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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

その頃はまだテレビがやっている時間に観る、程度のものだったので、薄っすら太目なレスラーが居る、ぐらいの認識しかなかったかと思う。そんな自分が完全に橋本と言うレスラーを完全に認識したのは、90年の年末にファミコン通信が唐突にプロレス特集を組んだ時の事である。

 

その頃はまだテレビがやっている時間に観る、程度のものだったので、薄っすら太目なレスラーが居る、ぐらいの認識しかなかったかと思う。そんな自分が完全に橋本と言うレスラーを完全に認識したのは、90年の年末にファミコン通信が唐突にプロレス特集を組んだ時の事である。

 

当時すでにそれなりに偉い立場だった浜村氏が大のプロレスファンだった事、そして以前も触れた怪獣ひでごんすこと柴田氏など、ファミ通編集部に何人かプロレスファンが居た事から実現した企画であったのだと思うのだが、これはしばらくプロレスを離れていた自分にとって大変有意義な特集であり、それは何度も読み返したものである。

 

そして1990年12月26日、浜松アリーナから久々の生中継特番が行われた際、目玉カードのひとつとして「橋本真也VSトニー・ホーム」が組まれた。当時、ホームはすでにプロレスラーとしてデビューしていたとの事であるが、この当時はその事は伏せられており、あくまでプロレスラーVSボクサーの異種格闘技戦と言うていで行われた。

 

まだMMAなどない時代、多くのファンはプロレスラー最強伝説を信じていた。しかし、その思いもむなしく橋本はTKO負けを喰らってしまう。もちろん、新日本のリング上で行われた以上はプロレスなのだが、当時のファンは純粋に信じていたため、プロレスラーが異種格闘技戦で負けるというのは今では考えられないほどの失望感を抱いたものである。

 

その後はまだテレビを見たり見れなかったりが続いたものの、札幌中島体育センターでの再戦も見る事が出来た。しかし、ここでも橋本は敗北してしまう。再戦で勝つのがおおよそプロレス界の常識だった当時、同じ相手に2連敗と言うのはかなり思い切ったストーリーだったかと思う。しかも、これはプロレスの威信をかけた異種格闘技戦だったのだから尚更だ。プロレスファンのフラストレーションは溜まる一方だったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

12月1日のアメトークは久々の新日本プロレス特集だった。かなり前にゴールデンタイムでも特集された事があったが、プロレスの部分も割と視聴率が良かったようで、この番組がプロレスに与えた好影響は計り知れない。ただ、それからはプロレス特集をやった記憶はあまりなかったので、前述のように久々と言えたプロレスの特集だった。

 

今回は新日本プロレス限定だったが、ゲストにひとりも20代の芸人がいなかったように、プロレスファンの高齢化をまず実感してしまった。YouTubeチャンネルの登録者も相変わらず50万人手前で足踏みしているように、新規のファンを取り込む事がまず先決だな、とまず思ったものだ。

 

そして番組の後半に、プロレス史を語る上で抜きには出来ない橋本小川の因縁の抗争がオンエアーされた。ファンならご存じのよう、小川直也自身が新日本プロレスワールドに自身の試合映像を公開する事を許可していないので、まさか流れるとは思わなかったものである。もちろん、あの1.4の惨劇もダイジェストで紹介された。

 

その際、鬼越トマホークの坂井氏が涙ながらに橋本と小川のエピソードを語っていたのであるが、私も当時の事を思い出し涙してしまったものである。そしてそのPRIDE男祭り2005での小川の入場は、今でもYouTubeやニコニコ動画でも観る事が出来るのであるが、やはりリアルタイムで見て大変に感動したものである。その際、三宅アナの実況が大きく場違いなレベルのものとなっているので、ここは出来ればプロレス愛に溢れていた森昭一郎アナに実況してもらいたかったものである。それが無理なら副音声で会場音のみでまた見たいものだ。

 

そういう訳で、今回は橋本真也を語ってみたいと思う。プロフィールや経歴などはWikipediaなどを見ていただくとして、私が初めて橋本真也と言うプロレスラーを認識したのは1990年末頃に再びプロレスを見始めてからのはずである。デビュー自体は1984年9月1日なので、つまりは私がプロレスファンになった瞬間にすでにプロレスラー橋本真也は存在していたという事になる。

 

しかし、当時のゴング増刊のプロレスオールスターカタログ1985年度版では若手の日本人は除外されていたし、当然テレビマッチに出るはずもないので、当時の私は全くその名を知る事はなかった。

