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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

当時、月1ぐらいで土曜日の深夜において日テレの「FULLすぽーつこれくしょん」枠内で、プロレスリクエストなるものが放映されており、それで日プロ時代の馬場の名勝負までも見る事が出来たのであるが、確かに全盛期のジャイアント馬場の凄さはフィルム越しでも嫌というほど理解出来たものである。

 

しかし、馬場がその圧倒的な強さと存在感を見せつけられたのはあくまで日本プロレス時代までであり、全日本プロレス旗揚げ直後の映像からはその当時のような迫力がすっかりと失せていた。旗揚げ当時はまだ34歳ぐらいだったと思うのだが、それでも日プロの晩年あたりと比べてもかなり衰えが目立っているように見えた。もちろん、巨人症というハンデ、そして社長業などの背広組としての業務による負担の増加などが影響したのは明確なのであるが、それでも急激とも言える衰えである。

 

そして、YouTubeなどなかった当時、ほとんどの人がイメージするジャイアント馬場像というのが、その衰えた後の姿なのである。それに対し、5歳年下のアントニオ猪木はまさに破竹の全盛期を迎えようとしていた。そして、ようやく私がこの当時のアントニオ猪木の凄さを映像を通してであるとは言え目の当たりにしたのである。特に1974年3月のストロング小林戦からの猪木は途方もない格好よさであり、これならまっとうな10代男子であればジャイアント馬場やジャンボ鶴田よりも、強くてカッコいいアントニオ猪木に憧れるのは当たり前の事である。

 

そういう訳で、あくまでダイジェストではあるものの、新日本の歴史を知る上ではとても貴重なビデオだった。また、当時はよく新宿にあったプロレスショップ、アイドールにもたまに通っていったのであるが、そこでも猪木の名勝負集を買ったものである。今でも保存してあるが、当時はまだ竹内宏介さんや山田隆さん、そして桜井康雄さんなどがご存命であったため、現在発売されるムックなどとは比較にならないほどの猪木愛に満ち溢れた文章を読む事が出来た。

 

当然、現在では幻の試合となっている伝説の「アントニオ猪木VSジョニー・バレンタイン」の試合レポートも詳細に描かれているし、今でも蔵前国技館で目の当たりにした人たちは、それこそ猪木プロレスの最高峰、と謳ってやまない。当時のリング上の風景は闘魂三銃士と四天王プロレスの風景に完全に移り変わってはいたものの、改めてアントニオ猪木あってこそのプロレス、という認識を抱いたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

今思い起こしても不愉快な出来事なので、あまり詳細に触れたくはないのであるが、当時の秘書による告発は大スキャンダルとなり、ワイドショーと女性週刊誌の格好の標的となってしまった。ちょうど学校のテスト期間中と重なった事もあって、かの新間寿氏による会見も生中継で見る事が出来たものである。

 

この時、おそらくフジテレビだったかと思うが、かの人質解放にもケチをつけたりするなど、私自身も非常に怒りを覚えたものである。今でもそいつらはフジにいるのかどうかは知らないが、今でも顔を見る度にその当時の事が思い起こされ不愉快な気持ちになる事は言うまでもない。

 

結局、そのスキャンダルは拳銃密輸疑惑というありもしないデマにまで広がったものの、いつの間にか自然消滅となり、当然猪木自身が逮捕などされる事もなかった。しかし、それらのせいでテレ朝は猪木の試合中継を当面自粛せぜるを得なくなり、95年1月に解禁されるまで1年半以上もの間猪木の試合はテレビで見る事が出来なかったのである。

 

しかし、ちょうどそのぐらいの頃、学校帰りに寄る事の出来るレンタルビデオ店が相鉄線の駅前に存在したのであるが、一般のレンタル店ではありえないぐらいのプロレスのビデオが置いていた。当然、新日本が最も多かったのであるが、創立20周年記念に「激闘史」というビデオが3巻に分かれて発売されていた。

 

試合や大会がノーカット収録されていたビデオであれば何度も借りた事があったのだが、これに関してはダイジェストという事であまり興味がなかった。しかし、なんとなくであるが1から借りてみた所、初めてと言っていいぐらい全盛期のアントニオ猪木の動く映像を見る事が出来たので、それまで気づく事のなかった猪木の凄さを改めて思い知らされたものである。

 

