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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

PS5が発売2周年と言う事は、当然Xbox Series X/S(XSXS)も2周年と言う事になる。と言うか、こちらの方が実は2日早く発売されているので、こちらの方を先に扱わないとおかしいのであるが、Twitterで先に目が付いたのがPS5だったので、順番が逆になってしまったという訳だ。

 

まあそれはさておき、発売から2ヵ月後に入手出来たPS5とは異なり、こちらは1日遅れながら初回出荷分をAmazonで買う事が出来た。日付を見ると10月23日となっており、おそらくこれ以降復活した事はなかったはずなので、本当にギリギリで買えたという事になる。他にもヨドバシカメラでも何度か予約が復活したのであるが、そちらの方は叶わなかった。

 

さて、抽選またはクレカ縛りが続いてはいるものの、ヨドバシではある程度在庫が闞沢になってきたPS5とは異なり、XSXに関して言えばPS5以上に入手困難かも知れない。しかし、逆にXSSの方は今現在Amazonでもヨドバシでもクレカ縛りなしで買え、さらにSwitchよりも遥かに高性能ながらほぼ同価格とコスパも非常に高いので、次世代機を手っ取り早くプレイしたいのであれば最適な選択肢と言える。

 

まあ、私は運よくXSXを買えたので、XSSに関しては未購入なのであるが、XSXSがPS5に対して圧倒的なアドバンテージを得ているのが、なんと初代Xboxからの後方互換性の維持と、そして超目玉のゲームパスである。前者に関しては全てのソフトではないとは言え、Xbox360の「名作」カテゴリーのソフトは相当数網羅しているし、さらにいくつかのソフトはエンハンスド対応でもあるので、往年のユーザーにはこれだけでも買う価値があるレベルである。

 

そして、ゲームパスに関しては、先に3年分のゴールドメンバーを購入し、100円でアップグレードすれば月450円程度で100以上のソフトがプレイしまくれるという夢のようなシステムである。Xboxのユーザーでこれに加入しない人は居ないだろう。

 

なので、コアゲーマーであればまず満足できるハードである事は間違いない。格ゲーユーザーからは、ストリートファイターVがコンソールではPS4限定となった事もあり、格ゲーのプラットフォームの座はPSに奪われてしまった感があったため、アケコンなどの周辺機器が不足気味となってしまったのは痛かったが、次作の6や、鉄拳の続編などもXSXでリリースされるというので、勢力図も若干変わってくるかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

なので、前回のようにあえてPS5を使用するメリットを感じられなくなっていった私は、PS4とPS4Proをそれぞれゲーミングモニターに接続していた事もあり、結局PS4でプレイする事がほとんどとなってしまった。

 

また、当時はLGの55インチテレビに買い換え、それにPS5を接続していたのであるが、純正ケーブルを使用している割にはどうもテレビとの相性が悪く、電源を入れても映らない事がしょっちゅうあった。色々ケーブルを付け替えたり、強引に再起動したりと試したのであるが、このおかげで本体にダメージを与えてしまったかも知れない訳であり、今考えたら冷や冷やものだった。

 

その後、2021年6月のAmazonプライムセールで同社の有機ELテレビに買い換えた以降、そのような不具合は一切なくなった。要はテレビのせいだったという訳であり、買い換えて幸いだったものである。しかし、せっかく有機ELにしたにも関わらず、画面はそこまで綺麗ではなかった。よって、余計に使わなくなってしまい、その後数か月放置状態となってしまったのであるが、今年の4月下旬にBenQのEL2870Uを買った際、しばらくPS4Proを接続した後、PS5を接続してようやくメイン機種へと返り咲きをした。

 

ただ、この機種は2018年に発売されたもので、今となっては少々古く、当時の記事では絶賛されているとは言っても、やはりTNパネルである以上IPSとの間にはどうしても超えられない壁があった。もちろん、120FPSで出力する事も出来ないのも大きなマイナスである。という訳で、約3ヵ月後に現行のLGの4K144Hzモニターに買い換え、ようやくPS5の性能をフルに発揮させる事が出来たのである。