 

そう言う訳で、私が橋本真也を知ったのは90年になってからの事であるが、私的に新日本のプロレスラーと言えば、相撲上がりの多い全日本と比べてスリム、何よりアントニオ猪木自身がデブを忌み嫌っていたため、まずなんて新日本のプロレスラーらしくない体型をしているのだ、と言うのが何よりの印象だったかと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

先月末のブラックフライデーセールにおいて、XSSが5000円引きセールがなされていたので、前々からその性能に興味があった事もあって遂に買ってしまった。私はすでにXSXを発売日翌日から所有しているので、わざわざ買う事もないのであるが、色々試行錯誤してきた結果、ゲームをプレイするには結局24インチのゲーミングモニターが最高、と言う結論に到達したので、それ用に欲しかったのである。

 

まあ具体的なレビューはすでに他の方々が行っているので今更ここでするつもりもないが、この価格でこの性能のマシンが買えるのであれば大方の人は満足するはずである。また、発売前はXSSではエンハンスド非対応とされており、それが購入を躊躇う大きな理由となっていたのであるが、最も有名なエンハンスド対応ゲームであろうFFXIIIとその派生シリーズなどは明らかにXbox360実機よりも綺麗であった。

 

実はこれに関してはすでにネット上で報告が上がっていたのであるが、私も長らくXSSではエンハンスド非対応と言う認識でいたので、これは非常に大きなアドバンテージだ。もちろん、そのような大きな負荷を必要としないアーケードの移植物であれば、XSXと何ら変わらずにプレイ出来るし、また「カプコンファイティングコレクション」のように、マルチタイトルであってもXboxOne版が一番遅延が少ないタイトルもあったりするから、これも隠れたアドバンテージである。

 

まあ、実際はエンハンスド対応されていないゲームも多いし、そうでないゲームなどはあからさまに差があるのも事実ではある。しかし、Xboxの看板タイトルであるFHシリーズの4や5やしっかり60FPS出るし、これはXboxOneXでさえ不可能であったので、気軽にXboxの世界に触れてみたいのであれば胸を張ってXSSをお勧めできる。

 

 

 

 

 

 

 

ドリームキャスト最大の特徴と言えば、すでに触れている通りに買ってすぐにインターネットに接続出来る事である。本体に付属している「ドリームパスポート」と言う専用ソフトを使用する事によって可能であるが、自分で固有のプロバイダと契約していない限り自動的にセガプロバイダへと接続してくれるため、当時としては最も簡易的にネット接続出来る機器だったと思う。

 

今でこそスマホの普及によりどこにいてもネット接続出来る時代であるが、当時は数十万はするPCを買うという事がそもそもの大前提である時代であるため、今とは比較にならないぐらいにインターネットのハードルは高かった。そんな時代に、機能が大幅に制限されているとは言えど、本体を買えばほぼ自動的にネット接続出来るという機器は非常に画期的であった。

 

初期の頃は電話回線のみでの接続が可能であったが、2000年頃から月2000円での支払いが必要となった。ゲーム機と言う事でクレカのみの支払いと言う訳にもいかず、そのためにコンビニで買えるWebMoneyなども使用出来た。

 

そして、ネット接続がデフォルトの機器においてこそ実現したのが、メガドライブとPCエンジンのレトロゲームレンタルサービス「ドリームライブラリ」である。初めて本格的なレトロゲームのDLサービスが開始されたのは、Xbox360によるXboxライブアーケードが初めてであったかと思うのだが、その源流と言えるサービスがまさにこれである。

 

アイデアとしては非常に画期的ではあるのだが、いかんせんHDDも積んでいないハードで行うには時代が早すぎた。HDDがないという事は、当然本体の電源を切ればデータは消えてしまうのである。レンタル期間内であれば当然再DLが可能なのであるが、当時のアナログ回線の速度を考えればそれは煩わしい事この上なく、当然電話代も余計にかかってしまう。

 

私は裏技でMD版の「大魔界村」をプレイしただけであるが、BGMは本体とはまるで違うPSG音ながらも、画面や操作性はほぼオリジナルのままだった。ラインナップには未だに復刻されていない「マジカルチェイス」などもあったのだが、前述に挙げた欠点が大きすぎ、まともにプレイした人は極めて少なかったのではないかと思う。それでもここ数年でようやくサブスクリプションやストリーミングが主流になった事を考えたら、22年前にこのアイデアを具現化していたセガは、ゲーム界の佐山聡と言えるほど時代を先取りしすぎていたと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

