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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

96年は年末の猪木フェスティバルで海賊男と試合し、97年1月4日はウイリー・ウイリアムスとカウントダウン6thとして17年ぶりの再戦を行うが、これが決め技限定マッチと言う謎過ぎるルールであり、猪木はコブラツイストのみで決められるというものだったが、その通りにグラウンドコブラで決着がついた。

 

この頃になると、さすがの猪木も目玉と言う訳にはいかず、UWFインターが解散し、他団体との交流を画策し始めていた新日本は大日本プロレスとの対抗戦を行った。メインは橋本VS長州と言う、目新しさも何もないカードであったが、翌日日曜日の午後15時頃に特番枠で放映された際に瞬間最高17パーセントを記録、平均でも11パーセントを超えて同時間帯においても上位だったというから、プロレス界には明るい話題となった。

 

そして橋本VS小川の初対決が行われた4月の東京ドームにおいても、カウントダウン7thとして猪木はタイガーキングこと復活した初代タイガーマスクと対戦。その後もカウントダウンとは関係ない2試合をタッグマッチで行うが、正直当時の感想としては猪木の存在感はかなり薄くなっていた頃だったと思う。

 

しかし、この前年末に発売されたプレイステーション用ソフトの「闘魂烈伝2」では、猪木が遂に実名でゲーム初登場と言う事で、CMや一般メディアなどではかなりのプッシュがされていたものである。その効果があったかどうかは分からないが、記憶にある限りではファミコン通信のランキングにおいて20万本以上の売り上げを記録したのを見た記憶がある。ファイプロシリーズなどは不明だが、数字で分かる限りこれと続編の3は、プロレスゲームとしては一番の売り上げを記録したはずである。

 

ただ、以上のように、ゲームにおいて猪木が実名初登場と言うのは相当なインパクトがあったものであるが、猪木を基にしたキャラクターは山ほどあった訳だし、また前述のように97年と言う年はセミリタイア後で最も猪木の存在感が薄れた年でもあったので、温度差の違いを実感したものだった。

 

そして1998年春、正式に東京ドームでの引退試合が発表され、その記者会見の内容は一般紙のスポーツ面でも報道された。

 

 

 

 

伝説の10.9興行に私は行く事は出来なかったのだが、ご存じのように会場は史上最高の入りを記録した。この時猪木はゲスト解説であったのだが、同じく解説席にいた東スポの柴田氏によると終始不機嫌だったそうである。案の定、試合後に武藤は怒られたそうであるが、正直自分的には猪木抜きでドームが超満員になった事へのジェラシーもあったかと思う。つまり、ここに来て新日本はようやく猪木抜きで大会を成功させる確信を得た訳だ。

 

話は前後するが、この7月に参議院選挙が行われ、猪木も出馬したのだがスキャンダルによるイメージダウンが祟ったか落選してしまった。「さわやか新党」から出馬した高田延彦も同様である。負債を背負ってもまだ高田は現役を続けるという選択肢があったが、猪木はそうは行かないし、ファンとしてはこれからどうするんだろう、と不安に駆られたほどであった。

 

年末には唐突に「突然卍固め」なるイベントが大阪城ホールで開催、高田の無気力ぶりが際立ったタッグマッチがメインとなり、3本勝負ながら猪木人生最後のスリーカウントを山崎一夫から奪われる。この時はむしろ初代タイガーマスク復活の方がニュースとなり、知らない世代である私は週プロの増刊を読んだだけで胸が躍ったものだ。

 

そして1996年1月4日、武藤VS高田の再戦をはじめ、冬木VS安生など案外目玉カードが並んだこの大会、猪木は久々復帰のベイダーと5thマッチを行う。これこそ猪木セミリタイア後の最後の名勝負と言う声が大きい試合であり、当日券で2階から見ていた私もジャーマンを喰らった時は猪木が死んだと思ったものである。今見ても非常に危険な落ち方をしており、その後のハヤブサや、最近の大谷晋二郎の事故を思うとゾッとするものだ。

