引退試合が発表されてからの唯一の試合である、正道会館の角田信明氏とのエキシビションマッチが3月の愛知県体育館にて唐突に組まれた。正直、一応エキシビションとは言え、このタイミングでしかもプロレスラーではない外様の選手と何故新日本のリングでやらなければならなかったのか今でも全く意味不明である。これでは新日本の選手の立場がないのでは、とも思ったし、正直個人的には複雑な気持ちだった。
そして、当然引退試合の実況は古舘伊知郎氏が行う事が遥か以前より2人の間で決定していたので、メイン実況の辻よしなり氏にとっては最後の猪木の実況でもあった。さらに、引退試合の直前に、当時テレ朝が放映していた午後6時台のニュース番組に、猪木がゲスト出演して心境を語った。ちょうど司会が、当時はまだバリバリ一線で活躍、かつプロレスファンである田代まさしであったのだが、引退を決めたのはたまたま4月4日が空いていたから、と言うだけの事だったと言う。
それが本当だったのかどうかは知らないが、この頃はゴマシオこと永島氏曰く、「ドーム興行を増やさないと会社が持たなくなってきた」とのちの著書で触れているし、また4月のドームが前年から恒例化していった事からも、元々抑えていたのは間違いはないはずである。カウントダウンもそれなりに進んだし、ちょうど潮時だと判断したのだろう。
引退試合はさすがのテレ朝もゴールデンタイムでの放映となり、翌々日の月曜午後7時から2時間枠での放映となった。しかし、この時代の月曜日の裏番組はかなり手強く、視聴率は確か10.4ぐらいだったかと記憶している。まあ、視聴習慣と言うのはなかなか変わらないし、マニアはビデオに録画するので唐突に放映した所でこの程度かも知れないが、それでも天下のアントニオ猪木の引退試合がこの程度とはショックだったものだ。
肝心の引退試合自体は、大方の予想を裏切り3試合目のドン・フライとなり、 しかも4分9秒という非常に短いものだったため、番組の大半は猪木の生涯で終えたものである。ただ、当時はYouTubeとかはなかったので、ダイジェストとは言え全盛期のカッコいいアントニオ猪木が流れただけでも嬉しかったものだ。石橋貴明氏もインタビューに答えていたが、名勝負にフルタイムのドリー・ファンク・ジュニア戦を挙げていたのはさすがである。