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ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

そんな事情により、メガCD版「ニンウォリ」における、オリジナルVGMの完全収録というのは極めてセンセーショナルな出来事だった。そして当然、アレンジBGMも収録されたのだが、こちらはゲーム発売前にコンプリートアルバムという名前でCD化されていた。まだメガCDを買う予定ではなかった私は、当然そのCDも買ったのであるが、これが全曲非常に素晴らしい出来でおり、当時のアレンジCDでも屈指の名盤であったかと思う。

 

そして、メガCD内蔵のPCM音源の威力もあり、BGMのみならずSEもアーケード版を完全再現という出来だった。画面こそ1画面だが、アーケード版風にシネスコサイズアレンジとなっているし、当時のハード性能からしたら究極とも言えるほどの出来だったかと思う。まあ、ぶっちゃけゲーム性だけで言えば、すでにPCE版が発売されていた事からも分かるよう、ROMカセットでも普通に移植出来たはずである。

 

肝心のBGMも、メガドライブ本体のFM音源を駆使すれば、容量さえあればアーケード版に近い音色を再現出来ていたかも知れない。しかし、それでもあくまでCDに拘ったタイトー、このタイトルには並々ならぬ思いがあったに違いない。この辺りの拘りを、正直当時のコナミ辺りにも欲しかったものである。

 

そして、忘れてはならないのがZuntataモードという、蛇足ではあるがCDの機能を目一杯活かしたおまけである。CD音源と、実際のZuntataスタッフによる実写取り込みの静止画で進んでいくプロローグなのであるが、まだムービー導入以前の時代だけあってこれだけでも実に見応えがあったものである。メガドライブの同時発色性能の限界により、今見るとかなり粗いのであるが、ビデオ出力が主流だった当時では上手い具合にボケてくれたので、これでも十分綺麗に見えたものだ。

 

なので、今でも非常に思い入れのあるゲームなのであるが、さすがに当時ではニンウォリの攻略方法などは見つけられるはずもなく、戦車が倒せる事も知らないので、ほとんどまともに進めなかったものだ。かなり後になって、大和市のブックオフでアーケード版のビデオを買った時に、初めて戦車を倒せるのを知ったほどだ。

 

それを見てからはある程度進めるようになったのであるが、それでもクレジットがどうしても尽きてしまうため、2P側の方で継続してエンディングを見たものである。アーケード版では英文法のミスなどがあったが、メガCD版では直されていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遂に発売された待望のメガドライブミニ2。私が購入の決め手としたのは、当時メガCDを買うきっかけとなった「ナイトストライカー」と、同じくタイトーの「ニンジャウォーリアーズ」、そして見た目だけはそっくりな「ファイナルファイトCD」、そして当時としては驚異のグラフィックを誇った「シルフィード」らが収録発表されたからである。

 

つまり、私が当時所有していたメガCDソフト全てが収録されているという訳であり、そうなったらこれは買うしかない。一応、実機自体はまだ所有はしているものの、私の場合は初代MDとメガCD2の組み合わせなのでとにかく大きく、初代PSを購入した頃にはすでに片付けてしまったし、一応PC上のエミュでもプレイは試した事もあるものの、実質20年以上はまともにプレイしていないはずである。

 

という訳で、当然メガCDのゲームから率先してプレイしていったが、やはりとにかく懐かしいの一言。これまでのミニ系だと、遅延の問題が結構騒がれたが、「ナイトストライカー」はかなり分かる範囲で起きているものの、他のタイトルはこれまでと比較してもかなり良好であり、とても快適にプレイ出来たものである。アケコンも前作同様、弱PK同時押しでUFBが使えるので全く問題ない。

 

まあ、それ以外のレビューはYouTuberなどに任せるとして、やはりメガCD本体とほぼ同時購入した「ニンジャウォーリアーズ」は思い入れのあるゲームである。アーケード版の筐体自体は町田で見た事があったものの、プレイはしてはいなかったので、ニンウォリというゲームそのものをプレイしたのはおそらくメガCD版が初めてだったかと思う。その後、おそらく渋谷会館あたりでアーケード版をプレイしたかと思うが、当然あまりの難しさにあっさりとゲームオーバーになってしまった。

 