そして1998年11月27日の発売である。前評判は高かったものの、Wikipediaにもあるように発売日までに十分な量を用意する事が出来なかった、と言うのは当時でも報道され、それが影響したか秋葉原などではそれを求める列が絶えず、当然即日完売したため、世間的には人気商品と言うイメージを与える事に成功した。

 

しかし、年末商戦に売り出す事が出来なかったダメージは非常に大きく、これが後々ボディブローのように効いていく事になる。ローンチソフトは4作品であったが、当然目玉はバーチャファイター3tbである。しかし、一応デフォルトでネット接続が出来るハードであったにも関わらず、ソフト自体通信対戦には未対応であるため、ゲーセンのような不特定多数との対戦は期待出来なかった。

 

まあ、あった所で所詮33.6kbpsのアナログ電話回線、1MBのデータを読み込むだけでも大変な時間がかかる当時としては、格ゲーでのネット対戦などは無謀に等しいので、あっても大して変わらなかったかとは思うが、それでものちに一応ブロードバンド対応もされた事を考えると、やはり通信対戦は積むべきだったとは思う。

 

また、当時の格ゲーマニアはほぼ100パーセントアーケードゲーマーであったので、アケコンは必須だった。ただでさえ使いづらい純正コンであるのだから当然なのであるが、アケコンなど所詮マニアックなものであり、周辺機器の中でも入手しづらい代物である。それでいて、セガ純正ながらレバーがゴミのような仕様であり、まともにプレイ出来たものではなかった。

 

この当時、バーチャスティックプロなどの例外はあったにせよ、基本的に1万超えのアケコンなど考えられもしない時代である。当然、三和電子純正レバーの搭載などありえず、かろうじてHORIのが使える程度であったのだが、それでもアーケードの雄であるセガがリリースしたとは考えられないほどの粗悪な代物だった。
 

そして翌月にはもう一つの目玉である「ソニックアドベンチャー」も発売されたが、ソフトは出てもそれを遊ぶハードが買えないという有様。いつ頃在庫不足が解消されたのかは覚えてはいないのだが、その最中に運の悪い事にPS2が発表されてしまうという間の悪さ。しかも、初代PS互換かつ当時まだまるで普及していなかった未来のメディアである「DVD」が搭載されるとの事。当然、ゲーマーの間にはハードの買い控えが起きるのは当然であり、この時点でもはやDCに勝ち目はなかった。

 

半年ぐらい経って、テコ入れのために突然1万円引きで販売されるが、別に新型を発表した訳ではなく本当にただ割引しただけなので、つまりは1台売るごとに1万円の赤字が発生したという訳である。ソフトで赤字をカバーしようとも、そもそもハードが普及していない訳であり、販売本数も惨憺たる有様だった。当然、メーカーもDCへの供給は絞るようになり、まさに負の連鎖だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

DCが発表された事で、当然メーカーはSSへのリリースは渋っていったため、1998年は実質的にはSS最後とも言える年であった。しかし、ハード末期なだけ名作は多く、かつ当然出荷本数はセーブされたため、プレミア化したソフトが多いのも特徴である。具体的には「バトルガレッガ」や「レイディアントシルバーガン」などであり、特に後者などは発売から2年後にはすでに倍以上の相場になっていたものだ。

 

そして、このDCにおいては、それまでセガが弱いとされてきた一般層へのアピールが徹底的に行われた。一番有名なのはかの湯川専務である。この当時は今とは比較にならないほどテレビが強い時代であったので、おそらく国民の相当数への知名度はあったと思われる。ただ、「セガなんてだせーよな」と言う自虐的なCMなどは、正直ブランドイメージ的にはどうだったのかと思われるし、またセガファンの心を傷つけた事も確かである。

 

売り上げでは圧倒的に負けていても、ソフトのクオリティは絶対負けていないという自負がファンの中にはあり、実際名作は星の数であったのだから、セガ自らがセガブランドを否定するようなCMを放映するのはどうなんだ?と思ったものだ。まあ、この辺りは外部スタッフなども色々絡んでいたらしいのであるが、前年のせがた三四郎も含めて、セガのマーケティングの方向性には疑問を抱かざるを得なかったものだ。

 