 

という訳で、私も発売から2年近く経ってからようやくメイン機種として使用し始めたので、結局焦って買う必要もなかったと言える。現在、ヨドバシが最も在庫としては闞沢なので、黒カードさえあれば少し遠出してもほぼ確実に買えるかと思う。なので、それが最も手っ取り早い方法なのであるが、なんとヨドバシのカードは案外審査が厳しいらしい。

 

ただ、ビックカメラ系列にも入荷しているようであり、こちらでもカードさえ作る事が出来れば入手は難しくないとされている。つまり、カードがなく現金のみの場合などは今でも入手難易度は高く、抽選に賭けるしかないので、 本当にこのままだとPS5が入手困難のままPS6が発表されそうな勢いである。

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の通り、私は運よく2021年1月下旬に、めでたくPS5を購入する事が出来た。当然ディスクドライブエディションを購入したが、私はすでに全てのゲームをDL購入しているので、ゲームにおいてドライブを使用した事はない。しかし、ご存じのようにPS5はULTRA Blu-rayに対応しているので、それを考えたらあった方がいいに決まっている。

 

多くのPS4ゲームが、PS5で走らせた場合フレームレートの向上が見られるので、焦ってPS5用ソフトを買う必要は実はない。しかし、さすがに1本ぐらいは、と言う事で選んだのがスパイダーマン・マイルズモラレスである。3D酔いする自分としてはあまりプレイは出来ないのであるが、それでもさすがにこの高精細グラフィックで60FPSと言うのは見事である。

 

しかし、ここで早くもPS5の最大の壁にぶつかる。超高速SSDを登載しており、ロード時間は爆速なのは良いのであるが、その分容量が非常に小さく、それは1TBにも満たない。システムを考えると、基本使えるのは600GB程度である。50GB以上など当たり前の現在において、これだけではアッというまに埋まってしまう。と言う訳で、PS5専用ソフトを買うのは躊躇せざるを得なかった。

 

まあ、雷電IVなどの例外は除き、大抵のDLゲームはPS4/PS5版をまとめて買えるので、ほとんどの場合はPS4用でいいやとなってしまう。さすがにグランツーリスモなどは両者で明らかに差があるのでPS5しかないが、サイバーパンク2077などはPS4版でも、PS5で動かせば60FPSで動いてくれるし、と言う訳でPS5版をインストールするのはまれとなってしまう。

 

まあ、最近はバージョンアップにより、データだけは外付けHDDに逃がす事が出来るのであるが、と言う事でPS4のゲームで満足出来るのであればPS5はどうしても必要、と言う訳ではないと言う事だ。

 

また、私の場合は8TBのHDDを使用し、すでに5TB以上使っている事もあるのかも知れないが、電源を入れてからHDDを読み込んでくれるまでに数分かかってしまう。これがPS4Proの時にはなかったし、またPS4の場合は複数ダウンロードも可能なので、そういう意味でもPS4のゲームならPS4Proで十分とも思ってしまう。

 

 

 

 

 

 

早いもので、PS5が発売されて丸2年が経過した。私の場合は、本当に欲しいコンソールは入手出来次第に買うが、そうでない場合は2年ぐらい経って買う事もままあった。具体的にはWii、Xbox360、PS3、PS4、Switchなどである。まあ、時期的にそこまでゲームにハマっていない頃とは言え、さすがに2年も経つと新品はもちろんの事、中古でも容易に買えるようになるものである。実際、360、PS3、さらにはPS4まで中古で購入した。

 

PS4を買ったのは2016年の12月半ばぐらいであったのだが、この当時は世界的なローンチからは3年、日本版発売からは2年10ヵ月、おおよそ3年が経っていた。PS4は後方互換性が切られた事、そしてソフトがコアゲーマー向けのものばかりが多かった事もあり、一般層にまで受け入れられた初代とPS2の頃に比べると、売り上げ的にはかなり苦戦していた。今でもググると出てくるが、PS4の転売を狙った連中は軒並み爆死していたし、入手困難に陥る事も皆無であったかと思う。