しかし、サントラ自体はゲーメストを読んで持っていたので、当然その「Daddy Mulk」の素晴らしさは知っていた。往年のゲーマーならご存知のよう、ゲームBGMの範疇を超えた歴史的な名曲であり、今なお「アーケードゲーム史上最高のBGM」のひとつとして真っ先にその名が上がるVGMである。そこもタイトーは十分に理解しており、なんと当時としては異例とも言える、「CD音源によるアーケード版BGMが完全収録」という偉業をやってのけた。

 

今なら当たり前かも知れないが、実はこの当時、いくらCD-ROMのゲームであってもアーケード版VGMを完全収録というのは皆無だったはずである。理由は簡単で、CD音源イコール音楽プレイヤーでも再生できる、つまりサントラ代わりに使う事が普通であり、要はサントラCDとの兼ね合いが生まれてしまうからである。

 

「スーパーダライアス」がドルビーサラウンドという、当時の環境ではまるで実用性のないエフェクトを入れたのも、要はオリジナル音源をそのまま収録する事が出来なかったための苦肉の策だと思っている。公式でそのような発表があった訳ではないものの、モノラルテレビがまだ当たり前だった時代に、そんなシステムを所有している人間など皆無であった事からも察しがつくというものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

「マレーシアの国語はマレー語だが、英語も広く通用する」というのが行く前の認識だった。フィリピンであれば法律で英語がフィリピン語と並ぶ公用語とはっきりと示されているのだが、このようにマレーシアにおける英語というのは少し分かり辛い立ち位置であったので、正直どのぐらい通用するかは実際に行くまでは分からなかったものである。

 

空港では当然マレー語と英語のバイリンガル表記であり、それはどこのアジアの国でもそうなのでそれはあまり参考にならない。私が現地で初めて英語で会話したのは、現金引き出しに何度も失敗した後に寄ったSIMカードのお店である。当然英語であったが、前述のように空港であれば香港でも台湾でも完璧に通用したので、特に驚きもしなかった。むしろ片言の日本語でありがとうと言われた事の方がインパクトがあった。

 

KLセントラルのNUセントラルにおいては、外国人も多いためか英語表記が優先的な感じであり、エスカレーターやCOVID-19における注意書きなどは英語しかなかった印象がある。フィリピンのモールなどは99%英語オンリーであったが、前述のようにこちらは公的に公用語とされているので、マレーシアの事情とは若干異なる。なので、このNUセントラルに居る時点で思ったよりも英語が使われている事を実感した。

 

マクドナルドやKFC、サブウェイなどのチェーンは英語中心だ。一応、店内のチラシなどはマレー語オンリーだったものだが、メニューなどはさすがに英語である。KFCで微妙な英語の店員に出会した事はあったものの、基本的にチェーン店において堪能な英語力は必要ではないので、ここではあまり参考にはならないだろう。

 

そして、鉄道関係においてはさすがに完全バイリンガルの世界だった。ここはもう香港の英語のように、どこにおいても必ずバイリンガル表記となっており、立ち位置としてはほぼ公用語に近いものだったと思う。駅名はマレー語なので、それは覚え辛い事この上なかったものの、それ以外に関しては前述のように公用語レベルだった。

 

ジャランアローで注文する時も全て英語であったが、当然簡単な英語のみとは言え、不自由する事もなかった。実に4度も通ったマッサージ店も同様である。ピンクモスクにおいてはマレー語のみであったが、スタッフは当然英語であったし、結論としてはKLやペナン島において英語で不自由する事は皆無だった。

 

それはそれで本当に気楽なのであるが、言い換えればスリルが減るという事でもあるし、またバイリンガルどころかマルチリンガルの世界であり、マレー系華人は4ヶ国語以上も珍しくはないので、「英語を話せる事による」優越感が皆無、というのも確かである。これが香港であれば、英語はまだエリートの言語という認識であるし、また新界などでは英語の通用度が低く、時には片言の広東語で対応する必要に迫られる事もあるものの、それはそれで旅の醍醐味だと言える。

 

そういう意味で、香港に滞在していた時のように英語へのモチベーションが上がるという事は実はなかったものである。まあ、現地でもう少しコミュニケーションを取っていれば変わったのかも知れないが、スリルではなく安心を求めるのであれば住みやすい国ではあるかとは思う。