まあそんな事もあり、さらにはここからしばらくCMの提供がセガから「Dreamcast」へと変化していた。CMの内容の是非はともかく、やみくもにアピールしたおかげで一般層への認知度は高まった事は間違いない。

 

この当時、ほとんどの情報源は雑誌であったのだが、当時テレビ朝日の深夜にて人気を博していた「トゥナイト2」がちょくちょくゲームを扱っていたので、確かDCの映像などもここで見る事が出来たかと思う。確かにそのグラフィックはPSもSSも圧倒しており、ようやくアーケードと同じレベルのゲームが遊べるという訳で胸がワクワクしたものである。

 

しかし、実はここには大変な落とし穴が待っていた。家庭でアーケードレベルのゲームが遊べるという事は、当然「ゲーセンに行っても家と同じ」な訳である。ゲーセンが衰退するという事は、イコールそれまでアーケードの移植物が命綱であったセガにとっては大変な痛手となる訳だ。私はすでにゲーセンにはあまり行かなくなっていたので、アーケードレベルのゲームが遊べて嬉しい、程度しか思っていなかったのであるが、ゲーセンの雄であるセガ自らが衰退の道筋を開いてしまったのはなんとも皮肉であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

世界的には11月27日と言えばブルース・リー生誕の日、そして日本国内的には初代タイガーマスクこと佐山聡の誕生日、つまり東洋を代表する2人の天才が生まれた日と言う大変な日なのであるが、実はドリームキャストの発売日も11月27日だった事に今更気付いた。

 

もちろん当時はリアルタイムでずっと追っていたのであるが、何故かブルース・リーの誕生日と同じ日と言う事には気付かなかったのである。まあそれはさておき、事実上セガ最後のハードとなったDCであるが、今風に言えば当初からズンドコの嵐だったかのように思える。

 

最初に発表されたのは確か5月ぐらいだった気がするが、当時業務用最高峰の基板である同社のモデル3が秒間100万ポリゴンだったの対し、DCはなんと300万ポリゴンだった。つまり、当時のアーケードゲームが楽勝に移植出来るという事である。それは「バーチャレーシング」から3Dに力を入れてきたはずのセガが、3Dが苦手な家庭用ハードに移植せざるを得なかったという矛盾からやっと解放されるという意味でもあった。当然、PSに押されっぱなしだったSSファンとしては期待せざるを得なかったものである。

 

その時点でほぼハードは完成しており、ビジュアルメモリや独特のコントローラーも発表された。前者はSSのセーブデータの脆弱性を解消したものであり、さらにはゲームとビジュアルが連動しているという画期的なものであった。極端な話で言えば、のちのWiiUの走りとも言えるものである。

 

コントローラーも独特な形状をしており、一見すると4ボタンなのであるが、LRが付いており実質6ボタンである。しかし、そのLRが曲者で、いわゆるトリガー形状のアナログ入力なのであるが、これはどう考えても格ゲーには向いていない代物だった。まだまだアーケードでは2D格闘ものが人気であり、当然セガにとっても命綱的なジャンルなのだから、それをバッサリ切り捨ててしまうかのような形状はいかがなものかと思ったものだ。

 

そして、忘れてはならないのがデフォルトでアナログモデルが搭載されており、買ってすぐにインターネット接続が可能な仕様になっていた事だ。何故かセガは異様なまでにネット対戦に積極的であり、すでにメガドライブ時代から実用化しようとしていた。当時はまだ子供だった事もあったとは言え、対戦と言えばゲーセンか、友達を家に呼んでするものと言う認識しかなく、またそれが当たり前であった事からも、少なくとも自分的には「ネット対戦なんて必要?」と言う頭しかなかったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まあそういう訳で、この年は次世代機の話題で持ちきりだったものである。一応、大まかには先行された3DO、その後を追うような感じでPS、SS、そしてPC-FXの任天堂の対抗馬である御三家と言う感じであったのだが、3DOはほぼ眼中になく、PCEにアニメ再生機能を付けただけのPC-FXはすでにダメダメな雰囲気が漂っていたので、実質PSとSSの2強だった。

 

ただ、すでにスペックは公開されていたものの、発売直前には私はどの雑誌も読んでいなかったので、結局最終的なスペックはよくわからないままだったのである。つまりは両機種の長所も短所も知る由もなく、イコール私の目からはどちらも似たようなものとしか見えていなかった。

 