 

なので、PS5の発売から2年経った今となっても、まさか入手困難であるとは夢にも思わなかったものだ。まあ、原因としてはコロナ禍による半導体工場の閉鎖と世界的な需要の高まりなどが重なった事も要因にはなるのであるが、それでもさすがの2年である。まあ、PS5でプレイ出来るゲームは大抵PS4でもプレイ出来るので、PS4Pro所有者などは別に急いで買い換える必要もない事も確かなのであるが、それでも未だこの状態とは驚きである。

 

それでも、少なくとも今なおクレカ縛りを続けているヨドバシの店頭では、ほぼ毎日と在庫が用意されているぐらい供給が満たされつつある。ヨドバシも初期は抽選だったのだが、あまりにも応募数が殺到したせいか2021年1月1日より予告なしの店頭販売に踏みきった。この頃は秋葉原や新宿西口、そして梅田などの主要大型店優先に入荷されていたため、買えるかどうかは運とタイミングが全てだった。

 

1月中旬頃から毎週金曜日に新宿西口に入荷されるという口コミがTwitterや5chを中心に広がったため、私もそれを見てから急遽新宿へ向かったりしたのであるが、初回はギリギリ間に合わなかった。しかし、翌週はあらかじめ朝から張っていった所、11時過ぎぐらいに列が出来ているという情報をTwitterから入手、1時間ほど待ち遂に入手出来たものだ。

 

つまり、私の場合は発売僅か2ヵ月後ちょいで入手出来たのであるが、当然その後2年近くに渡り在庫不足が続くとは予想だにしなかったため、本当に運が良かったものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そして1992年の初の1月4日開催となった「超戦士in闘強導夢」である。旗揚げ20周年記念と言う事で、午後6時から1時間半枠の生中継であり、かの猪木VS馳戦の直後に「ムタ・スティング組VSスタイナーブラザーズ」との試合が組まれた。

 

試合後のインタビューでも語っていたよう、猪木VS馳戦があまりにも凄かったおかげで、武藤はかなりプレッシャーを感じていたという。さて、この大会はSHOW-YAと言う女性バンドがゲストで来ていたのであるが、ターザン山本曰く、大会途中でのパフォーマンスにプロレスファンは全く無反応、無関心だったそうで、ターザンすら気の毒と思ってしまったほどだったという。

 

プロレス会場にミュージシャンなど呼んだ所でそんなオチはすぐに読めるというのに、何故読んだのか不可解極まりないのであるが、そんな彼女らに唯一スポットライトが当たったのがこの試合である。つまりは彼女らの生演奏で選手が入場してきたという事だ。当然、ムタもそうなのであるが、最初のスタントマン忍者らによるパフォーマンス中のみオリジナル音源がかかり、その後の生演奏自体はさすがに武藤敬司のHOLD OUTであった。

 

しかし、それでもその入場は非常に絵になり、さらに日本では初登場となる青のコスチュームだった。この試合ではヒールのムタは影を潜め、と言うか周りがWCWのメンツなのでアメリカでやっていたように自由にプロレスを楽しんでいたように見えた。しかし、この試合ではムタは完全にやられ役であり、スタイナー兄弟の投げっぱなし系の技を受けまくって非常に辛そうだったものである。

 

メンツ的に誰が負けるのか難しい組み合わせだったと思うのだが、最終的にはスティングが技を切り替えしてクイックでギリギリスコットからカウント3を奪うという展開に終始した。当時日本で無敵を誇っていたスタイナー兄弟が、初めて日本で敗北したのがこの試合である。しかし、奪われたのはあくまでWCWのスティングなので、その後も新日本レスラーからはしばらく負けなかったはずである。

 

 

 

 

 

1991年は割とムタとしての出番も多く、G1クライマックスの後に何故かよみうりランドで行われた大会のメインでもムタとマシーンのカードが組まれた。これもテレビで見ていたのだが、覚えている事と言えば2人とも緑色をベースとしたペイントとコスチューム、そして当時としては珍しい覆面はぎによる反則決着だったという事だけである。

