まあ要するに、初代タイガーはもちろんの事、旧UWF勢とジャパンプロレス勢がごっそり抜けた直後という、なんともタイミングの悪い時に新日本を見始めた、という事である。歴史を紐解けば、この年の6月には蔵前の暴動、アントンハイセルを元にしたクーデター事件など、新日本にとっては激動の年であった訳なのだが、もちろんそれらを知ったのは後年のこと。日本人選手のほとんどがショートタイツであった事も重なり、子供にとってはどうしても新日本の方が地味に映ってしまったのである。
まだ古舘伊知郎が実況の時代であったが、これに関しても「落日の闘魂は見たくない!」的な実況ばかりが印象に残っており、子供心にも猪木が下降線を迎えていたのは理解出来た。すでにデビューから24年が過ぎ、41歳を迎えていたのだから当然の話ではあるのだが、若さや勢いに関しては明らかに藤波の方が上に見えたため、私的には猪木に惹かれるような事はなかった。
なので、初の両国におけるブロディとの初対決も、私は当然テレビで見ていたはずなのであるが、私的にはセミで行われた藤波VSマシーン1号で、初めてテレビでドラゴンスープレックスを見た時の喜びの方が遥かに大きかったものである。これは姉が買ってきてくれたタブロイド版のカラー新聞(これが週刊ファイトなのか否かは記憶になし)でテレビ放送前に見たのであるが、当時は幻の技と言われていただけに、それを見る事だけが楽しみだったものである。
そして、その頃になると当時テレビ東京で放映していた「世界のプロレス」の方が楽しみになり、特にルチャ・リブレの大ファンになっていった。それに反比例するよう、新日本への興味は薄れていき、その後に記憶にあるのはあの9月の猪木VS藤波戦ぐらいだったかと思う。この時は祖父と姉と3人で見ていた記憶があるが、猪木のジャーマンを初めて見たのもこの試合だった。しかし、この試合では往年の美しいブリッジは見られず、その時に姉が言った「あんまり上手くないね」が今でも記憶にあるほどである。
猪木のジャーマンと言えば必殺技中の必殺技であり、そして当時はほとんど見る事もなかったので、見れただけでも嬉しかったのであるが、やはり子供心に思ったほどのブリッジではなかったのがショックだった。実際、後年にNJPWワールドで見直した時も同じ事を思ったし、猪木の歴史上でもワーストレベルのジャーマンであったかと思う。
しかし、試合自体は非常な名勝負であり、具体的な試合展開などは覚えてはいないとは言え、この試合だけは一部始終はっきりと見たはずである。猪木VS藤波という切り札、そして当時はヒール役や別軍団以外での日本人対決などは皆無であった事からも、やはりこれは見逃してはならないと思ったのだろう。
その後、ファミコンブームなどもあり、プロレスへの熱量は大分下がっていった。ただ、それでも旧UWF勢が戻ってきた記憶はあるので、そこまではまだ見ていたはずである。しかし、関節技を多用するUWFの試合は子供心には退屈極まりなく、またテレビだけのファンにとっては出戻りの理由も不明であったから、この辺りで完全に新日本からは離れていく事になってしまった。