1Fを歩いていくと、大きめのフードコートが見つかり、トースト類などを売っているお店に行くと大体7SDだったので、これなら買えると思った私はそこで玉子のトーストとコーヒーを注文した。ここは有人カウンターだったので、初めて注文時にリアルシンガポーリアンの方と会話したのであるが、当然ながらとても流暢であり、そのスピードにも圧倒されたものである。

 

それに加えて愛想も良かった。香港では見知らぬ人に笑顔を見せてはいけない文化なので、接客業とは言えどポーカーフェイスが普通なのであるが、こちらでは笑顔がばっちりだったので、文化の違いというのを実感した。しかし、注文の品はあいにくの10分待ちだと言うので、先にコーヒーを貰ってひたすら待っていた。

 

目の前にスタッフらしき集団がいたのだが、彼らは普通話で話しているようだった。なかなか出来上がらず、しかもどうやって出来上がりを伝えてくれるのか分からなかった私は、一度カウンターに行ったものの、あと5分とか言われたので、再び席へと戻った。しばらくすると、先ほどの店員の方が手を上げてくれたので、ようやくピックアップとなった。

 

さすがにそれだけで4時間は持たせられないので、再び色々回ったあと、今度は別のお店でホットコーヒーだけ頼んで、またしばらく時間を潰していった。そしてゲート開放の時間となったが、行きで学んだように中にはトイレがないので、当然済ませてから手続きをした。もちろん、ペットボトルも空にして、である。

 

そして搭乗、この時はまだ日本入国が不自由であったので、さすがに乗客はまばらであったのだが、私の横は2席とも埋まっていた。ただ、真ん中辺りは大分空いていたようなので、許可を貰って移動した人たちもいたようである。私の前の席の人も途中から移ったので、リクライニングの心配がないのは良かったものだ。

 

しかし、深夜便であるにも関わらず全く眠れない。帰りも7時間弱はあるので、十分寝れる時間ではあるのだが、眠気があったにも関わらず全く眠れなかった。1時間弱ぐらい寝た感じはあったが、朝6時ぐらいになると朝食のサービスが開始されたので、注文していた私は嫌でも起きておかなくてはならなかった。帰りはさすがに正しいメニューであり、ようやくツナのフォッカチャを堪能出来たものである。

 

 

 

 

MySejahteraを見せた結果、無事にチェックインと荷物預けが終了し、ようやく身軽になれた私は、空港中を色々歩き回っていった。反対側のチェックインカウンターの側にはKFCもあったのだが、あいにくセルフキオスクもなく、また例のメニューを買うにはお腹も空いていなかった事を考えて、結局搭乗まで何も食する事はなかった。

 

早めにイミグレーションを通ると、今度は搭乗ゲートまでがひたすら長く、しかもどういう訳だか2度も荷物検査を通過する作りとなっていった。また搭乗ゲートまでもやたら遠く、あらかじめ早めにイミグレを通っておいて良かったと思ったものである。あとは搭乗までひたすら待つばかりであったが、ピンク色っぽい派手なパスポートを持つ、前を歩く3人組の女性らがやたらとやかましく、そして1人は物凄い早口の英語を話していた。

 

早速ググってみると、案の定そのパスポートはシンガポールのだった。その連中とは搭乗後に離れたものの、やかましいと思うと同時にシングリッシュの流暢さにも圧倒されたものである。見回してみると、席の周りもシンガポーリアンだらけだったのだが、やたらとiPhone率が高くなったのが目についた。マレーシアでiPhoneを見るのは稀だったので、この辺りで経済格差を垣間見る事が出来たものである。

 

そして、久々のチャンギである。ここからもなんと4時間半待ちではあったものの、入国はしていないとは言えシンガポールを少しでも堪能出来るのは嬉しかった。トランスファーは出発時と同様、第1ターミナルへと着いたのだが、すでに夜21時近くながらコロナ禍とは思えないほど賑やかであった。

 

4時間半ともなると、さすがに腹を満たさざるを得なかったのだが、案の定とは言えマレーシアとは比較にならないほど物価が高く、それに加えて空前絶後の円安も重なったのだから尚更だ。まず向かったのはサブウェイであったが、メニューは同じながらも、一番安いベジーデライトでさえ1300円ほどもした。マレーシアの約2倍である。ちょうどクレカの機械が壊れていたようであり、そこで買う事はなかったが、仮にあったとしても躊躇したと思う。

 

