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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

そして、2000年3月に行われた滝沢秀明氏とのエキシビジョンマッチである。滝沢氏が大のプロレスファンと言うのはすでに広く知られていたのであるが、それでもさすがにジャニーズと猪木の対戦はないだろう、と賛否両論だったものだ。因みに、他のジャニーズではTOKIOの国分太一氏もプロレス好きであり、「リングの魂」に出演した際にはグラン浜田を熱く語っていたものである。

 

しかし、いざ始まってみると、レフェリーの藤原喜明のアシストもあり会場は大盛り上がり、立派にプロレスが成立していたものである。最後は猪木がスリーカウントを取られるというまさかの展開であり、私的には少し不満も覚えたのであるが、当然ワイドショーも大きく扱い、さらにコンサートとは違い当然写真は自由なので、ジャニーズのファンも多く観戦していたそうである。

 

そして、この試合がメインでなかったにも関わらず、「これだけ見て帰るのは失礼」と最後まで残って観戦していたというのだから素晴らしい。ただ、この大会のメインが確か橋本が、4月に試合をするはずの小川直也と唐突にタッグを結成、しかも会場入り時に村上和成に襲撃され流血した事もご丁寧にマイクで説明するなど、正直苦笑な展開だったものだ。

 

そして、この大会も当然DVD化されていたと思うのだが、数年後になんとダイソーでビデオCDとして発売された。巷ではDVDとされる事もあるが、こちらは1990年代半ばに東南アジアで爆発的に普及したビデオCDである。まあ、基本一般的なDVDプレイヤーでも再生出来るし、日本ではビデオCDは普及に至らなかったので、勘違いするのも致し方ないのであるが、まあビデオCDと言う事で画質はVHSの3倍程度の代物である。

 

私はこれが話題となった頃に、市内のダイソーまで行き入手したものである。価格は100円で買えたか覚えてはいないが、仮に500円ぐらいだったとしても十分お買い得だったものだ。当然、ジャケットにはこの試合の事が大きくフォーカスされており、滝沢氏目当てで買った人も少なくなかっただろう。

 

 

 

 

触れるのを忘れてしまったが、猪木は引退後にも私が覚えている限り、2試合だけエキシビジョンマッチを行った事があった。ひとつめは、2000年の3月、メモリアル力道山2にて行われた滝沢秀明戦、そして同年の大晦日に行われた第1回猪木祭りにてのヘンゾ・グレイシー戦である。

 

しかし、それ以前にも行った事があった。その際たるものは、1995年頃に当時フジテレビの土曜日夜に放映していた「とんねるずのハンマープライス」におけるエキシビジョンマッチである。当然、オークション形式で行われたのだが、今ならYouTubeで一部始終見れるのでそちらをご覧になってくれた方が早いだろう。

 

この番組は当時ほぼ毎週見ていたので、当然この回も見ていた。猪木信者である石橋貴明氏が司会であり、当然落札者も相当な信者、かつプロレス研究会所属だったというので相当なものである。しかし、いくら研究会所属だったとは言っても所詮は素人、そんな素人相手に試合を成立させ、客席を大いに沸かせる事が出来たのは当然「ほうきを相手にもプロレスが出来る」とされた猪木の力量あってのものである。

 

最後はローキックの連発から卍固めを決めるという、猪木信者にとっては夢のようなコンビネーションで試合は幕を閉じた。見ている側も非常に楽しめた一戦であったのだが、実は猪木の凄さをさらに実感する事となったのはこの後の事である。これに味をしめた番組は、私が覚えている限りでは橋本真也と、アンディ・フグも同形式のエキシビジョンマッチを行った。しかし、アンディはともかく、橋本は相手の良い所を全く引き出す事も盛り上げる事もせず、叩き潰すだけで終わったかと思う。

 

もちろん、橋本もプロレスを舐めるなと言う気持ちがあった事は間違いなかったとは思うのであるが、それにしても素人相手に全くプロレスをさせず、叩きのめすだけで終わったのはどうなのか、と思ったものだ。この辺りで猪木との力量の違いを目の当たりにしたものである。そりゃ猪木はプロレスの天才なので、比べるほうが間違っているかも知れないのだが、あまりの内容の違いに唖然とした事も確かである。