 

本当にそれこそレフェリーストップがかかってもおかしくないレベルであったが、なんとそのまま試合続行、チョークスラムにボディプレス、そしてここ一番でしか使わないムーンサルトまで喰らうなど、ファンにとっては心臓が止まりそうなほどの展開が続いていった。しかし、最後はカウンターからの腕ひしぎを極めての大逆転勝利、この時の会場の爆発と言ったらありゃせず、今見ても興奮するほどであるが、あいにく著作権をクリアしていない新日本プロレスワールドでは無音となってしまっている。

 

結局、他の試合が全て吹っ飛んでしまうほどこの一戦のインパクトは強すぎであり、今なお語られる試合のひとつである。そんな伝説的な試合を目の当たりに出来たのは幸運だった。

 

 

 

 

 

3月には藤原喜明との4thカウントダウン戦が行われ、そして4月下旬にはあの北朝鮮での興行が開催。正直、当時の私は海外の事に関しては全くの無知であり、当然日本と北朝鮮の関係なども知らなかった。この頃はまだ金正日が日本人拉致を認めてもいない頃でもあったため、この興行に対する世間からのバッシングもなかったかと思う。

 

しかし、当然当時でも容易に入国は出来ない国である事は間違いはなかったため、ここぞとばかりにテレ朝のニュースステーションのスタッフも現地入りし、当時まだキャスターだった小宮悦子さん自身が現地リポートをしたものである。しかし、メインである試合に関しては、まだ久米宏が現役だったがためにリングだけが映され、それ以外の詳細に関しては全く触れられる事がなかった。

 

2日に行われたこの大会は、2日目のみに猪木が出場したが、それ以外のカードもそれなりに豪華であったかと思う。特に全女絡みの試合などは目を引いたものだが、あいにくテレビ放映は一切されず、されたのはそのメインの猪木VSフレアーぐらいであったかと思う。1980年代には考えられなかった猪木VSフレアーと言う、プロレスの達人同士の夢の顔合わせであったが、ドーム級のカードを異国、しかも北朝鮮で行われたというのは正直勿体なかったという気持ちにさせられた。

 

また、日本のファンにとってフレアーは反則かリングアウト絡みの印象ばかりが強かったため、一本勝負で綺麗にスリーカウントを取られたのを見たものこの時が初めてだったかと思う。当然、フレアーならではのわざとらしい受け身であったが、大イベントを締めるに相応しいカードだった。

 

直後の福岡ドームでは北尾と組んでの出場だったが、正直あまりにも印象に薄い試合であり私もほとんど記憶にない。北尾と組んだ経緯も良く分からないぐらいである。そして、前述の北朝鮮興行でこしらえた大赤字を埋めるため、新日本は長年の怨敵であったUWFインターとの対抗戦を画策、G1クライマックスの試合中のテロップで知った私は大変な衝撃を受けたものだった。

 

 

 

当時の恒例であった9月の横浜アリーナ大会において、猪木VSルスカ戦が行われた。この時は当然会場まで足を運んだ訳であるが、運営側の手違いにより、煽りBGMの時に間違ってルスカが入場してしまって会場に微妙な空気が流れたものである。全日本では入場曲がかからなかったミスが何度もあったが、新日本では珍しかっただけに水を差された感があった。

 

しかし、そんな空気も猪木入場で払拭され、猪木が逆に絞め落とされた時は緊張感が走ったものの、最後は久々のトップロープからのニードロップからのスリーパーが決まって会場は大興奮に包まれた。その後、平成維震軍の自主興行が東京ベイNKホールと言う微妙な会場で行われ、そのメインの越中VSTJシンの特別レフェリーとして猪木が参戦した。

 

