当時の恒例であった9月の横浜アリーナ大会において、猪木VSルスカ戦が行われた。この時は当然会場まで足を運んだ訳であるが、運営側の手違いにより、煽りBGMの時に間違ってルスカが入場してしまって会場に微妙な空気が流れたものである。全日本では入場曲がかからなかったミスが何度もあったが、新日本では珍しかっただけに水を差された感があった。
しかし、そんな空気も猪木入場で払拭され、猪木が逆に絞め落とされた時は緊張感が走ったものの、最後は久々のトップロープからのニードロップからのスリーパーが決まって会場は大興奮に包まれた。その後、平成維震軍の自主興行が東京ベイNKホールと言う微妙な会場で行われ、そのメインの越中VSTJシンの特別レフェリーとして猪木が参戦した。
この試合は普通に放映された、つまり93年5月の福岡ドーム以来アントニオ猪木がワールドプロレスリングの電波に乗ったのである。これでようやく自粛が解除されたと多くのファンは悟った。そして、1995年の東京ドームであるが、こちらは前年までと比べてもかなりカード編成に苦労した感があり、まだまだ猪木の商品価値は必要だった。
そこで行われたのが、カウントダウン3rd格闘技トーナメントと言うこれまた謎な試合形式である。猪木はなんと1回戦でゴルドーと対戦し、もちろんスリーパーで勝利したとは言え、どこかで負傷した猪木は試合後にもう出たくないと泣き言を言ったそうである。しかし、周りは「次はプロレスラーのスティングだから絶対に無理はさせません」と必死に説得、なんとか決勝が開始された。
当然、再び「炎のファイター」に乗っての登場だったのであるが、なんとガウンなしでしかも足を引きずっているようにも見えたので、会場が騒然としたものである。その理由は前述の通りだったのだが、当然そんなことはまだ知る由もなかったため、皆不安に駆られたものだった。案の定、試合では全く動けず、最後にスリーパーでスティングを落としての勝利となった。