次に、バーガーキングもあったので寄ってみると、これもワッパーのセットが1300円ほどした。バーガーキングのセットは日本でもそれなりに高いとは言え、それ以上の価格である。この第1ターミナルにはマクドナルドがないので、多くの人がその代わりにと並んでいた。しかし、ご存知のようにマックのようにシステマチックではないバーガーキングはメニューの提供が遅く、常に長蛇の列であったのでここでも買うのはやめた。

 

 

 

 

十分間に合ったとは言え、飛行機の出発は遅れに遅れ、元々は2035分の出発だったはずが、結果的には21時を大幅に回ってしまった。当然、KLIAに着いたのも2220分過ぎ、2240分頃のKLIAエクスプレスに乗ったため、ホテルに着く頃は2330分を過ぎていた。

 

こちらのセブンイレブンは、その名の通りにほぼ23時に閉まってしまい、当然他のコンビニも開いていないために、事前に空港のファミマで食事を取っていた。まあ、23時頃になれば人通りも皆無になるし、24時間が当たり前の日本人は働き過ぎ、別に23時閉店でもいいじゃない、もう少し日本人もゆとりを持って働こうよ、と思ったものだ。

 

実質最終日となる翌10月7日は、特に遠出するつもりもなかったので、KLCCやブキビンタンを周り、最後は三度The Tropical Spaにおいて2時間の足ツボマッサージと、ジャランアローでイカフライ、そして最後はKLセントラルのKFCで例のメニューを食べていった。

 



そして遂に帰国当日、まずは混雑する前にサブウイで最後の朝食を食べた。その後ホテルへ戻り、1230前にチェックアウトであとは空港へ行くだけなのだが、なんとフライト時刻が1930なのである。それまでいかに時間を潰し、そしていかにスマホのバッテリーを持たせるかがカギだった。

 



なので、空港行きまでは時間がたっぷりあったので、一旦はバスを使おうかとも思った。しかし、到着が翌朝になるという比較的ハードなスケジュールだったので、ここはやはりお金ではなく体力を温存することを最優先としKLIAエクスプレスを選択した。一旦、乗る前にKFCでまたいつものメニューを食し、そこで休んでから前述のようにKLIAエクスプレスで空港へ直行、14時ぐらいには着いてしまったので、あとはひたすら椅子で時間潰しである。

 

KLセントラル周辺にはコインロッカーもあり、当然荷物を預ける事も出来たのであるが、なんと最大サイズは50リンギットもするらしく、さすがに預けるだけで1600円取られてしまうというのは無理だった。という訳で、前述の通りひたすら空港で時間を潰すしかなかったのである。





ただ、そうは言ってもチェックインの1630を迎えれば荷物は預けられるので、とりあえずそこまで粘ればよかった。そして、時間後すぐにカウンターに向かい、手続きを済ませたのだが、この時にVaccine?と聞かれた。しかし、単語で一言のうえ、Back seat?と聞こえてしまい、意味不明さに固まってしまった。しばらくして意味が分かったので、最初はMySOSを見せたのだが、それではなくワクチンの履歴を見せればいい、という事で、MySejahteraを見せたらOKとなった。そう、最後の最後でようやくこのアプリを見せる機会がやってきたという訳である。



そして、この時もワクチン履歴さえ見せればOKだったので、当然日本の摂取証明書でも良かったはずである。もちろん万が一の事を想定すればインストールは必須だったとは言え、実質なくても大丈夫だったのかもしれない。

 

 

 

 

そのペナン島にそびえたつタワーはコムタと言い、ちょうどKFCもあったのでそこでいつものメニューを食してから展望台へと向かった。ここでもKLOOKを使うと割引されるので、そのQRコードを見せてから上に向かっていったのであるが、65階へ着くと同時に、いきなり空間に閉じ込められてコムタの歴史のビデオを見せられた。

 

なんの説明もなしだったのでかなり焦ったが、終わると目の前のスクリーンが開き、同時に左への扉も開いたので、ようやく景色を堪能する事が出来た。ここでもマカオタワーのように、命綱をつけて外周をあるくスカイウォークなるものも体験でき、そしてちょうど5人ぐらいの集団が参加している最中でもあったのだが、とてもではないが真似出来るようなものではなかった。

 


