そして1989年7月、アントニオ猪木は夏の参議院選挙に立候補し、ギリギリで当選した。しかし、当然当時の私はまだ選挙権がなかったし、選挙特番なども見るはずもなかったので、滑り込みで当選した事を知ったのは大分あとの事である。当時すでに少なからずタレント出身議員はいたし、信者の数では比べようにならない猪木であれば軽く当選したものだと思っていたが、実はそうではなかった事に対して割と驚いたものである。
その理由としては、政党名ではなく猪木の個人名を書いた無効票が大量にあったというものであった。イコール初めて選挙権を得た人や、猪木で初めて投票にいった、という事の多さの証明かも知れないが、要はここでも時代が早かったという事である。そして、同時期だったかと思うが、空港でナンパしたと言われる3人目の奥さんと再婚なされたのもこの頃だったかと思う。ただ、この当時、一般的には1人目のアメリカ人の方との結婚はほとんど知られていなかったはずなので、ほとんどの人が倍賞美津子さん以来2人目、と認識していたはずである。
この頃に印象深い出来事と言えば、当時読み始めた隔週刊時代のファミコン通信に、「怪獣ひでごんす」こと柴田氏が大変な猪木信者であり、当時交代制でライターが書いていた日記に猪木の出馬の事が熱く語られていた事である。その号は手元にすぐに出せないので記憶に頼るしかないが、「人生の師、アントニオ猪木さんが参議院選挙出馬を表明した。(投票する事が)俺たちの猪木さんへの恩返しだ」のように、非常に猪木愛に満ち溢れた文章に心を打たれたものである。他の号においても、「獣神ライガーと佐野の試合を見れば、絶対にプロレスが好きになるはずだからね」などと述べていたり、とにかく私の読者時代に印象に残ったライターのひとりであった。
ただ、猪木が当選すれば当然セミリタイア状態となり、新日本の大きな看板が消えてしまう事になる。この年は時間帯的にも新日本の中継を見られる事は皆無だったので、単純に猪木がいない新日本はどうなっているんだろう、としか思えなかったものである。という訳で、議員になった時点で私の中でも猪木はプロレスラーよりも議員というイメージの方が強くなり、半ば引退したも同然の感じだった。
1990年の2月には、久々にゴールデンで特番が放映されるも、私はドラクエIVに夢中であり、ラテ欄に目を通す事もなかったので、当時はそれが放映されていた事実すら知らなかった。この年も中継を見る事は皆無だったものの、SWSの旗揚げ戦をテレビで見たり、そして年末の新日本の浜松からの特番で、多少はプロレスを見る事が出来た。数年のブランクがあったので、技などが随分と洗練された事、そして闘魂三銃士ら新世代の台頭なども相まって、リング上の風景が一新された事に新鮮な感激を覚えたものである。