追悼・アントニオ猪木・その4 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

前回述べたよう、UWFの業務提携時代はほとんど新日本を見る事もなかった。まあ、プロレス自体かなり下火であったし、流行り物に流される小学生時代であったから尚更の事である。金曜8時からの撤退は記憶にあるが、悪名高き火曜8時からの「ギブアップまで待てない‼︎」もほとんど見た記憶がない。

 

という訳で、その後自分が覚えている事と言えば、巌流島での決戦、そしてかの大暴動が起こった1987年のイヤーエンド国技館である。断片的に視聴していたので、事の顛末はその当時は理解出来なかったが、あのビートたけしが新日本のリングに上がっていた事ははっきりと覚えているし、そして猪木がベイダーにあっさりとフォールされた事も見ていて唖然としたものである。

 

今では何故か削除されてしまったが、数年前までWikipediaにおけるこの項目では「時代背景」という項があった。そこで当時は「プロレスを理解出来ない部外者に対する明確な拒絶反応があった」と言う解説がなされていたが、それは非常に的確であり、当時「元気が出るテレビ」や、「たけしのスポーツ大賞」などの冠番組を持ち、日本最大の人気者と言っても過言ではなかったあのビートたけしでさえ、両国の観衆から帰れコールを浴びていたのだ。

 

当時はまだいわゆる「Boo」というブーイングはなかったので、それに館内が包まれる事はなかったのであるが、おそらく相当辛辣な野次が飛んだはずである。そのおかげでたけしは相当プロレス嫌いになったと言われているが、数年後は再び「元気が出るテレビ」において「女子プロレス予備校」や、大仁田厚や山本小鉄さんらを準レギュラー的な立ち位置で呼んだり、プロレスから完全に切れる事はなかった。まあ、企画にテリー伊藤氏らがいたというのもあるのだろうが。

 

そして、翌年3月からは遂にゴールデンから外されてしまい、私もその頃は野球ばかり見ていたので、プロレスからは完全に離れていた。なので、両国でその後暴動が起こった事も、前田が新生UWFを旗揚げして大成功を収めた事も全く知らない。つまり、以前触れたよう、少年時代に見たアントニオ猪木は、古舘伊知郎が落日の闘魂は見たくない、と連呼していた以降の時代しか知らないのである。

 

まあ当時はリアル志向は皆無、とにかくアメリカンスタイルとルチャ・リブレばかりに目が行っていたので、猪木どころかほとんどの日本人レスラーには影響を受けてはいなかったのであるが、とにかく私自身が少年時代に影響を受けるような事は皆無に等しかったのである。