 

それ以外も、Wikipediaを見て思い出したが、高田延彦に対してもオファーがあったものの、プライドの高い高田は「プロレスを舐めるな」と一蹴、代わりにUインター道場1日体験なるものを行った。これも放送は見ていたのだが、Wikipediaを読んでから思い出した。つまりそれだけ印象に残らなかったという事である。

 

 

 

 

 

これまで触れてきたよう、私が一番熱狂していた時代は闘魂三銃士や四天王プロレス、そしてUWF系全盛期であったので、猪木信者と言う訳では全くなかった。むしろ、リング上の主役は彼らなのに、90年代前半ですら一般人の思いつくプロレスラーは相変わらず馬場や猪木であった事に嫌気がさしていたほどである。

 

しかし、言うまでもなく今では2人の偉大さと言うのは嫌と言うほど認識している。つまり、もちろんテレビが絶対的な主役だった時代背景もあるとは言え、新日本のトップであるオカダや棚橋、そして内藤らを持ってしても、全盛期の馬場と猪木の知名度には逆立ちしてもかなわない、と言う事を今更ながら実感しているからである。

 

プロレスラーでトップを張る絶対的な条件のひとつが、とにかくカッコいい事だ。それだけを見れば、今の新日本のトップなどは見事にイケメンを揃えており、そうでない連中はとにかくヒールになるしかない、と言う図式が見事に成立している。しかし、プロレスの場合はイケメンだけでは人気が出る事はなく、それプラスアルファの何かが必要なのだ。いわゆる言葉では表現出来ないカリスマ的な魅力であるのだが、その点が全盛期の猪木はあまりにも突出しすぎているのだ。

 

猪木の全盛期、つまりはワールドプロレスリングが金曜夜8時だった時代は、トップレスラーの姿と言えばアントニオ猪木だった。つまり、猪木の姿そのものが、プロレスにおける普遍的なトップレスラーと世間は認識していた。しかし、その後猪木に代わってトップにならなければならないはずの、藤波、長州、前田、高田らですらスターにはなれても、世間に届くようなスーパースター、ゴールデンタイムを張るスーパースターにはなりえなかった。

 

もちろん、彼らは何度も大会場でメインを張り、多くのファンを動員はしてきたとは言え、それはあくまでプロレス村の中でのもの。猪木のようにプロレスの枠を超えた大衆的なスーパースターの域に到達する事はかなわなかった。もちろん、それは現在のオカダや内藤らもそうである。しかし、ゴールデンタイムのおかげもあるとは言え、知名度に関して言えば彼らよりも、今この令和の時代となっても藤波や長州の方が一般的知名度は上であろう。

 

現在のトップですら藤波や長州にはかなわない、つまりは猪木となると雲の上どころか天上界の存在である。だからこそ、今となって猪木の凄さと言うのを嫌と言うほど実感したのだ。

 

 

 

 

 

この頃、いくつか猪木関連の本を読んでいた。覚えている限り、「アントニオ猪木の謎」「アントニオ猪木自伝」そして話題作となった「1976年のアントニオ猪木」である。「アントニオ猪木の謎」は、プロレスラーとしてではなく主に政治家時代の話が語られており、議員になる前からJRは顔パス、飲酒運転の検問でも猪木が挨拶したら警官が敬礼してノー検査と言うエピソードが個人的には好きだった。

 

「アントニオ猪木自伝」は、おそらく猪木の自伝的本では最もスタンダードなものだと思う。これは前述の著書の著者がゴーストライターとしてまとめたものらしいが、猪木が最初に結婚したアメリカ人女性の話は私もこれで初めて知ったクチである。それ以外にも、猪木の歴史が余すところなく語られており、猪木を知る上では欠かせない本である。

 

「1976年のアントニオ猪木」は、その後柳澤健氏が何度も上梓する事となる「~年」シリーズの記念すべき第1作目だ。この本が柳澤健氏の名前を有名にしたと言っても過言ではないのであるが、内容的には批判的な面も多く読んでて気持ちが良くなる類の本でもない。特に、新間寿氏と猪木が仲違いしていた頃に上梓された事もあり、新間寿氏の「アリ戦は立ってのキックが禁止ではなかった」説をほぼ真実として描いているので、どうも読んでいて気分の良いものではないのだ。

