追悼・アントニオ猪木・その2 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

しかし、その本を買ったのは日曜日、つまりその時点ではまだ新日本プロレスの放送を見ていない。という訳で、翌週に初めて新日本プロレスの中継を見たのであるが、この時は何故か両親の部屋で一部だけを見て、しかも新日本では珍しいバトルロイヤルが行われていた。こちらは現在新日本プロレスワールドにおいて視聴可能であるが、まさかこの試合がアップされているとは思わなかったので本当に驚いたものである。

 

つまり、これが私のリアルタイムにおける新日本の最古の記憶なので、はっきりと見たアントニオ猪木の試合は一体誰とだったのかは全く覚えていないのである。猪木絡みで一番古い記憶が、当時未知の強豪とされた「キングコング・バンディ」とのボディスラム賞金マッチなのであるが、彼が初来日を果たしたのが1985年になってからの事なので、その時点である程度試合を見ていた事は間違いなく、それが初めてではない事も確かである。

 

ただ、試合ではあやふやなのであるが、それ以外ではっきりと猪木をテレビで見た瞬間は覚えている。それは、同月に放映された「欽ちゃんのどこまでやるの」、通称「金どこ」にゲスト出演した時の事である。佐山聡が出演したのはYouTubeで見る事が出来るが、これに関してはビデオにも録っていなかったので見たのはそれっきりだ。しかし、当時幼かった私が、出演者、おそらく見栄晴氏の「アントニオ猪木さん」の呼びかけで、満面の笑みを浮かべて猪木が出てきた瞬間の事は今でもはっきりと覚えている。「猪木だ!猪木だ!」と喜んだ記憶があるが、まだ何も知らない子供ですら魅了してしまうスーパースターの笑顔がそこにあったのだ。

 

そして、最近になって東スポが、なんと旧UWF時代の前田日明が、試合後のホテルでこの放映を視聴していた事を写真付きで記事にしていた。当然、私がこの件の記事自体を見るのも初めてだったし、テレビに映る猪木の姿を嬉しそうに見ている前田の姿も嬉しかったものである。

 

という訳で、私がはっきりとアントニオ猪木の姿をテレビで認識した初めての記憶は、実はリング上ではなく一般のテレビ番組であった。そして、そこから何故キングコング・バンディまで飛んでしまうのか、というと、子供心にNWAやAWA大物が常に来日していた全日本プロレスの方が華やかに見えてしまったからである。

 

そして、1984年の夏まではかのコロコロコミックですら扱っていた藤波、長州の名勝負数え歌であったのに、主役の1人であるはずの長州力とその一派の連中の姿が新日本の中継からさっぱり姿を消していた事も子供心に謎だった。当時、金曜8時にテレビに出る日本人選手と言えば、猪木、藤波、坂口、木村健悟、そしてたまに星野勘太郎と言った程度で、全日本に比べると子供心にもその手薄さは気づいたものである。