追悼・アントニオ猪木・その17 | ONCE IN A LIFETIME

ONCE IN A LIFETIME

フィリピン留学から人生が変わった一人の男のお話です。

3月には藤原喜明との4thカウントダウン戦が行われ、そして4月下旬にはあの北朝鮮での興行が開催。正直、当時の私は海外の事に関しては全くの無知であり、当然日本と北朝鮮の関係なども知らなかった。この頃はまだ金正日が日本人拉致を認めてもいない頃でもあったため、この興行に対する世間からのバッシングもなかったかと思う。

 

しかし、当然当時でも容易に入国は出来ない国である事は間違いはなかったため、ここぞとばかりにテレ朝のニュースステーションのスタッフも現地入りし、当時まだキャスターだった小宮悦子さん自身が現地リポートをしたものである。しかし、メインである試合に関しては、まだ久米宏が現役だったがためにリングだけが映され、それ以外の詳細に関しては全く触れられる事がなかった。

 

2日に行われたこの大会は、2日目のみに猪木が出場したが、それ以外のカードもそれなりに豪華であったかと思う。特に全女絡みの試合などは目を引いたものだが、あいにくテレビ放映は一切されず、されたのはそのメインの猪木VSフレアーぐらいであったかと思う。1980年代には考えられなかった猪木VSフレアーと言う、プロレスの達人同士の夢の顔合わせであったが、ドーム級のカードを異国、しかも北朝鮮で行われたというのは正直勿体なかったという気持ちにさせられた。

 

また、日本のファンにとってフレアーは反則かリングアウト絡みの印象ばかりが強かったため、一本勝負で綺麗にスリーカウントを取られたのを見たものこの時が初めてだったかと思う。当然、フレアーならではのわざとらしい受け身であったが、大イベントを締めるに相応しいカードだった。

 

直後の福岡ドームでは北尾と組んでの出場だったが、正直あまりにも印象に薄い試合であり私もほとんど記憶にない。北尾と組んだ経緯も良く分からないぐらいである。そして、前述の北朝鮮興行でこしらえた大赤字を埋めるため、新日本は長年の怨敵であったUWFインターとの対抗戦を画策、G1クライマックスの試合中のテロップで知った私は大変な衝撃を受けたものだった。