まあ、結論としてはPSが3D、SSが2Dに特化した作りにはなっていたのだけれども、PSの2D機能さえも当時の家庭用と比べれば段違いのレベルだったし、SSもバーチャファイターのチラシなどは開発機材の画像が使われており、明らかに実機よりも綺麗だったため、実際にプレイするまでは本当に違いには気付かなかったのである。

 

一応、PSに関しては発売前にもらったプロモーションビデオで、そしてSSに関しては店頭でバーチャファイターをプレイする事は出来たのであるが、やはりSFCが現役の当時としてはどちらも凄いとしか言いようがなく、お互いの長所も短所も知る由はなかった。自分でもそんなレベルだったので、余程のマニアでもない限りは大方そんな感じだっただろう。

 

以降の話はすでに語った通りであるが、先に買ったのはPSだった。両ハードで同時リリースされた「グラディウス・デラックスパック」がきっかけとなったのであるが、PSを選んだ決め手となったのはCMで見た「ナムコミュージアム」もプレイしたかったからである。スペック的にはSSでも出せた内容なのだが、MDにあれほど供給していたナムコがSSでは一本もリリースする事がなかったので、PSを選択する以外なかったのだ。

 

それから半年後、PS版の「極上パロディウスだ」の出来に不満があった私は、VF2やりたさもありとうとうSSも購入した。すでに白が出ていたが、グレーの方が格好良く、また中古で若干安かったため、そちらを選択した。当然ファイティングスティックSSも一緒だったのであるが、当時はアケコンなどは一般的なおもちゃ屋にはなかなか置いてある代物ではなかったので、買えたのは運が良かった。

 

そう、当たり前なのだが、当時はネットなどはなかったので、自ら赴いて買う以外なかったのである。その点、流通が良く、そして中古での出回りが良かったSSの方がPSよりも入手しやすい時代だった。PSが小規模なゲームのチェーン店に新品を供給し始めたのはかなり遅く、また大幅な値引きも厳禁だったので、1990年代後半になるまでには一般的なゲーム店では入手性が悪かったのだ。

 

まあ、その代わり当時のスクウェアが「デジキューブ」を設立し、日本で初めて本格的にコンビニでの販売を始めたのであるが、FFVIIなどはその恩恵を大きく授かったものの、値引き販売が出来ない事、そして在庫も豊富に持てない事などが仇となってすぐに下火になっていった。

 

それでも、FFVIIがPSの売り上げに果たした功績は大変に大きく、これ一本でゲーム市場の決着がついたようなものである。それ以降、SSは明らかに売り上げが落ち、そして1998年には発売からわずか4年で次世代機であるドリームキャストにメインハードの座を明け渡す事となった。

 

セガの自虐的なCMもあり、SSは完全な負けハードと言うイメージが付いて回ってしまったが、ゲーマーならご存じのよう実際は大変な名作に恵まれたハードである。しかし、受けが良かったのはあくまでコアゲーマーのみであり、一般層向け戦略を得意としたPSの前には歯が立たなかった。私としては歯がゆい事この上なかったが、メーカーは企業である以上、どんなに良いものを作ったとしてもそれが売れて会社が潤わなければ意味がないのだ、と言う事を年を重ねる事に知る事となった。

 

なので、セールスと言う点を考えれば圧倒的な敗北であり、繰り返しとなるが良いものを生み出してもそれが売れなければ会社的にはまるで意味がないものだ、と言う事を教えられたものである。

 

 

 

 

 

 

 

1994年11月22日にセガサターンが発売されてからなんと28年の月日が流れた。SSについてはすでに詳しく触れているが、私の長きに渡るゲーマー人生の中で最も愛したハードが何を隠そうSSなのである。なので、非常に思い出深いハードであるのだが、発売した頃はそこまでゲーム熱も高くなく、まだ現行機で満足していたのでいきなり買う事はなかった。

 

何より、当時の感覚で44800円と言うのはべらぼうに高かったのである。これが税抜きだったのか否かは覚えてはいないのだが、税抜きであれば単純に現行のPS5のデジタルエディションとほぼ同価格である。当然、東京都の最低時給が634円の頃の話であるから、今の感覚で言えば70000円超えぐらいである。

 

さらに、この時は実は本当の定価は49800円であり、発売から半年はキャンペーン価格で5000円引きだったというのだから、実際はもっと高い。なので、いかに期待されていたハードとは言え遊べるソフトがバーチャファイターぐらいしかない時代にいきなりソフト込みで50000円以上出せるか、と言われたらさすがにそれは厳しいと言わざるをえなかった。