 

さて、見事に議員に返り咲いた猪木であるが、その直後から北朝鮮渡航を繰り返すなど、批判の格好の的となったため、正直個人的にはあまり良い気分がしなかったものである。猪木が叩かれるのも気分悪いし、何よりどうして敵国である北朝鮮にそこまで拘るのかも意味が分からなかった。これで拉致被害者の件が少しでも前進してくれれば何よりだったのであるが、その辺りも良く分からずのままであったし、非常に複雑な思いで見ていたものである。

 

そして、私自身は2018年の1月4日のドーム大会をきっかけに、再び新日本プロレスを見るようになるのであるが、まあ当然の事ながら猪木が関わっていた時代とはかけ離れた光景がそこにはあった。辛うじてライガーや鈴木みのる、そして第3世代らの顔もあったものの、興行の顔は完全にオカダ、内藤、棚橋らに入れ替わっていた。当然猪木のいの字もなく、それどころか猪木の名前を出す事すら憚られる雰囲気があったものだ。

 

そんな時、パンデミック直前の2020年1月6日、大田区体育館におけるライガーの引退式において、VTRながらも久々に猪木が新日本の会場に登場した。この時は私も現場にいたのであるが、驚きと同時に複雑な思いを受けたものである。そして、翌月の北海道の試合後、オカダが唐突にアントニオ猪木の名前を出し、その後Number誌上にて対談が実現。

 

ほとんど猪木と接点がなかったはずのオカダが、そこまで猪木に熱心なのも不思議だったが、結局病に冒された猪木の新日本登場は叶う事はなかった。

 

 

 

 

 

一時は栄華を誇ったPRIDEも、反社との繋がりが明るみに出た直後にフジテレビとの契約を切られ、盛者必衰のごとくあっさりとその歴史を終えてしまう。しかし、これでプロレス界に流れが戻ったとかそういう訳ではなく、依然として新日本プロレスは低迷したままだった。まあ、その最たる原因としては格闘技の影響も確かにあったとは言え、いわゆるイケメンでカリスマ性に溢れるスターが皆無だったことが一番だったと思う。

 

いわゆる当時は「第3世代」が中心であり、中西などを除けばプロレスの上手い連中が集まっていたとはいえ、やはり客商売である以上かっこよくてナンボである。新日本の歴史を紐解いても分かるよう、猪木を筆頭に、佐山、前田、高田、武藤、船木と言うイケメンの系譜は受け継がれてはきたのだが、ここに来て突然それが途絶えてしまったからである。一応、この頃には内藤哲也などが入門はしているのであるが、そんな内藤でもLIJでブレイクを果たすまでには10年近い歳月が必要だった。

 

そして、新日本を離れた猪木は独自でIGFを立ち上げるも、元週刊ファイトの井上氏からも指摘されていたよう、かつてのUWFのような格闘プロレスは観客のニーズからは完全に離れており、大ブレイクを果たす事はなかった。一応、プロレスと格闘技の試合は色分けされていたようであり、私もヒョードルと石井慧が対決した時の大会はニコニコ動画のPPVで見た事があるぐらいである。

 

まあ、猪木は精力的に活動していたようであるが、私自身は熱心にプロレスや格闘技を見ていた訳でもないし、PRIDEから枝分かれした団体も長続きする事はなくTBSによる地上波の中継も打ち切られるに至った。しかしそれから数年後の2013年、日本維新の会から猪木が3度目の参議院選挙への立候補を表明、見事2度目の当選を果たす。

 

この時の新宿駅や川崎駅での様子が今でもYouTubeで見る事が出来るが、びっくりするような人だかりで今見ても嬉しくなってしまうほどである。おそらく大半は全盛期どころか、試合も見た事のない人ばかりであったと思うのだが、それでもこれだけの人たちを引き付けられる事が出来るのだからやはりその存在感は別格であり、現役のレスラーが逆立ちしてもかなわない、と実感させられたものだ。

 

 

 

 