この試合は普通に放映された、つまり93年5月の福岡ドーム以来アントニオ猪木がワールドプロレスリングの電波に乗ったのである。これでようやく自粛が解除されたと多くのファンは悟った。そして、1995年の東京ドームであるが、こちらは前年までと比べてもかなりカード編成に苦労した感があり、まだまだ猪木の商品価値は必要だった。

 

そこで行われたのが、カウントダウン3rd格闘技トーナメントと言うこれまた謎な試合形式である。猪木はなんと1回戦でゴルドーと対戦し、もちろんスリーパーで勝利したとは言え、どこかで負傷した猪木は試合後にもう出たくないと泣き言を言ったそうである。しかし、周りは「次はプロレスラーのスティングだから絶対に無理はさせません」と必死に説得、なんとか決勝が開始された。

 

当然、再び「炎のファイター」に乗っての登場だったのであるが、なんとガウンなしでしかも足を引きずっているようにも見えたので、会場が騒然としたものである。その理由は前述の通りだったのだが、当然そんなことはまだ知る由もなかったため、皆不安に駆られたものだった。案の定、試合では全く動けず、最後にスリーパーでスティングを落としての勝利となった。

 

 

 

 

 

8月に購入したLGの4Kモニターの発色がかなりお気に入りであり、現在はPS5とXSXを接続して使用しているのであるが、そうしているうちに24インチのフルHDモニターも欲しいと思うようになったので、安かった事もあってUltraGear 24GN650-BAJPを遂に購入した。

 

これまで使用していたBenQの27インチとの入れ替えなのであるが、27インチでフルHDだとどうしても解像度が足りない感じがして違和感があったのに対し、やはり24インチ、正確には23.8ではあるが、ちょうどいい感じに映る。そのままでも十分綺麗なのであるが、やはりゲーム的にはもう少し鮮やかな方が好みなので、前述の4Kとほぼ同じ調整を施した所、やはりこちらも素晴らしい画質となり大満足である。

 

まあ、同価格帯のIPSパネルであればどこのメーカーもさほど差はないだろうし、事実以前使用していたASUSの24.5インチモデルなどもかなり綺麗に映ったものだ。入れ替えた理由としては、HDRに非対応というぐらいのものであったのだが、若干こちらより高いとは言え十分綺麗でゲーム用途であれば十分である。

 

ただ、ASUSはもう十分使用したし、前述の理由からLGの発色が非常に気に入ったので、今回は最新モデルではないながらもこちらのモデルを選択したという訳である。こちらはPCとしてのメインディスプレイとの他に、Switch用として、そしてもうひとつ余ったHDMI端子には宝の持ち腐れ状態のPS4Proを接続した。いずれも調整が決まった後の発色は息をのむほどの美しさである。

 

BenQのXL2411Kも使用しており、こちらもTNパネルとしてはかなり美しい部類に入り、当然応答速度の違いも実感は出来るものの、それでも発色の美しさに関してはどうしてもIPSとの間には超えられない壁があると実感した。価格もリーズナブルなので、FPSのガチゲーマー以外であればこのLGはかなりお勧めである。

 

 

 

 

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そしてその3月の試合が終わった後ぐらいか、福岡ドームでグレート・ムタ戦が行われる事が決定された。前年があまりにも豪華カードだったが故に、1994年はそれ以上のインパクトがあるカードを出す事は出来ず、この試合が切り札という感じだったのだが、それでも弱さは感じてしまったものである。

 

そして4月4日、テレビマッチの広島グリーンアリーナ大会のこの日は、武藤敬司が天龍の挑発により、なんと試合中にムタに変身して再登場という事件と、橋本が藤波に蹴りまくった挙句、逆さ抑え込みか何かでクイック負け、という波乱が起きた大会として今も記憶されているが、実は猪木も馳と組み、藤原喜明・石川雄規組と試合をしていた。

 

石川と言えば、藤原組が分裂した際にひとり藤原側に付いていった若手として知名度を上げ、タッグながら遂に猪木戦まで実現と、人生どうなるか分からないという事を体現してくれた人間である。当然、この試合もノーテレビだったのだが、雑誌で見ただけにも関わらず印象に残っているカードのひとつだ。

