猪木は変わらず格闘技の神様的な扱いを受け、2002年も猪木祭りを成功させるなど一見順風満帆そうだったが、2003年に格闘技界が分裂した頃から雲行きが怪しくなる。PRIDEとK-1が分かれるのは致し方ないとしても、猪木はせめてPRIDE側にそのまま付いていればいいのに、と思ったものだが、分裂の内情は未だに良く分からない部分がある。
結局、2003年は前代未聞の民放3局が大晦日に格闘技興行を開く形となったが、ボブ・サップVS曙を持ってきたTBSが断トツで民放No.1、次点でPRIDE男祭り、そして日テレの猪木祭りが一人負けと言った感じだった。まあ、どうみても猪木祭りが一番ショボかったので、予想通りと言う感じであったのだが、結局猪木はPRIDEにもK-1にも戻る事が出来ずに、新日本への介入の頻度を高める事となってしまう。
この頃はすでにネットがある程度普及していたので、専門誌を読まずともプロレス界の流れが分かるようになっていた。この辺りの事は私もすでに記憶があやふやであるが、純プロレスを貫くノアが辛うじて元気なだけで、格闘技ブームの煽りをモロに受けた新日本系の団体は、かつてないほどの暗黒時代へと突入してしまう。
以前にも冬の時代は存在したが、この時は本当に出口が見えないほどの暗黒時代であり、正直プロレスそのものが世の中から消えてしまうのでは、とすら思ってしまったものである。まあ、実際は前述のようにノアが2年連続でドーム大会を成功させ、しかもいずれの大会からも年間最高試合賞を輩出するなど、完全に新日本を食っていた時代であったが、のちに絶対王者である小橋の腎臓がん発覚と言う大変な事態が発覚してしまう。
そして、前回触れたように猪木自ら株式をユークスに売却し、新日本から完全に離れる格好となりドーム大会などからも一切姿を消す事となる。ユークスと言えば「闘魂烈伝」を開発した会社としてゲーマーにも有名であったが、この頃はプロレスは完全に下火、ゲームも以前ほど売れなくなってしまったので旨味が少なかったに違いない。