プロレスの歴史を紐解けば一目瞭然であるが、当時の若手に関しては質・量ともに圧倒的に新日本が全日本よりも上回っていた。特に、佐山、前田、高田、船木、武藤などのイケメン枠に関しては、全日本はどう逆立ちしても敵わないものがあったのである。正直、レスラー名鑑などを見て、子供心にも何故新日本ばかり優秀な新弟子ばかりが集まるのか不思議で仕方がなかったのであるが、この激闘史のビデオを見て大変に納得したものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

1992年3月1日には、猪木の生誕地である横浜アリーナにおいても記念大会が開催。この時は木戸修と組んで、長州力・木村健悟組とのメインであったが、体調が芳しくなかったようで1.4ほどの名勝負とまではいかなかった。6月には大阪城ホールで、馳浩と組み、ブラッド・レイガンス、ムッシュ・ランボー組と対決。この時は久々に反りが決まったバックドロップまで繰り出すなど、コンディションは良さそうだった。しかし、とどめは延髄斬りでも卍固めでもなく、スリーパーホールドだった。

 

この頃はプロレス界全体にスリーパーホールドがやたらと流行っている印象であり、全日本でも鶴田や川田がしょっちゅう使っていたものである。猪木自身はかつての藤原喜明戦や、イリミネーションで高田に極めた試合など、割と前から使っていたので、全日本の影響ではないとは思うのだが、前述の試合以外では滅多にそれで決める事はなかったので、この辺りからやたらと使い出した印象である。

 

その年はその3試合で終わったのだが、その年の秋から天龍源一郎率いるWARとの対抗戦が開始された。そして、猪木戦をアピールしていた天龍は、11月の両国2連戦のメイン終了後に猪木から「お前たちが勝った方に俺が挑戦してやる!」との啖呵を吐き、その流れで1.4のメインが長州VS天龍という形になっていった。

 

その猪木は橋本と組んで、外国人組と試合をする予定だったのだが、ジョギング中に足指を骨折という理由で欠場してしまった。メインでは天龍が勝利したが、3ヶ月後に行われた再戦で星がイーブンとなり、5月の福岡ドームのメインにおいて猪木藤波VS長州天龍が実現した。初の福岡ドームという事もあってか、他のカードも超豪華であり、関東のファンからしたら羨ましいの一言だったものである。なので、GW中だった事もあり、遠征組もかなりいたはずと思われる。

 

ただ、この当時の新日本は話題性重視であり、現在とは真逆で客席さえ埋まれば内容は割と2の次という感じだった。なので、豪華カードの割にはさほど見直した記憶はない。結局、印象に残っているのはマサ斉藤のオープニング、藤原喜明の涙、そしてのちに橋本の前奏として使われた福岡ドーム大会のテーマぐらいのものだった。

 

そして、その試合を最後に、しばらく猪木の姿はテレビ中継からは消える事となる。何故か、それは世の中を揺るがす空前の金銭疑惑が起こったからである。

 

 

 

 

 

 

 

結局、91年は一度も試合をする事はなく、私の記憶では横アリで藤波とムタがグダグダな試合をして不穏な空気になった際、猪木と長州が登場してそんな雰囲気を一掃したのを見たぐらいである。そして、1992年の記念すべき初の1.4東京ドームである「超戦士in闘強導夢」において、実に1年3ヶ月ぶりとなる国内試合が行われた。

 

正直、本当はもう引退してゆっくりしていたかったのかも知れないが、記念すべき20周年イヤー、かつスポット参戦となった事で余計に商品価値が上がっていた事から、しばらくドーム級の会場において猪木の試合は欠かせないものとなっていったのだ。そして、この時の中継は20周年記念という事もあってか、午後6時半からだったと思うが、1時間半枠の生中継枠だったのだ。

 

猪木の相手は元々タイガージェットシンだったようだが、紆余曲折あり馳浩となった。これは本当はどういった経緯だったのかは知らないが、4年ぶりの巌流島決戦はレギュラー枠でも放映され、馳が池に落とされた週プロの表紙も記憶に残っている。この試合は確実に生中継枠に収まるよう中盤に行われたが、ベストバウトにも候補が上がるほどの名勝負となり、久々にビデオに録画した私も何度も繰り返して堪能していったほどである。当時はプロレス中継を見ていた男子クラスメイトもそこそこ多かったのだが、きっと皆猪木の勇姿に堪能したに違いない。

 

