの、なんと2回戦において伏兵リック・ルードにまさかピンフォール負け。

 

この際のフィニッシャーはトップロープからのダブルニードロップであったのだが、本来アメリカで使用していた必殺技はルード・アウェイクニングと名付けられたショルダーネックブリーカーであったので、おそらくだがそれでは日本では説得力に欠けるために、あえて日本用に別のフィニッシャーを用意したのでは、と勝手に推測している。

 

そして、橋本とは対戦はなかったものの、このトーナメントにはまだブロンドの長髪をなびかせていたのちのストーンコールド・スティーブ・オースチンが参戦していたのはあまりにも有名だ。まだデビューして3年ほどであったはずだと思うが、マサ斎藤や馳浩からの評価は極めて高く、いずれトップに昇り詰めるだろう、と予測していた。それは結果的にその通りになるので、今思えばさすがだなとしか思えないが、それでもあれほどのスーパースターに昇り詰めるところまでは誰も想像出来なかったはずである。

 

結局、この年も蝶野が優勝し、橋本はその後のG1スペシャルにおいて蝶野と組んでスタイナーズと対戦するも敗北、そして同期の武藤敬司は、その日のメインでグレート・ムタ名義ながら長州力を倒し、三銃士の中では最も早くIWGP王座に輝く。同時期、三沢光晴もスタン・ハンセンを破り、遂に三冠王者に輝くので、いよいよプロレス界が新時代の到来を告げた時でもあった。

 

ただ、前述のよう、IWGP王座に輝いたのはあくまでムタであり、武藤敬司ではなく、今でも公式ではグレート・ムタとなっている。当然、その後の防衛戦も全てムタとして行われたので、ファンとしても素顔の武藤がベルトを取った、と言う認識とはならなかった。どうしてこのような形で戴冠が行われたのかは今も分かってはいないのであるが、長州的にはまだあいつらに取らせるのは早い、でも自分や藤波が王座のままでは興行的な変化に乏しい、とでも思ったのだろうか。

 

まあ、この後何の前触れもなくWARとの抗争に突入し、11月には遂に天龍源一郎が新日本のマットに登場するので、ベルトがない方が身軽に動けるというのもあったのかも知れない。しかし、三銃士にダイレクトに王座は明け渡したくはない、なので一旦異端児とも言えるムタに渡してワンクッション置き、それから改めて三銃士を戴冠させる、的な構想だったのかも知れない。

 

 

 

 

 

 

 

その後は夏の第一回目のG1クライマックスまで記憶に残る試合は特になかった。G1は決勝ぐらいしかテレビで見れなかったものの、決勝の前には蝶野との優勝進出決定戦を迎える事となった。もちろん蝶野が勝ったのであるが、STFが決まったとほぼ同時にギブアップしたので、その威力に驚嘆したものである。まあ、実際に物凄く痛いのであるが、UWF以外の純プロレスで「極まったら即決まる」的な固め技を見るのはなかった事だったので、STFの威力をまざまざと見せつけた大会でもあったかと思う。

 

その後、9月の横浜アリーナにて遂に「3度目の正直」でホームに勝利したのだが、この時の秘密兵器として用意していたのがかの「水面蹴り」である。試合が記憶になかった、と言うのはしばらく欠場して中国修行に行っていたからなのであるが、この時の詳細がググってもあまり出てこないので、テレビで見た事以上の事は語れないのである。

 

実はこれは修行と言うよりアングルの一環で、本場の中華料理を食べまくっていたとかの話もあるが、実際の所どの程度修行したのかはよくわからない。しかし、別に中華料理を食べてはいけないというルールもないし、本場の中華と言うのは実に美味しいのも間違いないので、橋本がそれにハマるのは当然だとも言える。

 

まあそういう訳で、その際取得してきたのが水面蹴りと言う訳である。ただ、テレビしか見ておらず、まだ純粋なファンであった自分でさえも、このぐらいなら日本にいても会得出来るのではないか、と思ったのが本音である。そして、試合でも見事にそれを披露し、前述のように三度目の正直でホームに初勝利を果たした。決め技が腕ひしぎだったのも良く覚えている。

 

そして1992年、史上初の1.4東京ドーム大会は20周年を記念して生中継されたのであるが、そのオープニングに映ったのが何を隠そう橋本真也であった。それだけなら聞こえはいいのだが、相手は何の因縁もないビル・カズマイヤーと言う日本では無名に等しい外国人であり、しかもキャリア的にも乏しいために大した試合にならず、この日初めて公開した飛びつき式のジャンピングDDTを極めて勝利した。

 

同期の武藤はムタとして、目玉カードのひとつであるスティングと組んでのスタイナーズ戦と言うWCW直輸入カード、そして蝶野は同じく当時WCW王者であったレックス・ルーガーとのWCW王座戦と、明らかに扱いが違っていたため、橋本の心情は穏やかではなかった事に違いない。