見晴らしはかなり良く、風景の違いはあれどKLタワーよりかは綺麗な感じだった。ペナン島は非常に小さい島でありながら、マレーシア第2の都市であるというのは不思議な感覚を覚えたものだが、香港やシンガポール、そしてジブラルタルのように、半島に隣接している小島というのは植民地化かつ発展させやすいのかな、と思ったものだ。




68階は屋根無しの展望台であり、そしてここにもKLタワーのようなガラス張りのスペースがあった。ここでは並ぶ必要はなかったとは言え、それでもかなり怖い。そこでしばらく展望を楽しんでいる間、1830を過ぎたので下に戻り、Grabを呼んで空港へと戻った。乗車した時は1850分ぐらいだと思うが、行きは30分で来れたので十分間に合うと思いきや、到着予定時刻が1950分ほどとなっている。地図を見るとかなりの部分が渋滞を示す赤であり、実際全然進まなかった。

 

出発時刻が40分ほどずれ込み、搭乗時刻は1955分、当然オンラインチェックインは済んでいるし、ターミナルも非常に小さい空港だから、5分前に到着しても十分間に合うのだけれども、それでももし間に合わなかったら…とこの時はかなり焦ったものである。まあ、仮に逃してもホテルに泊まればいいか、と思ったのだが、それでも金銭的にはかなりの負担だ。Grabの予定到着時刻はかなり正確に出るので、それが搭乗時間を超えない限りは大丈夫であったのだが、それでもこの時はかなり焦ったものである。

 

しかし、そんな不安は杞憂に終わり、1948分ほどで無事に到着。急いで中に入り、荷物検査を済ませるとまだゲートは開いていない。しばらく指定された場所で待っていたのだが、掲示板に表示されている便は予定のと違う。慌ててスタッフに尋ねると、別のゲートに変更と言われ、急いでそこへと走っていった。無事にそこでも間に合ったものの、なんと搭乗どころか飛行機そのものが着いていない。結局、搭乗した時にはすでに21時を回っており、7分前どころか20時を過ぎても十分間に合ったのである。



 

 

 

しばらくショッピングセンターを回った後、とりあえず海へと向かって北上していった。この辺りはチャイナタウンという事であったが、確かに周りは漢字表記ばかりであるし、歩いている人たちも華人がほとんどである。KLのチャイナタウンが期待はずれだった事もあり、こちらは歩いているだけでも風情があったものである。



途中、少しばかり場違いなセブンイレブンでポカリスエットを買っていったが、客に西洋人が何人かいた。そしてさらに北上していくと、いかにもイギリス植民地時代のコロニアルな建物がいくつもあった。香港ではこのような建物はほとんどが現存していないので、いかにもな建物を見かけるのは非常に新鮮だった。



 


ショッピングセンターから海沿いまでは1キロほどであり、公園に着いた所でしばし景色を堪能していった。決して綺麗な海ではなかったものの、KL市内では海を眺める事はできないために、この旅で初めて堪能出来たものだ。そこでしばらく休んだ後、今度は東側の道路沿いを南下してショッピングセンター側へと戻っていった。こちらはリトルインディアであり、完全なインド人街だった。途中、モスクもあり、一般人でも入れるようなのだが、もうローブを着て中に入るのは十分だと思ったので、外から眺めるだけで終始した。

 



特にこの辺りで買い物や、立ち寄る店などはなかったのだが、やはりコロニアル建築に、インドや中国の文化が混じり合っている、というのは、ちょっと大きなマカオといった感じでかなり楽しめたものである。マカオの場合はセナド広場程度であったが、こちらは街全体がそうなのだから、尚更だ。

 




飛行機の関係から、遅くとも1830にはここを後にしなければならなかったのであるが、この時点でまだ17時前と時間があった。そこで、到着した時から気になっていた高層タワーがあったので、それを調べてみると、中には色々なアトラクションや展望台がある、という事なので、そこで楽しんでいこう、という事にした。

 

 

前に触れたよう、ペナン島へは飛行機か電車の2択である。後者は当然KLセントラル駅から出ているが、片道で4時間半ほどかかるので、時間に余裕がない私としては飛行機しかない。しかし、当然空港まで逆戻りしなければならないし、搭乗手続きも電車のそれとは比較にならないほど面倒なので、それがペナン島行きを渋った理由である。

 