この時の視聴率は11%程度と低調に終わったため、以降実に4年に渡ってゴールデンで放映される事はなかった。ただ、基本王座戦のみのボクシングとは異なり、プロレスはそうもいかず、さらにこの日のセミではレックス・ルーガーと蝶野のWCW王座戦という、おおよそ一般層へのアピールは皆無なカード、さらに試合自体も凡戦に終わったため、この辺りで大分チャンネルを変えられてしまったのは間違いない。なので、猪木やムタの試合に限ればもう少し高かったはずである。

 

この大会は当然週プロの増刊が発売されたのだが、余程刷ったせいかどこの本屋でも見かける事が出来たため、立ち読みだけでは済まずに買ってしまった。秋ぐらいから毎週木曜日には週プロをしょっちゅう立ち読みしていたのであるが、買ったのはこの時が初めてだったかと思う。その直後、ゴングからも毎年恒例のカタログが発売されたので、それも7年ぶりに買った。つまりはプロレス熱が再燃していったという事である。

 

 

 

 

 

 

 

 

1990年と言えばやはりイラクにおける人質解放である。ただ、当然当時の私では詳しい部分までは分からなかったし、あくまでニュースからの断片的な記憶でしか残っていない。今こそ、ペールワン戦や、アリ戦の実績があれど、と分かるのであるが、当時の自分ではまだそこまでは知らなかったし、自分ですらそうなのだから世間などはもっと不思議であっただろう。

 

この件に関しては、今ググると当時の外務省のクズっぷりばかりが目に付くので、正直不愉快でしかないのだが、当然の事ながら日本の並の国会議員程度では猪木の世界的な知名度には及ぶべくはないので、つまりは単なる嫉妬という事だろう。まあそれはともかく、プロレスファンとしては誇りでしかないのだが、当時の私は特別猪木ファンという訳ではなく、すでに国会議員というイメージの方が強かったので、ここまで書いて起きながら当時はそこまで色々思う事はなかった。

 

そして、ちょうどその頃、ファミコン通信において唐突に4ページのプロレスの特集が組まれた。これが非常に良い出来であり、プロレスから離れていた私にとっては大変参考になったものである。当時の全男子プロレス団体が全て紹介されていたが、7団体と聞いて、新日本と全日本と旧UWF以来見ていなかった私はそれだけで驚いたものだ。その7団体とは、新日本、全日本、新生UWF、FMW、SWS、ユニバーサル、そしてパイオニア戦志であった。

 

そして年末の浜松の生中継で久々に新日本を見たが、この時は猪木はスーツ姿で挨拶だけしていたかと思う。その前後ぐらいから午後4時からの中継も家にいる時は見るようになり、1991年のスターケードin闘強導夢のムタと藤波の試合も見る事が出来た。当時はまだ「NWA王座は日本人は絶対取れないもの」という認識が強かったので、まさかの王座移動に驚いたものである。また、両者リングアウトのイメージしかなかったフレアーが完璧な3カウントで負けるのを見たのも初めてだった。

 

その頃から、土曜午後4時に家にいる時は必ず新日本を見るようになった。G1クライマックス以降はほとんど見ていたが、あいにくその年に猪木が試合をする事はなかった。しかし、当時の新日本は非常に充実しており、猪木なしでも大会場の集客は問題なく、世間ではプロレスブームの到来とも言われていたものだ。しかし、確かにリング上は面白かったものの、情報は雑誌にシフトしており、それか東スポを読んでいない人にとっては何が起きているのかさっぱり分からなくなっていたのも事実。つまり、プロレスがどんどんサブカル化していってしまったのである。

 

 

 

 

 

 

 

そして1989年7月、アントニオ猪木は夏の参議院選挙に立候補し、ギリギリで当選した。しかし、当然当時の私はまだ選挙権がなかったし、選挙特番なども見るはずもなかったので、滑り込みで当選した事を知ったのは大分あとの事である。当時すでに少なからずタレント出身議員はいたし、信者の数では比べようにならない猪木であれば軽く当選したものだと思っていたが、実はそうではなかった事に対して割と驚いたものである。

 

その理由としては、政党名ではなく猪木の個人名を書いた無効票が大量にあったというものであった。イコール初めて選挙権を得た人や、猪木で初めて投票にいった、という事の多さの証明かも知れないが、要はここでも時代が早かったという事である。そして、同時期だったかと思うが、空港でナンパしたと言われる3人目の奥さんと再婚なされたのもこの頃だったかと思う。ただ、この当時、一般的には1人目のアメリカ人の方との結婚はほとんど知られていなかったはずなので、ほとんどの人が倍賞美津子さん以来2人目、と認識していたはずである。