 

その翌月に行われた横アリ大会のメインでは藤波戦が組まれ、引田天功によるマジックの入場だけは盛り上がったものの、試合自体はレフェリーうずまくり状態での急所打ちからビール瓶殴打と言う古典的な展開から、ムーンサルトで終わるというなんともフラストレーションの溜まる展開となり、会場は暴動寸前の不穏な雰囲気となってしまった。

 

そこで何故か猪木と長州力がリングに上がり、そんな雰囲気を払拭させたのであるが、この頃のムタはまだ入場は盛り上がるけど試合はダメ、と言う評判のテンプレ通りの展開となってしまった。その年の秋と言うのはG1のタッグリーグ的なスーパーグレードタッグリーグ戦、通称SGタッグが開催されたのだが、この当時、毎年10月頃と言うのはゴルフシーズンであり、1ヵ月放送がないとかザラだったのだ。

 

なので、ほぼテレビのみを頼りにしていた私はそのリーグ戦の存在すら知らず、その後1.4まで記憶に残った試合は皆無だった。閉じはそれに限らず、大阪や名古屋のビッグマッチですらノーテレビは多かったので、それを補うべく発売されたのが「闘魂Vスペシャル」と言う60分のビデオシリーズである。こちらはテレ朝収録とは異なり、ヴァリス社が独自で収めている映像のため、完全に闘魂Vオリジナルの映像のみである。

 

セルビデオは9800円とかが当たり前だった時代、当初レンタルは原則禁止でセル専用として発売されたこのシリーズは、基本3800円と言う低価格で発売された。ビデオはのちのDVDよりも遥かにコストがかかるので、安くする代わりにそれだけ売らなければ儲けにならない。と言う訳で、この1作目の目玉がムタがAKIRAに扮した野上と組んで、栗栖とキムドクと対戦したタッグマッチであった。

 

その後、数年に渡ってこのシリーズは発売されたので、それだけの成功を収めたのであろう。ただ、やはり売れ行きが良かったのはムタ絡みのカードだったらしい。

 

 

 

 

 

 

その年も夏まではあまり見る事は出来なかったのであるが、週刊プロレスは常に立ち読みするようになるぐらいプロレスにハマりつつあった。そして、その年の7月に今は亡き北海道のプロレスのメッカであった札幌中島体育センターで行われたのが、ムタ・TNTVS馳・佐々木組の試合である。

 

黒地に銀のペイントをしてきたムタは、試合開始からヒール全開、途中馳を大流血に追い込むと、ゴング用の木槌まで持ち出し馳に対してやりたい放題、これがあの武藤敬司なのか思わせるほどの悪党ぶりを披露した。のちのムタに慣れた今の目線で見ると至って普通のムタなのであるが、実はそれまではムタと武藤の使い分けに試行錯誤をしていた感があり、案外外れの試合が多かったりもしたのだ。

 

アメリカであれば武藤敬司と言うレスラーは存在しないので、どんな形となってもムタはムタなのであるが、日本ではそうもいかないため、無理してでも使い分けをする必要があった。それがどうしても上手く行かず、ファンの支持も受ける事がなかなか出来なかったのであるが、それを振り切った初めての試合と言えるのがこのタッグマッチであったかと思う。

 

私はあいにく中継を見逃してしまい、週プロでしかリポートを見る事が出来なかったのであるが、写真や記事だけだとさらにおどろおどろしさが増したため、まだ何も知らない私はこれが本当にあの武藤敬司なのか、と大変ショックを受けたものだ。と言う訳で、この一戦にショックを受けた私は武藤への思いが複雑になり、翌月のG1クライマックス決勝では自然と蝶野を応援していた。

 

