1992年3月1日には、猪木の生誕地である横浜アリーナにおいても記念大会が開催。この時は木戸修と組んで、長州力・木村健悟組とのメインであったが、体調が芳しくなかったようで1.4ほどの名勝負とまではいかなかった。6月には大阪城ホールで、馳浩と組み、ブラッド・レイガンス、ムッシュ・ランボー組と対決。この時は久々に反りが決まったバックドロップまで繰り出すなど、コンディションは良さそうだった。しかし、とどめは延髄斬りでも卍固めでもなく、スリーパーホールドだった。
この頃はプロレス界全体にスリーパーホールドがやたらと流行っている印象であり、全日本でも鶴田や川田がしょっちゅう使っていたものである。猪木自身はかつての藤原喜明戦や、イリミネーションで高田に極めた試合など、割と前から使っていたので、全日本の影響ではないとは思うのだが、前述の試合以外では滅多にそれで決める事はなかったので、この辺りからやたらと使い出した印象である。
その年はその3試合で終わったのだが、その年の秋から天龍源一郎率いるWARとの対抗戦が開始された。そして、猪木戦をアピールしていた天龍は、11月の両国2連戦のメイン終了後に猪木から「お前たちが勝った方に俺が挑戦してやる!」との啖呵を吐き、その流れで1.4のメインが長州VS天龍という形になっていった。
その猪木は橋本と組んで、外国人組と試合をする予定だったのだが、ジョギング中に足指を骨折という理由で欠場してしまった。メインでは天龍が勝利したが、3ヶ月後に行われた再戦で星がイーブンとなり、5月の福岡ドームのメインにおいて猪木藤波VS長州天龍が実現した。初の福岡ドームという事もあってか、他のカードも超豪華であり、関東のファンからしたら羨ましいの一言だったものである。なので、GW中だった事もあり、遠征組もかなりいたはずと思われる。
ただ、この当時の新日本は話題性重視であり、現在とは真逆で客席さえ埋まれば内容は割と2の次という感じだった。なので、豪華カードの割にはさほど見直した記憶はない。結局、印象に残っているのはマサ斉藤のオープニング、藤原喜明の涙、そしてのちに橋本の前奏として使われた福岡ドーム大会のテーマぐらいのものだった。
そして、その試合を最後に、しばらく猪木の姿はテレビ中継からは消える事となる。何故か、それは世の中を揺るがす空前の金銭疑惑が起こったからである。