 

この頃に印象深い出来事と言えば、当時読み始めた隔週刊時代のファミコン通信に、「怪獣ひでごんす」こと柴田氏が大変な猪木信者であり、当時交代制でライターが書いていた日記に猪木の出馬の事が熱く語られていた事である。その号は手元にすぐに出せないので記憶に頼るしかないが、「人生の師、アントニオ猪木さんが参議院選挙出馬を表明した。(投票する事が)俺たちの猪木さんへの恩返しだ」のように、非常に猪木愛に満ち溢れた文章に心を打たれたものである。他の号においても、「獣神ライガーと佐野の試合を見れば、絶対にプロレスが好きになるはずだからね」などと述べていたり、とにかく私の読者時代に印象に残ったライターのひとりであった。

 

ただ、猪木が当選すれば当然セミリタイア状態となり、新日本の大きな看板が消えてしまう事になる。この年は時間帯的にも新日本の中継を見られる事は皆無だったので、単純に猪木がいない新日本はどうなっているんだろう、としか思えなかったものである。という訳で、議員になった時点で私の中でも猪木はプロレスラーよりも議員というイメージの方が強くなり、半ば引退したも同然の感じだった。

 

1990年の2月には、久々にゴールデンで特番が放映されるも、私はドラクエIVに夢中であり、ラテ欄に目を通す事もなかったので、当時はそれが放映されていた事実すら知らなかった。この年も中継を見る事は皆無だったものの、SWSの旗揚げ戦をテレビで見たり、そして年末の新日本の浜松からの特番で、多少はプロレスを見る事が出来た。数年のブランクがあったので、技などが随分と洗練された事、そして闘魂三銃士ら新世代の台頭なども相まって、リング上の風景が一新された事に新鮮な感激を覚えたものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回述べたよう、UWFの業務提携時代はほとんど新日本を見る事もなかった。まあ、プロレス自体かなり下火であったし、流行り物に流される小学生時代であったから尚更の事である。金曜8時からの撤退は記憶にあるが、悪名高き火曜8時からの「ギブアップまで待てない‼︎」もほとんど見た記憶がない。

 

という訳で、その後自分が覚えている事と言えば、巌流島での決戦、そしてかの大暴動が起こった1987年のイヤーエンド国技館である。断片的に視聴していたので、事の顛末はその当時は理解出来なかったが、あのビートたけしが新日本のリングに上がっていた事ははっきりと覚えているし、そして猪木がベイダーにあっさりとフォールされた事も見ていて唖然としたものである。

 

今では何故か削除されてしまったが、数年前までWikipediaにおけるこの項目では「時代背景」という項があった。そこで当時は「プロレスを理解出来ない部外者に対する明確な拒絶反応があった」と言う解説がなされていたが、それは非常に的確であり、当時「元気が出るテレビ」や、「たけしのスポーツ大賞」などの冠番組を持ち、日本最大の人気者と言っても過言ではなかったあのビートたけしでさえ、両国の観衆から帰れコールを浴びていたのだ。

 

当時はまだいわゆる「Boo」というブーイングはなかったので、それに館内が包まれる事はなかったのであるが、おそらく相当辛辣な野次が飛んだはずである。そのおかげでたけしは相当プロレス嫌いになったと言われているが、数年後は再び「元気が出るテレビ」において「女子プロレス予備校」や、大仁田厚や山本小鉄さんらを準レギュラー的な立ち位置で呼んだり、プロレスから完全に切れる事はなかった。まあ、企画にテリー伊藤氏らがいたというのもあるのだろうが。

 

そして、翌年3月からは遂にゴールデンから外されてしまい、私もその頃は野球ばかり見ていたので、プロレスからは完全に離れていた。なので、両国でその後暴動が起こった事も、前田が新生UWFを旗揚げして大成功を収めた事も全く知らない。つまり、以前触れたよう、少年時代に見たアントニオ猪木は、古舘伊知郎が落日の闘魂は見たくない、と連呼していた以降の時代しか知らないのである。

 

まあ当時はリアル志向は皆無、とにかくアメリカンスタイルとルチャ・リブレばかりに目が行っていたので、猪木どころかほとんどの日本人レスラーには影響を受けてはいなかったのであるが、とにかく私自身が少年時代に影響を受けるような事は皆無に等しかったのである。