その記念すべきG1クライマックスは一体なんなのかも分からなかったが、その語呂の良さだけでもインパクトがあったものだ。そして、決勝は当時の新日本としては珍しい30分近い試合となり、蝶野のあの有名なパワーボム一発で決着がついた。今見返してみると、その前に蝶野はドリル・ア・ホール・パイルドライバーを2回ほど繰り出しており、それが上手くパワーボムへのフリになったと思う。

 

股に挟んだ時点でほとんどの人がパイルドライバーだと思った所、実は肩の高さまで持ち上げてのパワーボムだった、と言うインパクトは非常に強く、観客のどよめきがそれを物語っている。この年の年間最高試合賞は年末の天龍VSホーガンだったのだが、大多数のファンにとって1991年と言えば鶴田VS三沢か、このG1決勝である事は間違いなく、1988年に藤波VS猪木が大賞に選ばれなかったぐらい不可解な選考だったと言える。

 

 

 

 

 

 

この日は断片的に見ていたのであるが、武藤の人気を考えると、それまでの流れを知らない私としてはどうして名勝負になりえないシンとのシングルを組んだのか甚だ謎である。当時の新日本のトップと言えば長州力であり、続いて復帰したばかりの藤波辰爾、そして次世代を担う闘魂三銃士、という序列であったのだが、人気面で言えば武藤がずば抜けていたと思う。

 

なので、明らかにスター性が頭抜けている武藤がまず大プッシュされるべきなのに、新日本はそうはせずに闘魂三銃士をバランスよく売り出そうとしていた。これは、後に理解出来るのだけれども、ようは過去の大量離脱の経験から、突出したエースが突然消えてしまうとにっちもさっちも行かなくなってしまうため、昔の全女のいわゆる「トロイカ体制」のように、複数スター制を敷いたのだろう。

 

それは新日本自らがのちにまた証明する事になるので、一応成功はしたとは言えるのであるが、それでも当時は明らかに突出したかっこよさの武藤がまだ横一線と言うのは謎だったものである。まあそれはさておき、久々に新日本を見て真っ先に惹かれたのが、やはり武藤敬司だった訳である。

 

その頃はまだ中継を見れない日の方が多かったのだが、1991年3月のスターケードin闘強導夢は見る事が出来た。ただ、この時は武藤ではなくムタとしての登場であったのだが、当時はアメリカでムタとして成功していた事が全く知らず、単にカブキのパチモノだと思ってしまったのである。一緒に観ていた姉も、「カブキの真似じゃん」と言っていたものだ。

 

試合は可もなく不可もなく、と言った感じであったが、フィニッシュが毒霧からのボディアタックと言うのが若干どっちらけだった。1990年代半ばぐらいから毒霧でも客が沸くようになったのであるが、当時は毒霧は完全な反則、卑怯な手段と言うのがファンの認識であり、相手の顔面に吹いたらブーイングの嵐だったのである。

 

当時はまだ80年代からのファンが多かったから、毒霧自体はカブキで見慣れていたとは言え、そのカブキは滅多な事では試合中に相手に対して吹く事はなかった。私が覚えている限りでも、試合後の乱闘中にハル園田に対して吹いたのを覚えているぐらいである。なので、あくまで毒霧はデモンストレーション用、相手の顔面に吹くなどと言うイメージなどまるで湧かなかったので、試合中に顔面に吹き放題のムタへの反発はかなり大きなものがあったのだ。

 

 

 

 

 

 

少し前に武藤敬司の引退試合の概要が発表されたので、今回からは武藤を語っていこうかと思う。

 

武藤が新日本プロレスに入門したのは1984年の4月、そしてデビューが9月、つまり私がプロレスファンになった時はすでにプロレスラー武藤敬司は存在していた訳である。しかし、当然当時はテレビに出る以外のプロレスラーは知らないし、1985年から刊行された週刊ゴング増刊のオールスターカタログでも、当時は若手は未掲載だったので、まだ武藤のむの字も知らなかった。

 

ただ、武藤のテレビマッチ登場はかなり早く、実際の初登場は分からないが、新日本プロレスワールドでは1985年9月のトニー・セントクレア戦が最古のものとなっている。最初の海外遠征を経て帰国するとすぐにトップグループに入れられ、つまりはテレビマッチにもしょっちゅう登場していたと思うのであるが、この当時において武藤の記憶は全くない。

