少し前に武藤敬司の引退試合の概要が発表されたので、今回からは武藤を語っていこうかと思う。
武藤が新日本プロレスに入門したのは1984年の4月、そしてデビューが9月、つまり私がプロレスファンになった時はすでにプロレスラー武藤敬司は存在していた訳である。しかし、当然当時はテレビに出る以外のプロレスラーは知らないし、1985年から刊行された週刊ゴング増刊のオールスターカタログでも、当時は若手は未掲載だったので、まだ武藤のむの字も知らなかった。
ただ、武藤のテレビマッチ登場はかなり早く、実際の初登場は分からないが、新日本プロレスワールドでは1985年9月のトニー・セントクレア戦が最古のものとなっている。最初の海外遠征を経て帰国するとすぐにトップグループに入れられ、つまりはテレビマッチにもしょっちゅう登場していたと思うのであるが、この当時において武藤の記憶は全くない。
まあ、その頃になると前にも触れたように、UWFスタイルが退屈極まりなかった私は新日本にどうしてものめり込む事が出来なかったし、当然雑誌も読んではいなかったのでどの試合を見たのかすら覚えていないのである。その後、一旦プロレスを見るのを完全に止めてしまったので、武藤敬司の試合を始めて見たのは1990年後半頃になってからだった。
もちろん、誰との試合かは全く覚えていないとは言え、ムーンサルトが決め技と言うのは非常にインパクトがあり、闘魂三銃士の中では一番最初に目に焼き付いたレスラーであった事は間違いない。私がプロレスを見始めた頃はすでに初代タイガーは引退しており、2代目もムーンサルトだけは何故か継承しなかったので、あの独特の高速ムーンサルトは大変衝撃だったのだ。
また、マスカラスのイメージからか、寝ている相手へのプレスより、立っている相手へのアタックの方が強いと思っていたので、寝ている相手へのムーンサルトで決め技になるというのも驚いた。まあ、立っている相手にはやりようがないので、プレスなのは当然なのであるが、武藤のようなヘビー級が決めるというのは大変驚いたものである。
そして、私が覚えている最古のシングルマッチが、浜松からの特番であったタイガー・ジェット・シン戦である。