猪木は変わらず格闘技の神様的な扱いを受け、2002年も猪木祭りを成功させるなど一見順風満帆そうだったが、2003年に格闘技界が分裂した頃から雲行きが怪しくなる。PRIDEとK-1が分かれるのは致し方ないとしても、猪木はせめてPRIDE側にそのまま付いていればいいのに、と思ったものだが、分裂の内情は未だに良く分からない部分がある。

 

結局、2003年は前代未聞の民放3局が大晦日に格闘技興行を開く形となったが、ボブ・サップVS曙を持ってきたTBSが断トツで民放No.1、次点でPRIDE男祭り、そして日テレの猪木祭りが一人負けと言った感じだった。まあ、どうみても猪木祭りが一番ショボかったので、予想通りと言う感じであったのだが、結局猪木はPRIDEにもK-1にも戻る事が出来ずに、新日本への介入の頻度を高める事となってしまう。

 

この頃はすでにネットがある程度普及していたので、専門誌を読まずともプロレス界の流れが分かるようになっていた。この辺りの事は私もすでに記憶があやふやであるが、純プロレスを貫くノアが辛うじて元気なだけで、格闘技ブームの煽りをモロに受けた新日本系の団体は、かつてないほどの暗黒時代へと突入してしまう。

 

以前にも冬の時代は存在したが、この時は本当に出口が見えないほどの暗黒時代であり、正直プロレスそのものが世の中から消えてしまうのでは、とすら思ってしまったものである。まあ、実際は前述のようにノアが2年連続でドーム大会を成功させ、しかもいずれの大会からも年間最高試合賞を輩出するなど、完全に新日本を食っていた時代であったが、のちに絶対王者である小橋の腎臓がん発覚と言う大変な事態が発覚してしまう。

 

そして、前回触れたように猪木自ら株式をユークスに売却し、新日本から完全に離れる格好となりドーム大会などからも一切姿を消す事となる。ユークスと言えば「闘魂烈伝」を開発した会社としてゲーマーにも有名であったが、この頃はプロレスは完全に下火、ゲームも以前ほど売れなくなってしまったので旨味が少なかったに違いない。

 

 

 

 

話は前後するが、2001年にプロレス史上最大とも言える激震が走る。言うまでもなく、元新日本プロレスレフェリーが出版した「流血の魔術・最強の演技 すべてのプロレスはショーである」だ。もしかしてそうかも知れない、でもそうだとは信じたくない、と真実には目を背けてきたファンが、全ての真実を知る事となった衝撃の本である。発売前から一部で話題沸騰であり、私も発売日に大き目な本屋に行ってまですぐに買ったものである。

 

私がまず思った事としては、「やっぱりそうだったか」である。プロレスを見ていれば不自然な動きや、あからさまにお互い合意の上で動いているだろう、的なムーブが嫌でも目につくので、子供でもその辺りには自然と気が付くものである。しかし、団体側から正式に認めていない以上、ファンもそれを信じる以外はないので、疑いつつもそうではないと信じていたものだ。しかし、これにより全てが真実の元にさらされる事になり、さらに猪木の異種格闘技戦の大半まで実はプロレスだった、と言う事まで暴露されてしまった。

 

確かに、格闘技戦の大半はお互い良い所を見せつつの攻防なのに対し、アリ戦とペールワン戦だけが、他と比べても明らかに異質である事は感じてはいたのだが、実はそういう訳だったのである。まあそう言う訳で、この本を読んでから数年はかなりプロレスに冷めてしまった事も確かだ。同時期にPRIDEが全盛期を迎えていた事も大きかった。

 

これをきっかけに、高田延彦が全てを語った「泣き虫」を始め、プロレスの真実を前提とした本がいくつも出版されていき、その影響でプロレス専門誌紙の部数も大幅に落ちるなど、プロレス業界はかつてないほどの大不況を迎える事となってしまう。まあ、普通に考えたらPRIDEがあそこまで出てきた時点で、これ以上真実を隠し通すのは不可能だと思っていたし、いずれはやってくるものだっただろう。

 

