10月には当時恒例だったSGタッグリーグ戦が開催され、武藤は当時良くタッグを組んでいた馳とのコンビで出場した。が、すでに既出の通り、この時期はほぼ毎週レベルでゴルフ中継に取って代わられたため、見ている側としても今一つ乗り切れないシリーズだった。それに加えて、当時はまだ全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦が圧倒的な歴史とブランド力を持っていたので、これだけは新日本が破る事の出来ない壁であったかと思う。
辛うじて、決勝の両国だけはテレビ中継されたものの、当時超満員と言えば11500人と言う数字が当たり前だった時代に、この大会は11000人となっている事からも、チケット完売はならなかったのだろう。田中ケロ氏曰く、選手は頑張っているし会場自体も盛り上がっている、と旅日記に記していたが、やはりテレビ中継の少なさはいかんともしがたかった。
そして、この大会における優勝チームがこの武藤と馳であった。定番タッグチームの少ない新日本の中で、この2人はIWGPタッグ王座に輝くなどそれなりに実績も残していたので、まあ納得の出来る結果であったかと思う。ただ、私自身もこのSGタッグはあまり注目していなかったのは確かなので、正直リアルタイムでの記憶はほとんどない。
年末には橋本の所で触れたように、武藤は橋本のIWGP王座へと挑戦する。29分弱と言う、当時の全日本でもなかなかなかった試合タイムであり、毎年この時期に行われる愛知県体育館や、大阪府立体育会館の試合は名勝負が多かった。
1994年の1月4日は、馳と組んでスタイナーズと対戦したのだが、実はこの時が武藤敬司として出場した初のドームだった。この頃、雑誌のインタビューなどで「武藤敬司の商品価値はムタより下」と常々語っていたので、ようやくその商品価値が上回った記念すべき日と言えた。イコール、ドームで初めてHOLD OUTが響き渡った日でもあり、当然の如くドームで初の武藤コールも鳴り響いた。
ぶっちゃけ言うと、当時の認識で言うとドーム大会イコールムタの試合が見られる、と言う感覚であっただけに、少し残念だった気持ちがあったのも確かである。ただ、試合自体は非常に盛り上がり、さらにこの日はスコット・スタイナーのスタイナースクリュードライバーが初披露された日でもあった。途中までは垂直落下式ブレーンバスターの型だったので、別にざわつきもなかったのだが、その瞬間から一気に逆ツームストーンのような形で落ちた時は、ドームが一斉にどよめいたものである。