しかし、これ以上KLではやる事はなかったし、また何と言ってもGrabの使い方をマスターしたのも大きかった。ペナン島の空港からジョージタウンまでは車が必須なので、Grabが使えないと詰むのである。

 

という訳で、前回触れたように前日の夜に航空券を予約し、搭乗時刻1時間ほど前に空港に到着した。国内線なので当然手続きは簡素であり、チェックインカウンターに並ぶ必要もなかったので、パスポートを見せるだけであっさりと搭乗ゲートまでたどり着いた。そして、久々の窓側の席で景色を堪能し、予定通りにペナン島の空港に到着した。

 



一応、ペナン空港も国際空港ではあるのだが、非常に小さく出口まですぐである。あとはGrabを呼ぶだけなのだが、到着が1階、出発が2階に別れており、どっちで呼べばいいのか若干迷ってしまった。普通に考えたらそのまま到着口で呼べばいいのだが、タクシー乗り場などもあり、かなり混雑しているためにここで呼んだら見つからないのでは、と思った。

 

そこで2階へ行くと、こちらはかなり空いていた。しかし、今度は逆に出発口で呼ぶと言うのも変である。このおかげで数分迷う事になったのだが、地図をよく見ると1階と2階で道路がずれていたので、これなら分かるだろうと思いコンファームした。5分ほどで到着したが、途中ご丁寧にドライバーからメッセージが送信され、「どちらの出口か?」と尋ねてきた。ちょうど真横にマックがあったので、その隣と言うと、無事にご対面、そのままジョージタウンへと向かっていった。

 


ジョージタウンまでは大体30分ほどだった。その間の街並みを眺めていくと、ちょうどフィリピンの学校から、セブ中心街へ向かう時の街並みを思い起こさせたものだ。つまりはいかにも南国の途上国、といった感じである。ちょうど時間通りに、指定しておいたショッピングセンターに到着した。早速中に入っていくと、ほとんどの店員が華人であり、メイン言語も広東語。漢字表記こそ少なかったものの、なんとなく香港のDragon Centerを思い起こさせた。



 

 

この時にThe Tropical Spaで選んだのは、足ツボ60分と、ショルダーマッサージ30分で税込87リンギットというコンボだった。日本円で2800円ほど、近所のお店が同じ時間で5200円ほどだから、やっぱりかなりの割安感だと言える。今回は男性であったが、足ツボはともかく、ショルダーが思いのほか痛く、さらにされている間にお腹の筋肉までもが痛んだりしたので、本当にきつかったものだ。


まあ、それでおきながら後々に痛みが引く事はなかったのであるが、この容赦のない痛みというのは海外ならではのものである。その後はそのままアロー通りへと向かい、久々のエッグタルトや、マンゴージュースなどを食した。前にも触れたが、マンゴーはスイカに比べるとお腹への負担が軽く、実際にこれまでも事故は起きてはいないので、安心して飲める代物である。




この日は久々に旅らしい旅となり、さらにはGrabの使い方もマスターした事による安心感から、その夜に面倒という理由で行かないつもりだったペナン島への渡航を考え始めた。基本、飛行機か電車の2択であるのだが、後者だと4時間半はかかってしまうので論外、という訳で航空券を調べた所、エアエイジアで往復1万円ほどのチケットが見つかった。

 

時間帯によっては7000円台のもあったのだが、朝9時だと到底間に合いそうにないので、少しお金を払ってでも安全策を取る事にした。そして、行きは1250分、帰りは1955分のチケットを予約し、遂にペナン島への渡航を決めたのである。

 

そして翌朝、空港へは1時間前でも余裕で間に合うので、朝はいつも通りにサブウェイで食事を済ませてから行った。空港へは当然KLIA一択である。いくら55リンギットと割高であっても、後々の体力の温存などを考えたら高くても利便性を取るべきだ、というのが海外旅行の秘訣である。

 

そして、今回はエアエイジアの公式ではなく、Airpazと言うサイトから予約したのであるが、こちらからはオンラインチェックインが可能であったので、今回初めて使用した。当然、荷物を預ける必要もないし、イミグレーションもないので、実際は搭乗時刻にさえ間に合えば十分間に合ったという事になる。

 

ペナン島までは1時間という予定だったのだが、実際は東京ー大阪間よりも短いため、実質飛行時間は40分程度だった気がする。そして、久々の窓側だったという事もあって、離陸の瞬間などは動画に収めたものだった。