追悼・アントニオ猪木・その22 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

結局、大反響を生んだ橋本VS小川戦は、遂に2000年4月に金曜ゴールデン生中継にまで発展し、平成のプロレス界において最も世間にまで届いた闘いとなった。視聴率も瞬間最高で24パーセントを超え、この時の貯金が生きたためにその後数年に渡ってゴールデン特番が放映されていく。しかし、プロレスは連続ドラマ性が何より重要、単発でゴールデン放映された所で一般視聴者はついていけるはずもなく、また話題性だけを考え中身ゼロのカードを乱発したせいもあり、10年以上にも渡る暗黒時代のドアを開けてしまう事にもなってしまった。

 

まあそれでも、まだ2000年はそこそこ客入りも良かったはずであるが、どういう訳だか当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったPRIDEに、猪木がエグゼクティブプロデューサーと言う肩書で深く関わる事となる。裏事情は「裏PRIDE読本」と言う本において語られているが、まあいわゆる広告塔的な存在だった。

 

最初に登場したのは確か西武ドームであったかと思うが、これ以降常にPRIDEの会場に顔を出すようになる。同年末には大阪ドームで初めての猪木祭りを開催、この時は通常のプロレスであったのだが、翌年藤田和之がK-1のリングでミルコに敗北した辺りから猪木軍VSK-1的な香りが強くなっていき、遂にTBSにおいて初の大晦日格闘技興行が開催された。

 

この辺りから猪木自身も一般メディアへの露出が増えていき、大晦日前には「アッコにおまかせ!」にまで生出演。安田忠夫がバンナに奇跡の勝利を果たすと、2002年には安田や藤田と共にダウンタウンDX、さらにはフジテレビにおいてキンキキッズとの共演も果たしていく。私が思うに、特にキンキとの共演を果たした際、それまで一般人はもちろん、ファンでさえ見る事のなかった「アントンギャグ」の一面が知られるようになり、「実は強いだけでなく面白い人」としての側面が知られた事で、各種方面から引っ張りだことなっていったと思う。

 

もちろん、闘魂ビンタもすっかり市民権を得ており、猪木自身はうんざりしていたようだったが、行く先々でビンタが求められるようになっていった。私もされたくて仕方がなかったが、あいにくプライベートで見かけるような事は皆無であり、それは今でも本当に心残りである。