 

しかし、大抵のゲームマニアはすでにその圧倒的な性能を把握していたので、大方のファンはその価格に「まあ仕方ないな」と納得せざるを得なかった。まあ、その10日後ぐらいには初代PSが39800円と、SSよりも割安で発売されるのであるが、当時の感覚としてはSSの方が高性能的なイメージもあったので、5000円差と言うのはまあ許容範囲でもあったのだ。

 

ただ、当時は当然ネットでの体験版などもなく、YouTubeで事前にプレイ映像を見るなんてこともあり得ない時代であったので、つまりはほとんどの場合買わないと面白いか否かが選別出来なかったのだ。当然、ファミ通などのクロスレビューなどは存在しており、今よりも遥かに頼りにせざるを得なかったのであるが、ゲームメーカーは大スポンサーであるため、いわゆる忖度なものも少なくなく、隔週刊時代ほど信用できるものとは言えなかった。

 

なので、一本6000円近いソフトを雑誌の事前情報のみで買うというのも大変な博打だったのだ。しかも、黎明期のSSソフトはまだ現行機の価格をそのまま引きずっており、バーチャファイターでさえ8800円と言う代物だった。それでもSFCソフトが1万円超えしていた事もあって、それでも割高感はなかったのであるが、PS陣営がほぼ5800円均一と言う、当時としては破格の値段で発表してきたので、以降のSSもそれに合わさざるを得なかった。ユーザーにとっては万々歳であるが、そもそもROMカセットとディスクメディアの原価を考えたら安くて当然である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なので、すでに前作Oneを超える売り上げを記録しているXSXSであるが、ぶっちゃけそれでも私的にはPS中心と言うのは変わらなかった。それはもちろん格ゲーメイン機種と言う事もあるのだが、一番はアケアカの存在である。私のようなレトロゲーマーは、PS4を購入した最大のきっかけがアケアカだったという人は相当数いるはずである。初代グラディウスやII、そして初代ダライアスなどがリリースされた時などはその傾向が顕著に表れた。

 

その後、SwitchでもアケアカはリリースされていきPS4独占とは行かなくなるが、それでもXboxOneでリリースされたのはアケアカネオジオのみであり、本家シリーズは今なお一切展開されていない。まあ、Oneの普及台数を考えればそれも仕方がないとは言えるのだが、今となってもリリースされていないとなると、どうしてもPS中心に偏ってしまうのは仕方がない。

 

ただ、アケアカをプレイしない人であれば関係のない話であるし、PS独占タイトル以外はほぼマルチ展開と言うのもあるので、PS5が入手困難な現在としてはXSSで妥協しても全然満足出来ると思う。確かにネイティブ4Kは出せないが、PS5やXSXでもネイティブ4K出力だとかなり重くなるし、フレームレートも落ちてしまう。実際、私もFHシリーズなどはずっとフレームレート重視でプレイしているし、FHD144Hzのゲーミングモニターでプレイする事を前提とするならば、XSSでも十分すぎる訳である。

 

まあ、これでも今ではゲーム機を買うならゲーミングPCで十分と言う声もあるものの、冷静に考えてまともなスペックのゲーミングPCを買う場合は、最低でも15万以上、それなりを要求するなら20万は出さなければならないので、ゲーム目的のためにそれだけ出せる人と言うのは正直それほど多くはないはずである。

 

もちろん、PCはゲーム専門ではないし、ゲーム専用機などよりもとてつもなく色々な事に使えるので無駄にはならないだろうが、それでも大抵の人にはオーバースペックになるはずである。それが、XSSなら3万円ちょい払えば買えるのだから、やはり気軽に次世代機を味わいたいのであれば今なお勧めと言えるだろう。

 

まあ、どうしてもPSに劣ってしまう点と言えば、日本での普及率の差により周辺機器が圧倒的に不足している事である。XSXSにもそれなりにアケコンを使用するゲームが多いので、私がXboxOneXを買った時などはかなり苦労したものである。もちろん、UFBは完全対応しているのだが、そこまでするのはなかなか敷居が高いのも確か。HORIのファイティングスティックαも国内向けは初回で終了しているし、その点は相変わらずなのであるが、幸いBrook発売のWingmanコンバーターの出来が非常に良いので、最悪それを使えば大丈夫だろう。