 

さて、天龍戦は全くテレビでは触れられなかったが、さすがに東京よりも集客が難しい福岡ドームともなるとそうはいかず、猪木の映像は一切出さず文字だけのプロモーションが行われていった。そして、ムタも猪木が出れない代わりに、その後も地方会場で突然ムタとして登場するなど、1人プロモーションに気を吐いていたものである。

 

当然、ムタ戦もノーテレビだったのだが、当時新番組だった「リングの魂」において、猪木が勝利した瞬間のナンチャンの様子だけがOAされた。この時は天龍戦のように臨時ビデオも発売されなかったので、当該ビデオがリリースされたのは年末ぐらいだったかと思う。ただ、結果だけは早く知りたかったので、この時は初めて日刊スポーツを買ったものだ。当時の朝刊紙でプロレスを扱っていたのは日刊とデイリーぐらいだったと思うが、裏一面にムタ戦が大きく載っているのを見てすぐに買ったものである。

 

しばらく猪木の試合は行われなかったが、8月にWCWに招かれてスティーブンリーガルと試合をしていた。リーガルと試合をした記憶はうっすらとあるが、1994年だとは全く覚えていなかった。この時代のWCWはNWO前でまだ地味だったし、何より8月と言えばG1クライマックスなのだから、記憶にないのも致し方ないと言える。

 

 

 

 

 

1994年2月24日、新日本プロレスは全席5000円と言う、ファン感謝デー的な大会を日本武道館で開催した。全席という事は当然リングサイドも2階も同じ価格であり、当然発券するまでどこの席になるか分からないため、お得なようで実は不公平感満載である。当初はこれを恒例にする、との声もあったが、結局これが最初で最後となり、プロレス界ならではの「なかったこと」にされた。

 

まあそんな訳で、価格に釣れられてこの私も足を運んだ訳である。前日は幕張メッセのAOUショーに足を運んでいたため、2日連続でビッグイベントとなり、まだ若かったとは言っても疲れが残ったものだ。まあそれはさておき、この日のメインはバトルライガー初登場となった「橋本VSライガー」戦であり、その他の目玉は元小結の安田忠夫のデビュー戦である。

 

しかし、ここはあくまで猪木追悼のページである。大会の途中、スーツ姿でリングに上がった猪木は、田中ケロリングアナにより引退へのファイナルカウントダウン開催が発表された。この1994年の時点では、全盛期の猪木を体験した世代でもまだ30代であったから、まだまだ当時の猪木信者も会場に足を運んでいた時代である。これはYouTubeで見る事が出来るが、未だこの時は猪木が新日本の電波に乗る事はなかったため、おそらく放送時には放映されていないはずである。なので、私自身もこの時の映像を見たのはこれが初めてだった。

 

そして、この映像によるとカウントダウンの詳細は後日、とあったが、実際に引退試合が発表されるまで、何試合行われるかという発表は一切なかった。その翌月、東京体育館で何故か唐突に安田忠夫と組み、蝶野木戸修組との試合が発表された。この時代では珍しい東京体育館での大会、おそらく前売りが不振だったためのテコ入れだったとされるが、この頃は出来るだけ関東での猪木の試合は見たい、という訳で私もそれが発表されてからチケットを買ったものである。

 

一応テレビマッチとは言え、それでも国技館や横アリレベルのビッグマッチではない。なので、案の定というべきか1F後方にはかなりの空席が見えたものである。この時代の新日本のビッグマッチは大方埋まっていたため、何気にショックを受けたものだ。そして、試合も木戸修にかけたスリーパーがチョークを取られての反則負けというグダグダであり、期待はずれもいい所だった。しかし、その後猪木に促された佐山聡が、おおよそ10年ぶりに新日本のリングに上がるというサプライズ。

 