 

 

 

 

 

 

 

まあ要するに、初代タイガーはもちろんの事、旧UWF勢とジャパンプロレス勢がごっそり抜けた直後という、なんともタイミングの悪い時に新日本を見始めた、という事である。歴史を紐解けば、この年の6月には蔵前の暴動、アントンハイセルを元にしたクーデター事件など、新日本にとっては激動の年であった訳なのだが、もちろんそれらを知ったのは後年のこと。日本人選手のほとんどがショートタイツであった事も重なり、子供にとってはどうしても新日本の方が地味に映ってしまったのである。

 

まだ古舘伊知郎が実況の時代であったが、これに関しても「落日の闘魂は見たくない!」的な実況ばかりが印象に残っており、子供心にも猪木が下降線を迎えていたのは理解出来た。すでにデビューから24年が過ぎ、41歳を迎えていたのだから当然の話ではあるのだが、若さや勢いに関しては明らかに藤波の方が上に見えたため、私的には猪木に惹かれるような事はなかった。

 

なので、初の両国におけるブロディとの初対決も、私は当然テレビで見ていたはずなのであるが、私的にはセミで行われた藤波VSマシーン1号で、初めてテレビでドラゴンスープレックスを見た時の喜びの方が遥かに大きかったものである。これは姉が買ってきてくれたタブロイド版のカラー新聞(これが週刊ファイトなのか否かは記憶になし)でテレビ放送前に見たのであるが、当時は幻の技と言われていただけに、それを見る事だけが楽しみだったものである。

 

そして、その頃になると当時テレビ東京で放映していた「世界のプロレス」の方が楽しみになり、特にルチャ・リブレの大ファンになっていった。それに反比例するよう、新日本への興味は薄れていき、その後に記憶にあるのはあの9月の猪木VS藤波戦ぐらいだったかと思う。この時は祖父と姉と3人で見ていた記憶があるが、猪木のジャーマンを初めて見たのもこの試合だった。しかし、この試合では往年の美しいブリッジは見られず、その時に姉が言った「あんまり上手くないね」が今でも記憶にあるほどである。

 

猪木のジャーマンと言えば必殺技中の必殺技であり、そして当時はほとんど見る事もなかったので、見れただけでも嬉しかったのであるが、やはり子供心に思ったほどのブリッジではなかったのがショックだった。実際、後年にNJPWワールドで見直した時も同じ事を思ったし、猪木の歴史上でもワーストレベルのジャーマンであったかと思う。

 

しかし、試合自体は非常な名勝負であり、具体的な試合展開などは覚えてはいないとは言え、この試合だけは一部始終はっきりと見たはずである。猪木VS藤波という切り札、そして当時はヒール役や別軍団以外での日本人対決などは皆無であった事からも、やはりこれは見逃してはならないと思ったのだろう。

 

その後、ファミコンブームなどもあり、プロレスへの熱量は大分下がっていった。ただ、それでも旧UWF勢が戻ってきた記憶はあるので、そこまではまだ見ていたはずである。しかし、関節技を多用するUWFの試合は子供心には退屈極まりなく、またテレビだけのファンにとっては出戻りの理由も不明であったから、この辺りで完全に新日本からは離れていく事になってしまった。

 

 

 

 

 

 

 

しかし、その本を買ったのは日曜日、つまりその時点ではまだ新日本プロレスの放送を見ていない。という訳で、翌週に初めて新日本プロレスの中継を見たのであるが、この時は何故か両親の部屋で一部だけを見て、しかも新日本では珍しいバトルロイヤルが行われていた。こちらは現在新日本プロレスワールドにおいて視聴可能であるが、まさかこの試合がアップされているとは思わなかったので本当に驚いたものである。

 

つまり、これが私のリアルタイムにおける新日本の最古の記憶なので、はっきりと見たアントニオ猪木の試合は一体誰とだったのかは全く覚えていないのである。猪木絡みで一番古い記憶が、当時未知の強豪とされた「キングコング・バンディ」とのボディスラム賞金マッチなのであるが、彼が初来日を果たしたのが1985年になってからの事なので、その時点である程度試合を見ていた事は間違いなく、それが初めてではない事も確かである。

 