ただ、それでもルールが整備されていない時代に、アリとペールワンに真剣勝負を挑んだのは間違いないし、またそれを実践出来るほどアントニオ猪木の強さは本物だった、という事が改めて証明された事に関しては喜びであり、誇りでもあった。IWGPでの猪木失神事件や、伊勢丹前襲撃事件などの顛末には驚いたものの、当然猪木自身が真実を語る事もなく、WWEの台頭もあって次第に高橋本の騒ぎも沈静化していった。

 

しかし、猪木自身が未だオーナーを務めていたはずの新日本は沈下する一方であり、あの有名な大阪ドームへの介入や、悪名高きバトルロワイヤルの開催など、純粋にプロレスを見たいファン、そしてこれからの新日本を支えるはずの棚橋や中邑にとっては、正直煙たい存在となってしまった。社長交代も何度か起きた挙句、遂に株式をユークスに譲渡し、新日本の経営からは完全に離れる事となってしまう。

 

 

 

 

 

結局、大反響を生んだ橋本VS小川戦は、遂に2000年4月に金曜ゴールデン生中継にまで発展し、平成のプロレス界において最も世間にまで届いた闘いとなった。視聴率も瞬間最高で24パーセントを超え、この時の貯金が生きたためにその後数年に渡ってゴールデン特番が放映されていく。しかし、プロレスは連続ドラマ性が何より重要、単発でゴールデン放映された所で一般視聴者はついていけるはずもなく、また話題性だけを考え中身ゼロのカードを乱発したせいもあり、10年以上にも渡る暗黒時代のドアを開けてしまう事にもなってしまった。

 

まあそれでも、まだ2000年はそこそこ客入りも良かったはずであるが、どういう訳だか当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったPRIDEに、猪木がエグゼクティブプロデューサーと言う肩書で深く関わる事となる。裏事情は「裏PRIDE読本」と言う本において語られているが、まあいわゆる広告塔的な存在だった。

 

最初に登場したのは確か西武ドームであったかと思うが、これ以降常にPRIDEの会場に顔を出すようになる。同年末には大阪ドームで初めての猪木祭りを開催、この時は通常のプロレスであったのだが、翌年藤田和之がK-1のリングでミルコに敗北した辺りから猪木軍VSK-1的な香りが強くなっていき、遂にTBSにおいて初の大晦日格闘技興行が開催された。

 

この辺りから猪木自身も一般メディアへの露出が増えていき、大晦日前には「アッコにおまかせ!」にまで生出演。安田忠夫がバンナに奇跡の勝利を果たすと、2002年には安田や藤田と共にダウンタウンDX、さらにはフジテレビにおいてキンキキッズとの共演も果たしていく。私が思うに、特にキンキとの共演を果たした際、それまで一般人はもちろん、ファンでさえ見る事のなかった「アントンギャグ」の一面が知られるようになり、「実は強いだけでなく面白い人」としての側面が知られた事で、各種方面から引っ張りだことなっていったと思う。

 

もちろん、闘魂ビンタもすっかり市民権を得ており、猪木自身はうんざりしていたようだったが、行く先々でビンタが求められるようになっていった。私もされたくて仕方がなかったが、あいにくプライベートで見かけるような事は皆無であり、それは今でも本当に心残りである。

 

 

 

 

引退試合のセレモニーは、特番はもちろん本放送枠でも詳細に放映された。当然、あのスピーチも完全に放映されたのであるが、ほとんどの人はこの時に「道」を知ったはずである。ただ、若干文章は異なるものの、ウッドベルから「炎のファイター」が復刻CD化された際のライナーに紹介されていたので、私自身はすでに「道」は知っていた。

 

しかし、当然ここからその「道」は一気にファンの知られる所となり、様々な人たちの心を揺れ動かしたものである。今でもなお、私が一番好きな言葉のひとつである。そして、完全引退を果たした猪木はその後佐山聡と組み、ご存じUFOを旗揚げするのであるが、実はこの年の6月ぐらいで週刊プロレスを買うのを止めてしまい、中継も見なくなってしまったのでその後しばらくの動きは実は全く分からないのである。

 

逆に、全日本は時間帯が繰り上がった事で、比較的に良く見たのであるが、新日本は1時間枠とは言え、すでに深夜2時ぐらいになっていてしまったから、録画なしでは見る事はほとんど出来なかったのである。なので、当然その当時の猪木の動きも知る由もない。さすがに夏のG1クライマックスぐらいは見たかと思うが、さすがに決勝が橋本VS山崎では、結果が容易に理解出来てしまい、案の定橋本の勝利となったので、特に何の思い入れもなかった。

