1992年初頭の段階ではまだ長州力がIWGP王者であり、名実共に新日本のトップであったので、まだ若手同士が大会場のメインを張る事は多くはなかった。NWA王座が賭けられた第2回目のG1クライマックスは、前年とは異なりWCW勢も参加のトーナメント戦となり、当然橋本は優勝候補として挙げられたものの、なんと2回戦において伏兵リック・ルードにまさかピンフォール負け。
この際のフィニッシャーはトップロープからのダブルニードロップであったのだが、本来アメリカで使用していた必殺技はルード・アウェイクニングと名付けられたショルダーネックブリーカーであったので、おそらくだがそれでは日本では説得力に欠けるために、あえて日本用に別のフィニッシャーを用意したのでは、と勝手に推測している。
そして、橋本とは対戦はなかったものの、このトーナメントにはまだブロンドの長髪をなびかせていたのちのストーンコールド・スティーブ・オースチンが参戦していたのはあまりにも有名だ。まだデビューして3年ほどであったはずだと思うが、マサ斎藤や馳浩からの評価は極めて高く、いずれトップに昇り詰めるだろう、と予測していた。それは結果的にその通りになるので、今思えばさすがだなとしか思えないが、それでもあれほどのスーパースターに昇り詰めるところまでは誰も想像出来なかったはずである。
結局、この年も蝶野が優勝し、橋本はその後のG1スペシャルにおいて蝶野と組んでスタイナーズと対戦するも敗北、そして同期の武藤敬司は、その日のメインでグレート・ムタ名義ながら長州力を倒し、三銃士の中では最も早くIWGP王座に輝く。同時期、三沢光晴もスタン・ハンセンを破り、遂に三冠王者に輝くので、いよいよプロレス界が新時代の到来を告げた時でもあった。
ただ、前述のよう、IWGP王座に輝いたのはあくまでムタであり、武藤敬司ではなく、今でも公式ではグレート・ムタとなっている。当然、その後の防衛戦も全てムタとして行われたので、ファンとしても素顔の武藤がベルトを取った、と言う認識とはならなかった。どうしてこのような形で戴冠が行われたのかは今も分かってはいないのであるが、長州的にはまだあいつらに取らせるのは早い、でも自分や藤波が王座のままでは興行的な変化に乏しい、とでも思ったのだろうか。
まあ、この後何の前触れもなくWARとの抗争に突入し、11月には遂に天龍源一郎が新日本のマットに登場するので、ベルトがない方が身軽に動けるというのもあったのかも知れない。しかし、三銃士にダイレクトに王座は明け渡したくはない、なので一旦異端児とも言えるムタに渡してワンクッション置き、それから改めて三銃士を戴冠させる、的な構想だったのかも知れない。