しかし、引退直後から事あるごとにプロレスを批判していた佐山聡、この頃も格闘技重視のスタンスに変化はなかったため、皆が皆歓迎という訳ではなかった。95年末に行われた小林邦昭とのエキシビジョン以降、プロレスに本格復帰しはじめた頃にはアレルギーはすっかり消えていたのだが、この頃はまだプロレスファンからの反発は強かったのである。

 

 

 

 

 

 

ドーム大会の場合は当時から規制退場であったかと思うが、客が待っている間に田中ケロリングアナがトークで和ませてくれた。その直前だったかと思うが、突然「猪木VS天龍」戦はテレビ放送されません、との衝撃のアナウンスが。つまり、まだスキャンダルが尾を引いており、テレビ放送ではこの一戦の事は全く告知されなかった。つまり、テレビ放送のみのファンにとっては最初から「なかったこと」になっているのである。

 

なので、実質セミの「橋本VS蝶野」事の電光掲示板に、「メインイベント」とはっきり示されていたのも、テレビ的に不自然にならないようにするための配慮だったのかも知れない。ただ、もちろん映像には収められているので、大会から2〜3週間後ぐらいに当時新日本が発売していた「闘魂Vスペシャル」の特別版として発売される事がすぐに雑誌にて発表された。

 

いくら闘魂Vシリーズが通常のセルビデオよりかは安いとは言っても、本来タダで見れるファンにとっては余計な出費以外の何物でもない。正直結構迷ったのだが、特典映像に旗揚げのカールゴッチ戦が収録されている事や、試合前の様子なども収録されている事などが決め手となり、発売日に購入した。当時、闘魂Vのビデオはチケットぴあの店頭で売られている事が多かったのだが、これに関してはどこで入手したのか全く覚えていない。

 

もちろん、当時はAmazonどころかネットもない時代なので、どこかで予約して自分の足で赴いて買ったはずである。肝心の試合は、おそらく闘魂Vとしては初めてかも知れないテレ朝収録のものをそのまま使用していたが、さすがに実況はカットされ会場音のみであった。しかし、「炎のファイター」は著作権をクリアして収録されており、特に試合後のダー直後は音楽のみが被せられていた。

 

当時のファンであればご存知であると思うが、東芝EMIが版権を持つ「炎のファイター」のオリジナルシングル盤はすでに入手困難であり、当然CD化もされておらず巷に溢れていたのはカバー版ばかりであった。しかし、このビデオの音源は非常にクリアであったため、ビデオの音声出力端子からラジカセに繋いで録音したものである。正直、それだけでも買う価値があったものだった。

今の新日本のビッグイベントでは、煽りVTRと共に当日のカードが発表されていくのであるが、当時は田中ケロリングアナが試合前にカードを読み上げていくというものだった。その際、本来セミファイナルであるはずの橋本VS蝶野のIWGP戦がメインイベントと紹介され、一瞬会場がざわついたものだが、次の瞬間に「特別試合」として猪木VS天龍が発表された。その理由は試合後に判明する事となる。

 

そして、その「特別試合」の猪木VS天龍戦であるのだが、長らくプロレスを見ていながらこの時が生まれて初めて生で見る猪木の試合であった。試合展開は、やはり猪木がスリーパーを極めた後は天龍が完全に落ちているように見えたので、一時は会場全体が騒然としたものである。週プロ増刊ではターザン山本がこの試合を執筆していたのだが、前年に行われたUFC1におけるホイス・グレイシーに猪木が興味を抱いたと言い、スリーパーホールドを必殺技として多用しはじめたのもその影響だと言われていた。

 

そして、日本においてもUFCの2ヶ月前に旗揚げした「パンクラス」においても、チョークスリーパーが解禁されファンに衝撃を与えていた。まあ、パンクラスのスタイルを考えれば、首を極められた時点で相手よりも技術に劣るという意味であるからチョークでも通常でもあまり変わらなかったと言えばそれまでなのであるが、とにかくスリーパーホールドという技が一躍脚光を浴びる形となっていったのは間違いない。