 

と言う訳で、時間は一気に飛んで1999年1月4日のあの大事件である。この時は当日深夜に1時間半枠で放映されたのであるが、目玉と言えば遂に初参戦を果たした大仁田厚のみだった。永島氏によると、大仁田厚の新日本登場に猪木は大反発し、大喧嘩となったそうであるが、今思えば猪木ですら警戒するというのは大仁田厚に対する最上級の評価ではなかったかと思う。

 

しかし、そんな大仁田厚の光を消すためか、猪木にけしかけられた小川直也は伝説の大事件を起こしてしまう。近年、小川自身から真実を語られたが、まあ大方の予想通り過ぎて驚きもしなかった。当時の小川にそこまで命令できるのは猪木以外あり得なかったからである。そして、猪木の言う事を聞いてくれない坂口から、イエスマンの藤波に強引に社長の座を禅譲させ、10月にはプロレスの枠内ながら再戦、小川の価値はさらに高まり、対照的に橋本の価値は暴落。

 

この時の再戦は、久米宏が夏休みなのを良いことにニュースステーションで当日速報の大特集、リングの魂におけるダイジェストでも7パーセントを超える驚異的な視聴率を記録するなど、久々に世間まで届く大ヒット抗争となった。まさに猪木のしてやったりである。そして、ニュースステーションがプロレスを扱わなかったのも久米宏が居るという理由だけであったことも、ファンは改めて知る事となった。元々日テレやテレ朝への入社希望は、かなりの部分でプロレスファンが多かったというし、普通に考えたら当たり前の事である。

 

 

 

 

 

引退試合が発表されてからの唯一の試合である、正道会館の角田信明氏とのエキシビションマッチが3月の愛知県体育館にて唐突に組まれた。正直、一応エキシビションとは言え、このタイミングでしかもプロレスラーではない外様の選手と何故新日本のリングでやらなければならなかったのか今でも全く意味不明である。これでは新日本の選手の立場がないのでは、とも思ったし、正直個人的には複雑な気持ちだった。

 

そして、当然引退試合の実況は古舘伊知郎氏が行う事が遥か以前より2人の間で決定していたので、メイン実況の辻よしなり氏にとっては最後の猪木の実況でもあった。さらに、引退試合の直前に、当時テレ朝が放映していた午後6時台のニュース番組に、猪木がゲスト出演して心境を語った。ちょうど司会が、当時はまだバリバリ一線で活躍、かつプロレスファンである田代まさしであったのだが、引退を決めたのはたまたま4月4日が空いていたから、と言うだけの事だったと言う。

 

それが本当だったのかどうかは知らないが、この頃はゴマシオこと永島氏曰く、「ドーム興行を増やさないと会社が持たなくなってきた」とのちの著書で触れているし、また4月のドームが前年から恒例化していった事からも、元々抑えていたのは間違いはないはずである。カウントダウンもそれなりに進んだし、ちょうど潮時だと判断したのだろう。

 

引退試合はさすがのテレ朝もゴールデンタイムでの放映となり、翌々日の月曜午後7時から2時間枠での放映となった。しかし、この時代の月曜日の裏番組はかなり手強く、視聴率は確か10.4ぐらいだったかと記憶している。まあ、視聴習慣と言うのはなかなか変わらないし、マニアはビデオに録画するので唐突に放映した所でこの程度かも知れないが、それでも天下のアントニオ猪木の引退試合がこの程度とはショックだったものだ。

 

肝心の引退試合自体は、大方の予想を裏切り3試合目のドン・フライとなり、 しかも4分9秒という非常に短いものだったため、番組の大半は猪木の生涯で終えたものである。ただ、当時はYouTubeとかはなかったので、ダイジェストとは言え全盛期のカッコいいアントニオ猪木が流れただけでも嬉しかったものだ。石橋貴明氏もインタビューに答えていたが、名勝負にフルタイムのドリー・ファンク・ジュニア戦を挙げていたのはさすがである。