 

まあ、その頃になると前にも触れたように、UWFスタイルが退屈極まりなかった私は新日本にどうしてものめり込む事が出来なかったし、当然雑誌も読んではいなかったのでどの試合を見たのかすら覚えていないのである。その後、一旦プロレスを見るのを完全に止めてしまったので、武藤敬司の試合を始めて見たのは1990年後半頃になってからだった。

 

もちろん、誰との試合かは全く覚えていないとは言え、ムーンサルトが決め技と言うのは非常にインパクトがあり、闘魂三銃士の中では一番最初に目に焼き付いたレスラーであった事は間違いない。私がプロレスを見始めた頃はすでに初代タイガーは引退しており、2代目もムーンサルトだけは何故か継承しなかったので、あの独特の高速ムーンサルトは大変衝撃だったのだ。

 

また、マスカラスのイメージからか、寝ている相手へのプレスより、立っている相手へのアタックの方が強いと思っていたので、寝ている相手へのムーンサルトで決め技になるというのも驚いた。まあ、立っている相手にはやりようがないので、プレスなのは当然なのであるが、武藤のようなヘビー級が決めるというのは大変驚いたものである。

 

そして、私が覚えている最古のシングルマッチが、浜松からの特番であったタイガー・ジェット・シン戦である。

 

 

 

 

 

 

そして、2000年末のヘンゾ・グレイシーとの一戦である。この大会は元々は関西系列のテレビ局が収録しており、その映像にテレ朝の真鍋アナウンサーらがアフレコしたものを、ワールドプロレスリング枠内で放送したはずだったと思う。ただ、放映したのは、武藤敬司が初めてスキンヘッドを披露した髙田と組んでのタッグマッチと、桜庭和志がコーナーポスト上でケンドーカシンの腕を極めてのギブアップという謎決着の2試合だけだったかと思う。

 

つまり、私はヘンゾとの試合はテレビで見た記憶がなく、10年近く経って初めてYouTubeで見たのである。しかし、その映像も何度も上がっては消されてしまったので、今では見る事が出来ないはずである。ゲストに赤井英和氏と和泉修氏、そしてターザン山本と、実況は伊津野亮氏(これは自信ない)と言う、なかなかの豪華メンバーだけあって、これだけでも聞きごたえがあったものだ。

 

しかし、当然主役は猪木である。当時すでに57歳であった猪木だが、Tシャツを脱ぎ見事に引き締まった身体を晒上げた瞬間は、会場からも放送席からも感嘆の声が溢れたものである。試合自体はエキシビジョンマッチだけあって、MMAではまず決まらないであろうダブルアームスープレックスや、コブラツイストなどを披露していったものの、よくあの厳格なグレイシーファミリーが許可したものだ。

 

5分間ながら非常に見ごたえがあったので、何故ワールドプロレスリング内で放送されなかったのか正直不満である。その後、2001年の猪木祭りにおける紅白仮面らと、そして2003年の同大会における藤波辰爾とのスパーリングが私が覚えている限りのエキシビジョンマッチである。前者は途中まで何が何なのか意味不明だったのだが、それでも最後紅白仮面に対して卍固めを決めた瞬間の大歓声は、今見ても最高である。

 

今だと新日本でもWWEでも、「これが決まれば終わり」と言うフィニッシャーで試合を決めるのがほとんどであり、「これが出れば終わり」とファンも決めつけてみている事がほとんどであるが、昭和の時代のトップレスラーはここ一番でしか出さない必殺技が多く、何で仕留めるのかと言う楽しみがあった。

 

現役晩年の猪木で言えばやはり卍固めであり、普段の地方のタッグマッチなどではまず見る事が出来なかった。それ以上にレアだったのがジャーマンスープレックスであったのだが、ブリッジが衰えた晩年としては、やはり最高の技と言えばアントニオ・スペシャルこと卍固めに尽きた。