 

まあ、猪木に関してはご存知のように92年頃から使いはじめていたのであるが、それでもプロレス界ではあくまでじわじわと絞めあげてスタミナ、もしくはギブアップに追い込むというイメージだったスリーパーを、一気に落とすという必殺技として注目を浴びさせたのはプロレスではもちろんアントニオ猪木の功績だ。というより、猪木と言えば卍固めや延髄斬りではなく、スリーパーホールドに完全に置き換わっていったと言っても過言ではなかった。

 

しかし、当然プロレス、しかもドームのメインとなるとそんな形では終わるはずもなく、天龍の回復を待って再開され、そして最後は天龍のパワーボム1発で決着がついた。いくら天龍のパワーボムが超必殺技とは言っても、さすがに1度は返して盛り上げると思っていたから、まさか1発目で3カウントが入るとは唖然としたものである。当然、猪木が負ける事自体もショックだったが、さすがにすでに50歳、セミリタイヤ状態の猪木と、まだまだ現役バリバリの超トップである天龍に勝つ訳にもいかなかったのだろう。

 

しかし、試合後は何故かほぼ全選手が集まり、ダーで締めるなど、天龍勝利の空気はどこ吹く風で、猪木ワールドに染められた。それが新日本の興行としての意地だったのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そういう訳で、ようやく猪木の偉大さを理解しつつあった当時であるが、それでも時は闘魂三銃士はもちろん、四天王やUWF系のエースたちも全盛期を迎えており、やはり私はマット界の中心である彼らの方を向いていた。この年からそれなりの頻度で近場のビッグマッチに足を運んでいたのだが、そんな折の9.23横浜アリーナ大会に赴いた際、ホーガンの試合が終わった後ぐらに突如として猪木が入場してきた。

 

一部では失敗とも言われた8月の史上初、そして唯一となった両国7連戦のG1クライマックスであったが、そんな声に発奮したのか9月のG1クライマックススペシャルは豪華カードの連発であり、特にこの横浜ではホーガンとムタのタッグが実現するなどまさに夢の顔合わせであり、私も「リアル・アメリカン」に乗ってホーガンが入場してきた時は狂気したものである。

 

そして、前述の猪木であるが、この日はスキャンダルが報道されてから初めての会場入りだったと思う。当然大猪木コールに包まれ、ダーもやったと記憶しているが、この時が実は私が初めて会場で猪木を見た瞬間であり、そして無論初めて猪木コールとダーを行った瞬間でもあった。しかし、当然の事ながら放送ではカットされており、その後も放送されたか定かではないので、それ以来動く映像では見てはいない。

 

また、今でこそ横アリは集客に苦戦する会場として知られており、プロレス団体はもちろん、格闘技ですらあまり使われる事はないのであるが、当時の新日本の9月の大会は恒例化しており、そして掛け値無しの超満員だった。これは1996年辺りから陰りが見えはじめていくのだが、集客が苦戦すると見るやすぐに撤退する所などはさすがである。

 

そして翌年の1.4である。どう言う流れで決まったかは覚えてはいないのだが、天龍の挑戦状から1年ちょい過ぎで遂に猪木VS天龍のシングルマッチが決定した。まだ猪木無しでは集客に不安があったドーム大会における超目玉カードである。前年は体調不良で行けなかったので、この時が人生初の1.4ドームとなった。この頃はまだゲームセンターにも通っていたので、都内で興行がある時は必ずと言っていいほど新宿辺りのゲーセンに寄っていったものである。

 

しかし、この時はゲーセンのみならず、急に以前人から借りたドラクエVが欲しくなったので、ドームに行く前に新宿のヨドバシカメラ東口店で買っていった。この時のドームも外野以外は埋め尽くされていたのだが、おそらくドラクエVを持っていた人間は自分だけだったに違いない。