ただ、試合ではあやふやなのであるが、それ以外ではっきりと猪木をテレビで見た瞬間は覚えている。それは、同月に放映された「欽ちゃんのどこまでやるの」、通称「金どこ」にゲスト出演した時の事である。佐山聡が出演したのはYouTubeで見る事が出来るが、これに関してはビデオにも録っていなかったので見たのはそれっきりだ。しかし、当時幼かった私が、出演者、おそらく見栄晴氏の「アントニオ猪木さん」の呼びかけで、満面の笑みを浮かべて猪木が出てきた瞬間の事は今でもはっきりと覚えている。「猪木だ!猪木だ!」と喜んだ記憶があるが、まだ何も知らない子供ですら魅了してしまうスーパースターの笑顔がそこにあったのだ。

 

そして、最近になって東スポが、なんと旧UWF時代の前田日明が、試合後のホテルでこの放映を視聴していた事を写真付きで記事にしていた。当然、私がこの件の記事自体を見るのも初めてだったし、テレビに映る猪木の姿を嬉しそうに見ている前田の姿も嬉しかったものである。

 

という訳で、私がはっきりとアントニオ猪木の姿をテレビで認識した初めての記憶は、実はリング上ではなく一般のテレビ番組であった。そして、そこから何故キングコング・バンディまで飛んでしまうのか、というと、子供心にNWAやAWA大物が常に来日していた全日本プロレスの方が華やかに見えてしまったからである。

 

そして、1984年の夏まではかのコロコロコミックですら扱っていた藤波、長州の名勝負数え歌であったのに、主役の1人であるはずの長州力とその一派の連中の姿が新日本の中継からさっぱり姿を消していた事も子供心に謎だった。当時、金曜8時にテレビに出る日本人選手と言えば、猪木、藤波、坂口、木村健悟、そしてたまに星野勘太郎と言った程度で、全日本に比べると子供心にもその手薄さは気づいたものである。

 

 

 

 

 

 

 

NHKや24時間テレビでの様子、そして今年における超大物の度重なる訃報などもあり、ある程度の覚悟は出来ていたが、やはりいざその瞬間を迎えてしまうと心の中にとてつもない空白が出来てしまうものである。レスラー、特にアメリカは比較的短命な人が多く、私が子供の頃から見ていたレスラーたちがどんどん鬼籍へと入っていってしまったが、やはりそれがアントニオ猪木となると話はまた別である。

 

まあ、猪木の偉大さは私が今更語る必要もないので、個人的な思いを綴っていくが、私が子供の頃はまだ新日本が金曜8時、全日本プロレスも毎週土曜日夕方5時半に放映していた事から、トップレスラーの認知度というのは今とは比較にならないほど高かった。もちろん、その中でも馬場と猪木の存在は別格であり、日本に日本人として生きていたら必ず自然な形でその名を認識していくほどの超大物だった。

 

しかし、あいにく私の両親はプロレスを見ない人たちだったので、私がテレビで実際にお目にかかる事はなかった。なので、記憶にある限り、その名前を認識したのはコロコロコミックでの読み切りだったかと思う。それが月刊か別冊だったのかはあやふやなのであるが、少なくとも漫画からその名前を知ったのは間違いない。もちろん、あくまで名前のみで、新日本だとかの名前までは認識する事はなかった。

 

そんな私がプロレスに夢中になるきっかけを作ってくれたのは、同居していた祖父である。祖父は力道山時代から欠かさずプロレスを見ており、たまたま全日本プロレス中継を見ていた時に私もそこに居たのだ。最初に見たレスラーはジャンボ鶴田とテリーゴーディだったので、ずっとインターナショナル選手権か何かだとずっと思っていたのであるが、最近YouTubeで当時の放送を確認したらそれぞれGカブキとマイケルヘイズと組んだタッグマッチだった。

 

なんともあやふやであったが、鶴田が流血していた記憶ははっきりとあり、実際にそのタッグマッチでもそうであったので、この試合でほぼ間違いはないであろう。翌日の日曜日、早速親に頼んで竹内宏介さん著の「プロレス激闘全百科」を買ってもらい、そこで基本的なプロレスのイロハを学んで行った。

 

その本においては何人かのレスラーが特集されていたが、1人目は猪木であり、2人目が馬場だった。プロレス界の常識のひとつに、2人に触れる際には馬場・猪木の順で書かれるのがほとんどというのがあるため、後年になって買い直した際にこの序列に驚いたものである。要は、その本が発売された1984年はその序列が当然なほど、猪木の方が人気で圧倒的に上だったと言う事である。